[この一枚 No.54] 〜スメタナ四重奏団/ベートーヴェン:弦楽四重奏曲全集〜
30年以上も前の話だが、ある気持ちの良い秋の朝、ヘルツォーク氏と私は一緒
に神戸の山手地区を散歩していた。昨夜、神戸文化ホールで行われたスメタナ四重奏団のライヴ録音が上首尾に終わったこともあり、二人とも上機嫌だった。 すると、英語で「教えてくれないか?神社とお寺の違いはどうすれば見分けられるんだい?」との質問が聞こえてきた。瞬間、私の頭の中は真っ白になった。 「えっ!天照大神とシャカの生涯はうまく説明できないし、神社の鳥居とお寺の仏像や鐘はなんて言うのだっけ?さらに、宗教については日本語でも説明するのは難しいのに、まして英語で?」快適な筈だった朝の散歩は身振り手振りも交えた冷や汗の苦行に変わっていた。 75年以降の数々のスメタナ四重奏団のデジタル録音で一貫してディレクターを務めたのはドクター・ヘルツォークだった。第五のスメタナ四重奏団員と呼ばれ、モニタールーム中央で団員に囲まれてプレイバックを聴きながら、眼光鋭く、しわがれ声で演奏や音楽の方向性について果てしない議論を重ねていた。また、議論の最中も片時も煙草を離さないヘビー・スモーカーでもあった。しかし周囲を威圧するではなく、暖かくフォローする。そんな人柄でもあり、メンバーからの信頼は絶大だった。 そんな彼は私の苦行に気付いてくれたのか、神社とお寺の話題はお茶を濁した説明で勘弁してもらって、再び快適な散歩に移っていった。 スメタナ四重奏団は72年4月、モーツァルト:弦楽四重奏曲で世界初のPCM録音を行って以来、89年の解散までの17年間に日本コロムビアとスプラフォンとの共同制作、またはスプラフォン・レーベルに合計30枚以上のアルバムをデジタル録音しているが、中でも、76年から85年の10年間に渡るベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集、全16曲の録音は彼らの演奏の変遷だけでなく、デジタル録音初期の録音機の進歩・開発を辿れる貴重な作品となっている。今回はデジタル録音機や録音会場の違いという面からもこの全集を取り上げてみる。 最初の作品18から第2、4番の録音は76年6月、第4回PCMヨーロッパ録音の一環としてプラハ旧市街から東方向のジシコフ地区にある古いホテルの舞踏会場(ボールルーム)を改修した録音スタジオで行われた。このスタジオは木製の床と漆喰の天井、大きなガラス窓に包まれ、こぢんまりした暖かな響きがするが、ホテルのホールをそのまま使っているので外部騒音の遮音性能は良いとは言えず、初夏にはガラス窓ごしに小鳥の鳴き声が音楽と一緒に聞こえてくる。そんなときはエンジニアが机からピストルを取り出し、走ってバルコニーに向かい、空砲を放って小鳥を追い払って録音が続けられることが屡々だった。同時期に録音したモーツァルトの弦楽五重奏曲第3番、第4番にも小鳥の鳴き声が小さく聞こえる。 当時の録音機は第1回ヨーロッパ録音から引き続き使われている13ビットのAD/DA変換器を備えた2号機と呼ばれるもので、モニタールームに隣接した別室は録音機やテープなど併せて1トンにもなる機材で埋め尽くされた。 録音と並行して日本コロムビア録音部では次世代録音機の開発を進めていた。 この頃から世界的にデジタル機器の開発が盛んになり、デジタル部品の性能は急速に向上し、反対に価格は下がってきた。より品質の高いAD/DAを録音機用に購入しても高かったが、驚く金額ではなくなった。 77年3月、パリで開かれた世界的なオーディオ学会(AES)で14ビットに性能の向上した録音機、通称3号機が発表され、そのままプラハに持ち込んでスメタナ四重奏団の2枚目のベートーヴェンの録音が行われた。この3号機は骨太の力強い音が魅力的で、作品18の残り4曲にその音色が窺われる。 翌78年には旧東ドイツ・シャルプラッテンと共同で待望のオーケストラ録音が開始される。3号機と日本人スタッフは共産圏ヨーロッパ内をプラハ、ベルリンと移動、さらにオランダ、フランスなど各地で録音を行い、レパートリーを拡充していった。この東ドイツ録音の開始は他の録音日程に様々な影響を与えることになった。1台しかないデジタル録音機を各国の録音現場に、効率よく移動させるためには、まずオーケストラ録音日程が最優先、次にスメタナ四重奏団、スーク・トリオの録音日程、そしてその間に西ヨーロッパでの録音を組み込む、というパズルを解くような作業と交渉が日本コロムビアの制作には求められたし、演奏家にとっても、自分達の都合だけで録音日程が決められないことになってきた。 また、78年からはスーク・トリオのドヴォルザーク:ピアノ・トリオ全集の録音会場でもある映画館を改修した、やや響きの少ないドモヴォーナ・スタジオでベートーヴェンの録音も行われるようになり、ジシコフ・スタジオの空砲はもう聞かれなくなった。 さらに、80年に開発された録音機は16ビットにグレード・アップし、記録テープもトイレット・ペーパーのような幅広い2インチテープから弁当箱のようなU-マチックとなり、より機材の移動が簡便になった。 当時、世界各地の録音スタジオに導入されはじめたソニーのプロ用録音機は16ビット、2チャンネルの性能だったが、日本コロムビアの最新機(4号機)はやや大振りながら16ビット、4チャンネルの録音機であった。この録音機は今までの自社限定使用ではなく、他社への売り込みも併せて行われ、まもなくスプラフォンに同型の録音機が納入された。 4号機がスプラフォンに引き渡されて以降は、スメタナ四重奏団の録音は日本人スタッフが機材をプラハに持ち運ぶことなく、演奏家の都合に合わせて年数回行われるようになった。また79年からは録音会場もチェコ・フィルの本拠地でもある広い、良く響くドヴォルザーク・ホールに変わった。 初期の作品18の6曲を終えて、中期以降は作曲年代順に進められてきた弦楽四重奏曲の録音が後期に進むにつれ機材の高性能化は進んでいったが、一方で43年に結成されたスメタナ四重奏団のメンバーの年齢が高くなり、それぞれの体調管理が難しくなってきた。中でも最高齢のチェロのコホウトの衰えが音に現れて来始めた。四重奏団の壮年期との音色の違いは70年前後に行われたアナログ録音と比較すると理解していただけるだろう。 80年代、チェコからスメタナ四重奏団の録音済み素材テープと楽譜が届いて、編集作業を行う度に「少し輝きを失ってきたな」と感じられた。しかし、編集を終え、マスターテープを通して聴くと「音色の衰えを超えて、メンバーの音楽への思いが伝わってくる演奏だ」と感服した。 今回、改めて全曲を聴き直すことで個々の録音機の性能、演奏会場、また演奏家の加齢による音の違いが感じられたが、その違いを超えて、一貫した演奏家のベートーヴェンへの敬意の念と、まるで上質の木綿のように暖かく、思慮深い演奏が強く印象に残った。 ベルリンの壁が崩れ、自由化の風が東欧を吹き抜けた直後の91年秋、クーベリック/チェコ・フィルの録音のために久しぶりにプラハを訪ねた私はチェコのスタッフを介して15年ぶりにヘルツォーク宅を訪ねた。前回と同じように夫妻で暖かく迎えてくれた彼は日本の印象を「最初の訪日では、なんと生魚臭い国なんだ、と嫌だったが、様々な文化やスシなどの日本料理に触れ、2度目の来日ではとても好きになったよ」と笑顔で語ってくれた。 スメタナ四重奏団が残したデジタル録音のベートーヴェンには高い音楽性と知性を備えた五人目のメンバー、ヘルツォークの優れたプロデュースがあることを忘れてはならない。 (久) |
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