[この一枚 No.56] 〜ミシェル・ベロフ/ドビュッシー:ピアノ作品全集〜
以前、ドイツに住んでいる日本人からこんな話を聞いた。「家のカーテンを新調したとき、カーテン・マイスターと称する親方が弟子の職人と共に来て、取り付けの指図をし、最後に自ら手直しを行っていった。取付料金は高かったけれど、仕上がりは申し分ないものだった。マイスターとは凄いんだね。」 また、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の中では靴職人のマイスターと呼ばれる親方、ハンス・ザックスが活躍している。 この2つの逸話にあるように、ドイツの手工業は中世からマイスターと呼ばれる親方と徒弟という職人組合制度が作られ、今日まで製品の品質の高さを維持している。20世紀半ばに急速に発展した映画、放送、レコード録音の分野でもこのマイスターという仕組みが導入されたのも不思議でない。1949年には西ドイツで最初のトーンマイスターがデットモルト音楽大学で誕生し、翌年にはドイツ・トーンマイスター連盟が発足している。 直訳すると音の親方、トーンマイスターとは音楽(クラシック音楽、またはそれ以外の音楽ジャンル)に精通し、また音響学(電気、楽器、建築など)にも造詣が深く、音楽家と対等の立場で話し合いができ、映画、放送、レコード録音などの現場を仕切る、いわば、ディレクターと録音エンジニアを兼任できる人と言えるだろう。旧西ドイツではデットモルト、ベルリン芸術大学に専攻科があり、デュッセルドルフでは音楽大学と工科大学両方の課程を修了すればトーンマイスターの称号が与えられた。 ヨーロッパではドイツを参考に隣国オーストリア、スイス、オランダ、フランス、そして英国にも類似のトーンマイスター教育課程が大学などに作られている。 1960年生まれの金髪のドイツ人、ゲルハルト・ベッツ(本人の手作り名刺では日本名:別津春人)がデットモルト音楽大学のトーンマイスター課程を修了し、日本文化と黒髪に惹かれて東京芸術大学の聴講生として来日したのは1980年代半ばだった。 当時の東京芸術大学音楽学部は音楽家の養成には熱心だったが、録音制作など音楽を取り囲む周囲の環境への人材育成には関心が低かったので、彼の足は大学からクラシック制作を熱心に行っている日本コロムビアに向き始め、洋楽部やスタジオに入り浸った。 ドイツ男性のイメージである「たくましく、強面」とは正反対に小柄で細く、チーズと生野菜が大好きで、たどたどしい日本語を話す、この草食系男子はいつしか周囲から「ベッちゃん」と呼ばれていた。 デットモルトではフィリップスの名トーンマイスター、フォルカー・シュトラウスが教壇に立ち、無指向性と単一指向性マイクを束ねて用いる、いわゆるシュトラウス方式と呼ばれる録音方法などを教えていた。ちなみに、当社のイングリット・ヘブラーのモーツァルト・ピアノ・ソナタ全集の録音を行ったトリトヌス・スタジオのアンドレアス・ノイブロンナーもこの学校の卒業生で、この録音はシュトラウス方式で録音されている。 ベッちゃんは当社開発の最新のデジタル録音機とハードディスクを用いた編集機、またB&Kマイクの使用方法に大変な興味を抱き、編集機の操作を教えると楽譜と首っ引きになり、完成度の高い音楽作品を作り出すことに一生懸命になっていた。 その後、離日したベッちゃんは当時ドイツに駐在し、一人でヨーロッパ中を録音機を携えて駆け巡っていた高橋君の勧誘もあって、1990年頃にDENONドイツに入社した。また、数ヶ月前には1歳年下で、デュツセルドルフでトーンマイスターの資格を得たホルガー・ウアバッハが入社しており、ドイツ人トーンマイスター二人と日本人技術者一人というDENON録音隊の形が出来上がった。 ベッちゃんは自らもピアノを弾くことが大好きなこともあり、アファナシェフの録音を担当するなど、ピアノ音楽録音を得意としていた。さらに夏休みにはフランスで語学研修を受講するなど、フランス文化に憧れと理解を持っていた。 1994年、そんな彼にミシェル・ベロフでドビュッシーのピアノ作品全集を録音するという大きなチャンスが訪れた。 1950年生まれのベロフは二十歳前にメシアンのピアノ曲でEMIからデビュー、その作品は世界的評価を得て、瞬く間に世界的ピアニストの一人として数えられるようになった。だが右手の故障によって80年代にはピアニストから指揮者への転向を考えていた。しかし、アルゲリッチの推薦もあり、アバドとのラヴェルの左手のための協奏曲のソリストとして復活し、また右手の故障も回復して、本格的な活動を再開した直後に企画されたのがこの録音だった。 ベッちゃんは録音会場に多くの録音で用いている、響きの美しいスイスのラ・ショー・ド・フォンのムジカ・テアトルを、またピアノ調律師には世界的演奏家が録音時に依頼するロバート・リッチャーを選んだ。 94年から97年にかけて行われた全5枚の録音すべてのディレクターをベッちゃんが担当し、録音エンジニアは1.2枚目が井口、3枚目の後半は自らが録音も担当し、4,5枚目はウアバッハが行っている。 3枚目の後半からは会場がフランクフルト、ハノーファーに移り、また調律師も変わったが、全体の音楽性、また透明な音質の統一はとれており、例えるならば「明晰ならざるもの、フランス音楽(ドビュッシー)にあらず」とでも呼べる高い完成度に達している。 ドビュッシ−のピアノ作品に付けられた標題に過度に流されない、客観性の高い演奏は「ベロフの復活」として世界的に高く評価されたが、バブルがはじけた日本経済の影響を受けた日本コロムビアは海外でのCDビジネスの縮小、撤退を余儀なくされ、CDは欧米市場からは消えてしまった。 ドビュッシーの記念すべき年にあたる今年、ベロフの、またベッちゃんの傑作でもあるこの作品が再び海外の音楽愛好家の元に届くことを切に願っている。 (久) |
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