[この一枚 No.60] 〜シェレンベルガー&ビルグラム/オーボエとオルガンのための作品集〜
1974年12月、第1回PCMヨーロッパ録音の最後にドイツ、シュトゥットガルト福音派金教会でヘルムート・リリングのオルガン演奏(バッハ:オルガン名曲集、教会暦によるオルガン・コラール集)が2枚分録音された。
この録音でデンマークの録音エンジニア、ピーター・ヴィルモースが用いたある機材に、同行していた日本コロムビアの録音スタッフ、穴澤と飯田の2名は注目した。それは高さ10m近くまで伸びる、イタリア、マンフロット社製の軽くて折りたたみ可能なアルミのマイクスタンドであった。 マンフロット社はカメラ周辺機器のメーカーとして知られ、日本でも撮影スタジオの照明用として何種類かスタンドが販売されていたが、ヨーロッパのように天井画にライトを当てる、という高い所への需要が少ないためだろうか、日本にはこの高さまで伸びるものは輸入されていなかった。 オルガンの録音では何故この高さのマイクスタンドが必要なのだろうか? ヨーロッパの古い教会では、通常オルガンは祭壇に相対する教会の入口の上に備え付けられている。教会の入口の扉の高さが3mから5mもあり、その上の2階にある手鍵盤、足踏みペダルを挟んだオルガンケースの中に左右交互に太い、細い、長い、短いなど、様々な音色を出すパイプが据え付けられている。 通常、オルガン録音ではマイクは唄口を狙え、と言われている。そうなるとオルガン正面の唄口の列は床から5m以上の高さとなるため、国産のマイク用スタンドでは届かない。また、天井から吊り下げるとなると、最適なマイク位置に天井穴が開いていないなど、配置が難しい。 また、オーケストラ録音では、ホール備え付けの吊りマイク設備の制約されることなく、好きな位置にメインマイクを据え付けられるなど、この伸びるスタンドはまさしく欲しかった夢の機材だったので、早速ヴィルモースの手引で数種類のスタンドを購入し、日本に送った。 筆者も76年から何回か、ヴィルモースと一緒にオルガン録音に携わったので、マイクセッティングを紹介しよう。当時はショップス・マイクをマイクスタンドのステレオバーに取り付け、ケーブルを床に垂らす。同時にステレオバーには数本のナイロンテグスを結んでおく。そして真上にマイクスタンドを伸ばしてゆくのだが、最初は軽くても高くなってゆくとケーブルの重さも加わって相当な重量となり、数人がかりで持ち上げなくてはならない。また高くなるとマイク部分が少しずつたわんでくるのでステレオバーに取り付けたテグスを前後左右に引いてたわみを戻し、マイクスタンドの足下には重しや椅子を転倒防止用に置く。これが基本のセッティングだが、マイク位置が決まらない場合、そのままゆっくり前後に動かすか、いったんマイクを降ろして位置をずらし、また持ち上げることになる。 教会を録音のため占有できるならば良いが、多くの録音の場合、そうはいかない。まず大切な教会行事による中断である。日曜ミサや結婚式は前もって予測がつくが、葬式が急に入ると慌しく片付け、式終了後に再度のセッティングを行うなど、まさしく録音スケジュールの練り直しである。 加えて、交通騒音による中断がある。教会のスタンドグラス1枚向こうは道路や学校だったりして、録音スタジオやホールのように外部騒音に強い建物ではない。よって昼間の時間帯は録音できないことが多く、終バスから始発までの深夜の録音がしばしばである。夜出かけ、朝方帰る日本人達を見てホテルのフロントマン達はどう思っただろうか? さて、今回のアルバムについて紹介しよう。 モーツァルト没後200年記念の1991年には世界、各国で彼の様々なCD、映像作品、書籍が発売され、各地でその作品が演奏会で取上げられた。 中でも、モーツァルトの生誕地ザルツブルクでの夏の音楽祭シーズンには、世界中から多くの観光客が押し寄せ、お土産店には200年記念のグッズがあふれていた。 そんな時期にこのアルバムの録音はザルツブルク近郊の町、ザンクト・ギルゲンの教会で行われた。ここは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の冒頭シーンのような、周囲をオーストリア・アルプスの高い山々と湖に囲まれた美しい小さな町で、モーツァルトの母が産まれ、姉ナンネルの嫁ぎ先であることでも知られている。 幸い、録音会場となる教会は街中でも奥まったところに位置していたため、周囲の騒音は大きくなく、昼間の録音でも殆ど影響を及ぼさなかったし、また日本ではサントリーホールのオルガン製造者として知られるリーガー社のこじんまりしたオルガンは前年に納められたばかりで、楽器のコンディションは上々だった。 1981年ベルリンでのモーツァルト/オーボエ四重奏曲でデンオン・レーベルに登場した当時ベルリン・フィルの若き首席オーボエ奏者ハンスイェルク・シェレンベルガーは、その後イタリア合奏団との共演や数々のソロやアンサンブルのアルバムの録音などで、この頃にはすっかりデンオン・レーベルの木管奏者の、またカラヤン後のベルリン・フィルの顔となっていた。 この「オーボエとオルガンの共演」という渋い、落穂拾いのようなアルバムは現在ならば販売予測から録音許可の下りないものだろうが、演奏家、会場、楽器使用料などの経費が少ないことや、またアーティスト行政上からも必要ということで許可が下りたのではないだろうか? いま、この曲目を眺めると、シェレンベルガーの企画意図が良く見えてくる。ミュンヘン音楽院の師コルンやマルタンの二十世紀の作品、またロマン派の作曲家ラインベルガーの佳作「羊飼いの歌」(まるでシューマンの作品のような、このアルバムの中で最も美しい曲!)を録音したいが為に、前半にバッハやテレマンの編曲、さらにオルガンのためにクレプスなどのバロック音楽を盛り込んだのだと。 東京本社の録音許可が下りると、細かい事前打合せ、また録音進行はシェレンベルガーとデンオンのドイツ人トーン・マイスター、ウアバッハの間で進められた。 前日にザルツブルク経由で現地に入り、午後録音準備。重いB&Kマイクをステレオバーに付け、マイクスタンドを二人で持ち上げたが、教会が小さくて、床からオルガンの唄口までの高さがあまりなかったため、高く持ち上げずにすんだのは幸いだった。翌朝はマイクテストを行い、午後から本番。そしてプレイバックの後、取り直し部分の収録を行う。そんな淡々とした、雨模様の3日間が過ぎ、最終の8月1日も午前中で録音は終了した。また、機材を片付けなくてはならない緊急の行事は入らなかった。オーボエとオルガンの演奏も音色も素晴しく、まさにシェレンベルガー絶頂期の録音であった。 昼食の後、ウアバッハと二人で機材の撤収を行っているところに、突如日本人の団体が教会内に入ってきた。この会場は夕方4時まで借りているので、制止しながら一行に事情を尋ねたところ、「私達は今晩8時からこの教会でモーツァルトのレクイエムの演奏会を行う日本の合唱団です。これまでA市で演奏会を行い、本日がここ、そして数日後にウィーンで演奏会を行い、帰国の途に着きます。夕方5時からリハーサルを行うので下見に来ました。」と説明があった。演奏会と観光を兼ねたアマチュア合唱団の旅行団体だったのだ。 「まだ機材の撤収中なので、待ってください。4時から入れます」と述べ、外に出てもらったが、旅行に同行しているプロのカメラマンが「邪魔しないので、夜のカメラ位置を決めるため、教会内に留まらせてほしい」と要請してきた。 録音機材とマスターテープを運送トラックに積み込んだ後、カメラマンとのよもやま話となった。カメラマン曰く、写真を買ってくれそうな女性合唱団員には「できるだけ指揮者近く、中央の位置に立ってください」と声を掛けるのです。端より中央のほうがシャッターチャンスも多く、ピントがあって、キレイに写るんです。 その説明に「ナルホド!パートバランスより写真映りか」と変に納得してしまった。 その夜は残念ながら一行の演奏会は聴かず、シェレンベルガーが山間の牧場のレストランに招待してくれた。そこの名物、鱒料理を注文すると調理前に一匹一匹旗の立っている鱒が運ばれてきた。訊ねると旗にはその鱒の重さが記載されていて、その重さで値段が変わるという。日本では同じ魚ならば一匹の値段は変わらないだろうに。味より、そのこだわりに異文化を感じた夕食だった。 (久) |
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