[この一枚 No.65] 〜ジャッド/ホルスト:組曲《惑星》〜

この一枚

LPレコードの全盛期、イギリスのメジャー・レコード会社EMIとイギリス・デッカは競い合うようにロンドンの各オーケストラで様々な管弦楽曲を録音し、発売していた。とりわけデッカの録音はいずれも豊かな響きに包まれたダイナミックなオーケストラ・サウンドが評判だった。このオーケストラ・サウンドをロンドンのコンサートホールで味わってみたい、とクラシック音楽ファンならば誰しもが思っただろう。

ロンドンのオーケストラ・コンサートは主に2つの会場で開催される。まず、テムズ河の南岸に1951年に建てられた、2900名を収容するロイヤル・フェスティバル・ホール。もう一つは1982年にシティと呼ばれる金融街の裏手に出現したバービカン・センター内にある約2000名収容するバービカン・ホールである。 しかし、どちらの会場もレコードで聴くような響きを期待して行くと少し失望を味わうこととなる。筆者が最初にロイヤル・フェスティバル・ホールで聴いたときは、あまりに低音が少なく、全体に痩せてパサパサした感じで、最初は「この席が良くないのだろうか?」と思った。休憩後の後半、中央部の席に移動したが印象は同じだった。このホールの音響の悪さについては完成した当初から批判されており、21世紀初頭には大規模な改築がなされたが、その後も「改善された」との評判は聞かれない。 バービカン・ホールはロイヤル・フェスティバル・ホールの反省が音響設計に生かされたはずだが、こちらも「まるで1970年前後に日本各地で建てられた多目的ホールで聴くような」豊かさとまとまりに欠けるサウンドであった。

ではレコードで聴かれる豊かな響きの録音はどこで行われるのだろうか? EMIは主に自社のアビーロード・スタジオで、デッカはロンドン中心部のキングスウェイホールか、郊外のウォルサムストウ・アッセンブリー・ホールを録音会場としていた。

ロンドンの北東部、東京ならば地下鉄南北線の王子か、地下鉄千代田線の北千住を地理的に考えていただきたい。この地域の役所であるウォルサムストウ・タウンホールの隣に公会堂としてアッセンブリー・ホールが佇んでいる。白い、四角な建物は幹線道路や鉄道から少し離れているため交通騒音に邪魔されない。ホール内部は1,2階席と小さな舞台のある木の床張りで、最大約1200名が収容できる広さだが、日本のホールと違うのはダンスなどのために1階席の椅子は可動式で、椅子を取り払うと体育館のような平土間が出現する。デッカの録音スタッフはオーケストラをこの平土間に配置し、デッカ・ツリーと呼ばれる独特のマイクロフォン・セッティングを用いて数々の名演奏・名録音をこの会場で行ってきた。

日本コロムビアの録音スタッフが初めてこの会場を訪れたのは1991年11月下旬、ジェイムズ・ジャッド指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団によるホルスト:惑星の録音のためだった。 当時、日本コロムビア社内にはクラシック音楽を扱う部署が2つあった。一つは洋楽部、もう一つは学校の音楽教育やアニメ音楽を担当する学芸部である。学芸部にとって、数年毎に改定される小中学校の音楽教科書の副読本としての観賞用レコード(CD)の音源確保は重要な課題で、中でもオーケストラ鑑賞の必須レパートリー、例えばチャイコフスキー/バレエ音楽:白鳥の湖、ストラヴィンスキー/バレエ音楽:春の祭典、ヴェルディ/歌劇「アイーダ」より:凱旋行進曲、ホルスト/組曲《惑星》、などの自主音源確保は最重要であった。そのため洋楽部は学芸部と共同戦線を組んで、企画書に「学芸部でも必要な音源である」と記載し、上層部の承認を得て録音するという手段がしばしば用いられた。

ホルスト:組曲《惑星》はムソルグスキー(ラヴェル編):組曲《展覧会の絵》などと共に、デジタル録音の威力が発揮される華麗なオーケストラ・サウンドが楽しめる作品だが、日本コロムビアには自主音源がなかった。しかし、これまで共同制作を進めてきた東独やチェコのオーケストラでの録音は商業的に違和感があり、またインバルは興味を示さないレパートリーで、そのため新たな指揮者とオーケストラでの録音が模索されていた。

最近はNHK交響楽団の客演指揮者として度々日本のステージに立ち、日本でも知られるようになったイギリス人指揮者ジェイムズ・ジャッドだが、91年当時はそれまで無名のフロリダ・フィルハーモニー管弦楽団を飛躍的に向上させるなど、「サイモン・ラトルに続く有望なイギリス人若手指揮者」として欧米では知名度が急上昇中であった。

期待のイギリス人指揮者とロンドンの名門オーケストラによる本場の《惑星》録音は音楽的にも、録音面からも、商業的にも注目されていたが、録音スタッフにとって初めての指揮者と共に、初めての曲目を、初めての録音会場で収録していきなり成功を収めることは簡単ではなかった。 オーケストラのスタッフが1階平土間にデッカの録音で行ってきたように楽団員の椅子を並べる中、録音スタッフはメイン・マイクロフォンの位置をどこに置くか、数々登場するソロ楽器用のピックアップ・マイクロフォンをどこに置くかなど、思案していた。 イギリスのオーケストラ録音はきっちりと時間に始まり、定刻に終わる。録音側の「会場が初めてで、最適なマイクロフォン位置を探し出すため、少し時間の延長に協力を!」なんていう戯言は許されない。まして、この曲はエルガーの「威風堂々」などと共に母国のメイン・レパートリーで、いわば朝飯前の曲なのだ。

ホルストの組曲《惑星》は「火星」、「金星」、「水星」、「木星」、「土星」、「天王星」、「海王星」の7曲で構成されており、それぞれ効果的にハープやチェレスタ、様々な打楽器などの特殊楽器や弦楽器の独奏、さらにオルガンが、最後の「海王星」では女声コーラスも使われている。裏を返せば、楽曲ごとにスポットが当る楽器を効果的な音量、音色バランスで収録しなければならない。

ディレクターのウアバッハと録音担当の後藤は限られた時間の中、楽譜とスピーカから聴こえてくる音の違い、メインやソロ楽器のマイク位置と音量バランスに気を配りつつ、指揮者の意図を理解し、なおかつこちらの要求を指揮者とオーケストラに伝えていた。 モーツァルトやベートーヴェンの交響曲録音ではひとたびマイク位置、バランスが決まると録音が終わるまで大きくは変更せず、演奏者同士でバランスを変えてもらうことが多いが、華麗なオーケストラ・サウンドを味わうこの曲では変化する要因が無数にあり、夫々を試すリハーサルの時間は少なかった。また、当時デンオンのPCM(デジタル)録音機の入力は4チャンネルしかなく、多くのマイクを用いても録音現場で素早く、バランス良くミックスすることが求められた。(今日のようにマルチ・トラック録音ができるパソコン1台があれば!)

こうして2日間をフルに用いたオーケストラ録音が嵐のように修了した。そして後日、ウアバッハは「海王星」のオーケストラ部分の編集済みテープを持って再びロンドン向かい、ジャッドと共にキングズ・カレッジ合唱団の録音を行って《惑星》は完成した。 ウォルサムストウ・アッセンブリー・ホールでの録音を振り返ると、まず、あのホールを録音会場に選んだ当時のデッカ録音スタッフに敬意を表したい。ホールの中で豊かなサウンドが響いているので、基本的なマイク位置に困ることはなく、現CDで聴かれる、綺麗にまとまった録音ができた。それはウアバッハ、後藤チームの努力の結果でもある。

しかし、もし再録音が可能ならば、ホルストが描いた各星の神々の個性をより強調する、エッジの効いたオーケストラ・サウンドが造れるのでは、という欲張った気持ちも湧いてくる。

数年前の平原綾香《ジュピター》のヒットにより、様々なクラシック小品集にこのCDから「木星」が取り出され、収録されることが多くなった。そんなとき、「自主音源があって良かった」と制作者は胸を撫で下ろしているだろう。

それにしても、「海王星」の最後の女声コーラスの繰り返しは凄い。このために様々な《惑星》の演奏を聴き比べたが、このCDはまるで「あなたは小さい音をどこまで聴こえますか」という聴力テストを行っているかのようだ。

(久)


アルバム

ホルスト:組曲《惑星》

演奏:ジェイムズ・ジャッド指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、キングズ・カレッジ合唱団
※1991年録音
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