[この一枚 No.74]〜スーク バシュメット ベルリオーズ:交響曲〈イタリアのハロルド〉〜
オーケストラは宴の好きな音楽家の集まりでもある。コンサートや録音が終わると「打ち上げ」と称して直ぐに宴会に直行する。そして宴もたけなわになると座興の時間だ。誰かが「えー、先日凄い話を聞いたので、皆さんに紹介致します。ある所に優秀なヴィオラ奏者がいて…」と話し始めると、とたんに全員が大爆笑となる。音楽家ジョークの中では「優秀なヴィオラ奏者などいるわけがない、だからこの話は大嘘」と決まっている。可哀想なヴィオラ奏者たち。 たしかに古今東西の名曲の中で、ヴァイオリンとチェロに比べると、ヴィオラがソロの作品は格段といってもいいほど少ない。私が録音や編集に従事した作品の中では、1974年のパイヤール室内管弦楽団:モーツァルト:協奏交響曲(Vn:ジャリ、Vla:コロ、)1976年にはソチエタス・ムジカ室内管弦楽団でテレマン:ヴィオラ協奏曲(Vla:ラスムッセン)、1978年、ジェランナのソロでシューベルト:アルペジオーネ・ソナタ、そして今回取り上げるベルリオーズぐらいしか思い出されない。 ジョークの中では「優秀なヴィオラ奏者」は存在しないが、日本コロムビアには二人の素晴らしいヴィオラ・ソロが楽しめるベルリオーズ:交響曲〈イタリアのハロルド〉がデジタル録音である。 最初は1976年2月2日〜4日、ヨゼフ・スークが本来のヴァイオリンではなく、ヴィオラ奏者としてチェコ・フィルの定期演奏会に登場した機会にPCM録音されたものだ。 実は当初このアルバムは第3回PCMヨーロッパ録音計画には含まれていなかった。前年12月からスタートしたこの録音ツアーではフランスでカントロフによるモーツァルトとブラームスのソナタ集、ミュンヘンにおいて、フルート奏者アドリアンの独奏でバッハのフルート・ソナタ集、またドレフュスのハープシコード独奏によるバッハの名曲集、そしてコペンハーゲンに移動し、先に述べたソチエタス・ムジカ室内管弦楽団によるバロック名曲集など3アルバム、近郊のソーレー修道院のオルガンでバッハ・オルガン名曲集を収録し、2月半ばからチェコのプラハでスメタナ四重奏団によるスメタナ:弦楽四重奏曲全集、ヤナーチェク:弦楽四重奏曲で終了する予定になっていた。 1月頭、コペンハーゲンに移動した録音クルーに東京から1本のテレックス(FAXがまだ無い時代である)が届いた。「2月頭にチェコ・フィルをPCM録音出来ることになった。コペンハーゲンの録音計画を前倒しにして、1月末にプラハに向かうように」 1972年PCM録音(デジタル)録音機を実用化させてから日本のオーケストラは何回か録音したが、海外の著名オーケストラの録音は未だ実現せず、商業的にもオーケストラ・レパートリーの充実は悲願だった。急遽コペンハーゲンで演奏家も交えて会議が開かれた。結果、演奏家と録音会場のスケジュールを考慮して、連日、深夜に録音が強行されることになった。夕方出かけ、朝方戻ってくる日本人一行をホテルの従業員は「この人達、何?」と思ったかもしれない。 演奏家と録音クルーの頑張りの結果、デンマークでの録音はなんとか完了し、1月末に録音クルーと機材は別々の飛行機でプラハに向かった。翌日、スプラフォンの本社にチェコ・フィル録音の機会を与えてくれたことへの表敬訪問を行う一行に悪い知らせが待っていた。当時のPCM録音機は最初の録音機からは小型化したといえどもまだ1台の重量が数百キロあり、ヨーロッパ内の定期便に簡単に載せられるサイズではなかった。録音機はコペンハーゲンからプラハに直接向かえず、まずロンドンに、続いてフランクフルトに、そして録音当日の朝やっとプラハに到着した。 外国から届いた荷物は空港内の倉庫で税関の検査を受けるのが普通だが、この頃のチェコは社会主義国家。スプラフォンから税関の高い地位の人間に事情を説明した結果、届いた荷物は空港での税関検査が行われること無く、直接モルダウ河(ブルタヴァ河)河畔のドヴォルザーク・ホールに運び込まれ、開梱、録音のセッティング完了後に税関吏が現れ、通関が行われた。社会主義国家の便利さと怖さを感じたエピソードである。 その夜のコンサートは世界的歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが指揮者としてチェコ・フィルに登場。前半がスークのヴィオラ・ソロでベルリオーズ:交響曲〈イタリアのハロルド〉、後半がブラームス:交響曲第4番というプログラムであった。当時、チェコの国民的音楽家であったスークがやや大振りなヴィオラを持って登場するだけで会場内は大盛り上がり。そしてスークがヴィオラを弾きだすと、太く、甘い音がホール内を包み込む。 私もこの時「ヴィオラはこんな素敵な音がするんだ。また、ベルリオーズも幻想交響曲以外にこんな良い曲があったのだ」と正直思った。スークの弾くヴィオラとはこの4ヶ月後、スメタナ四重奏団とのモーツァルト:弦楽五重奏曲第3、4番の録音で再び立ち会うことになる。 この録音から12年後の1988年3月、再び交響曲〈イタリアのハロルド〉の録音機会が訪れる。 日本コロムビアとドイツ・ヘッセン放送との共同制作によるインバル指揮フランクフルト放送交響楽団演奏のマーラー交響曲全集の録音は1985年2月の第1番から番号順に開始され、1986年10月の第8番「千人の交響曲」で番号付き交響曲の録音は終了した。マーラー交響曲全集の世界的な大成功により日本コロムビアのトップ・アーティストとなったインバルに何を録音させるか?何を録音したいのか? インバルの答えはベルリーズの管弦楽作品集だった。ドイツのオーケストラでフランス物?社内ではその企画に否定的な意見があったが、いまここでインバルを切れない、またベルリオーズはカタログに無い、共同制作のため大オーケストラの録音経費負担は半減できる、などから制作承認が得られ、翌1987年9月の〈幻想交響曲、レリオあるいは生への復帰〉からマーラー同様に演奏会と録音がセットで行われていった。 翌年(1989年)3月、マーラー交響曲全集の補完として〈大地の歌〉とベルリオーズ:交響曲〈イタリアのハロルド〉のコンサートと録音が行われた。ヴィオラ独奏は当時(恐らく今日でも)「最高のヴィオラ奏者」と呼ばれていたウクライナ出身のユーリ・バシュメット。 バシュメットは過去のヴィオラ奏者達と違って、ヴァイオリンのクレーメルのように過度にロマンチックな表現を行わず、理知的な演奏スタイルを持っていた。 アルテ・オーパーのモニタールームでインバルと共にプレイバックを聴くときも物静かで、録音スタッフへの注文もあまりつけず、自分で自分の演奏を修正していった、録音スタッフからはバシュメットへの注文は殆ど無かったように記憶する。 「宣伝用写真を撮らせてくれ」と頼むとニッコリして静かに応じてくれたのが印象的だった。 このCDでインバルとバシュメットの凄さが感じられるのは、例えば第2楽章〈夕べの祈祷をうたう巡礼の後進〉でのバランスの素晴らしさである。インバルはオーケストラをまるでヴィオラ独奏を飾り、引き立てる美しい刺繍のように操ってゆく。バシュメットはそれに答えて細かいニュアンスを繰り広げてゆく。楽章後半のフラジオレット奏法によるアルペジオの部分などため息が出るほどに素晴らしい。 また、第4楽章「山賊の饗宴」の後半ではインバルはあたかも「タンバリン協奏曲」のようにタンバリンの皮を強く叩く音を強調し、ベリリオーズの独創的な管弦楽の色彩を映し出す。他の指揮者の演奏ではシンバルの陰に隠れて聴かれないバランスである。 残念ながら、先日の音楽誌上のバシュメットのインタビュー記事ではこの〈イタリアのハロルド〉は紹介されていなかった。マーラー同様に過度にロマン的でなく、細部を拡大視するでもない、似た音楽性を持つ二人の素晴らしい共演は録音共々、再評価されて良い1枚ではないだろうか。 (久) |
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