[この一枚 No.75]〜スウィトナー/ブラームス:ハンガリー舞曲集(全曲)〜

この一枚

1976年2月、チェコ・フィル最初のPCM(デジタル)録音を行うため凍てつくプラハに到着した日本コロムビア・スタッフにチェコのレコード会社スプラフォンが用意したホテルは古きよき時代を彷彿とさせるグランド・ホテル、アルクロンだった。1階レセプションの奥には広いレストランが設けられ、右奥には小さなステージがあり、ヴァイオリン、クラリネツト、ウッドベース、ピアノという4人がいつも食事を楽しむ客のために甘いメロディやダンス音楽を演奏していた。時折は我々日本人を見つけると日本の曲を演奏してくれた。どんな曲を演奏したか、チップをあげたかは忘れてしまったが。
中でも地元、ドヴォルザークのスラブ舞曲とブラームスのハンガリー舞曲は彼らの得意レパートリーで、ヴァイオリン奏者は全身を使って情熱的にメロディをかき鳴らしていた。100年前にはブラームスもピアノを弾きながらハンガリーのヴァイオリニスト、レメーニが演奏する同じような光景を見ていたのだろうか。

1978年6月、最初の東ドイツでのPCM録音が東ベルリンのイエス・キリスト教会で行われた。録音曲目はクルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団のチャイコフスキー:交響曲第4番。
録音が終わってからドイツシャルプラッテンの録音スタッフとの雑談となった。日本ではベルリン国立歌劇場の音楽監督オトマール・スウィトナーが人気で、来年1月には彼がNHK交響楽団を指揮してモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」と第38番「プラハ」を録音する予定だ、と話したとき、ドイツ人トーンマイスターから「スウィトナーは(すぐに手を抜くから)こちらから多くの指示を出さないとだめだよ。」との意味深な助言があった。

確かに、荒川区民会館でのスウィトナーはテスト録音の後、のっそりとモニタールームに入ってきて、再生した音を聴き、「後は君達の好きにしていいよ」と言わんばかりに、多くの注文を出す訳でもなく、周囲のオーケストラのメンバーと談笑して部屋を後にしていった。

スウィトナーと日本のオーケストラとのセッション録音はこれが最初で最後。80年からは手兵シュターツカペレ・ベルリンとのベートーヴェン交響曲全集録音が第3番「英雄」から始まり、続く第6番「田園」は1981年レコード・アカデミー賞を受賞してその日本での人気を確立し、その後は、ベートーヴェン序曲集、シューベルト交響曲全集、シューマン交響曲全集と交響曲のメイン・ストリームを進んでゆく。

しかし、同時期は日本コロムビア(DENON)のCD海外販売も拡大していったのだが、日本での人気とは裏腹に彼のCDのセールスは西欧では芳しくなかった。英国やフランスのディストリビューターに「なぜスウィトナーのCDは売れないのか?」と尋ねたところ、「指揮者が無名(英国やフランスのオーケストラを指揮していない)、田舎のオーケストラの演奏」といった厳しい答えが返ってきた。

彼のキャリアを見てみると、1922年オーストリアでドイツ人の父とイタリア人の母の間に生まれ、1941年インスブルックの歌劇場の副指揮者としてそのキャリアをスタートしている。第2次大戦後は最初西ドイツの歌劇場で活躍し、1960年、38才の若さでいきなり超名門ドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任する。そして、4年後には東ドイツの西側へのショー・ウィンドウともいえる、東ベルリン、ウンター・デン・リンデン通りにその威容を誇るベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任。以来、1990年までの26年間その地位にあった。 このドレスデン、ベルリンの音楽監督時代、西側での主な演奏活動はバイロイト音楽祭、サンフランシコ・オペラハウス、ウィーン国立歌劇場、日本のHNK交響楽団など非常に限定されており、英国やフランス、西ドイツのオーケストラの音楽監督を兼任したという記述は見つからなかった。

なぜ、西ヨーロッパでのコンサートやオペラの指揮を行わなかったのだろうか?前述のトーンマイスターの言葉にあるが、彼は音楽以外にはあまり関心が無かったのではないだろうか。録音セッション写真に写る彼のシャツは毎回、いかにも田舎のオジサンが着ているようなもので、カラヤンやバーンスタインのようなスタイリッシュな大指揮者のそれとは違った。

あと数ヶ月後にはベルリンの壁が崩れるという1989年9月、スウィトナーと日本コロムビアとの、また日本コロムビアと東ドイツ、ドイツシャルプラッテンとの最後の共同制作となるブラームス:ハンガリー舞曲集の録音がイエス・キリスト教会で行われた。 東ドイツでの共同制作に用いる16ビット4チャンネルのDENON製デジタル録音機材はいつも約500km離れたデュツセルドルフ郊外にあるDENONスタジオから時にはスタッフ自らの運転で会場まで運ばれた。

全21曲のハンガリー舞曲集はオリジナルの4手ピアノ版はブラームスの編曲として出版されているが、オーケストラ版はブラームスが3曲、それ以外にドヴォルザークを含む6人により編曲されている。
スウィトナーはまるでオペラの中で群衆の踊りやバレエのシーンに登場する舞曲のように生き生きと指揮しており、この盤にはオペラ指揮者スウィトナーの最後の輝きが記録されていると言えるだろう。
そう、この頃からパーキンソン病が悪化し、東ドイツが崩壊する翌年、彼も音楽監督を辞任し、療養生活に入る。共同制作も、音楽活動もカットアウトとなった。
もしもの話だが、彼が壁崩壊後も元気だったならば、晩年のザンデルリンクのように西側楽壇に登場し、再評価され、巨匠と讃えられたのではないだろうか。

2007年、スウィトナーがバイロイト音楽祭で知り合った西ベルリンの愛人ハイツマンとの間に生まれた息子で映画監督となったイゴールがドキュメンタリー映画「父の音楽、指揮者スウィトナーの人生」を発表した。この映画の中で、東ベルリンに住まわせた彼の正妻と西ベルリンの愛人との間をベルリンの壁を越えて行き来していた父のエピソードを伝えている。

2010年1月、彼が亡くなるとき、枕元には正妻と愛人と息子が立ち、最後を看取ったという。
音楽も人生も包容力のある人だった。
「最後の伝統的ドイツのカペルマイスター(楽長、音楽監督)が亡くなった」と欧米の新聞は伝えている。

(久)


アルバム 2010年08月18日発売

スウィトナー / ブラームス:ハンガリー舞曲集(全曲)
※録音:1989年
COCO-73084 ¥1,143+税

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