[この一枚 No.84]〜田部京子 カルミナ四重奏団/シューベルト:ピアノ五重奏曲「ます」、他〜
ドイツは古くから手工業を中心に親方と徒弟というマイスター制度が作られてきた。音楽でもワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で、靴屋の親方ザックスがマイスターと称されているし、シューベルトの歌曲「美しき水車小屋の娘」にも水車職人に修行する若者が取り上げられている。 第二次大戦直後のドイツにおいて、録音、放送技術が急速に進歩する中で音楽録音の資格者「トーンマイスター」が提唱され、音楽と電気音響に造詣が深くて音楽家と対等に付き合える人物の養成が始まった。1980年代の西ドイツではベルリン音楽大学、デトモルト音楽大学、デュッセルドルフ音楽大学と工科大学で音楽と録音工学を修めた者が「トーンマイスター」と呼ばれていた。トーンマイスター達も他のドイツの職業と同様に「組合」を作り、年1回各地から集まり、数日に渡って研究発表や新開発商品の展示、講演などが行われている。 日本でも1968年、福岡に九州芸術工科大学(現、九州大学芸術工学部)が設立され、あらゆる音に関する研究を行う音響設計学科の中に音楽と電気音響を学ぶコースが作られた。その後、音楽産業の拡大に伴って東京藝術大学など音楽大学・専門学校へと拡がっていく。トーンマイスターを目指して九州芸術工科大学を卒業した国崎は日本コロムビアに入社し、デジタル音楽編集の担当に配属される。 通常、CDの録音は演奏家が1回演奏したものを収録してそれで終わりではない。演奏家は同じ部分を何回も演奏し、ディレクターは楽譜にどの演奏が一番良いかを書き込み、演奏家と共にプレイバックして編集箇所を確認する。テープと楽譜は編集者に届けられ、ラフ編集が行われる。仕上がったテープはディレクターと演奏家が聴き、再度の確認と細かい修正が入る。時には演奏家が編集室を訪ね、編集者と共に録音したテープをチェックし、コツコツ推敲してゆく。田部さんはそんな一人だった。 やがて「演奏家の求めるテイクを探し出す編集者」として、ピアニストと国崎との信頼関係が築かれていった。 また、彼はカルミナ四重奏団によるブラームス:弦楽四重奏曲の地獄のような編集(第4楽章は400以上のテイク数!私は録音現場でディレクターとのテイク数の賭けに敗れてしまった)で緻密な音楽の作り方を、その一方でゲルバーのような一瞬の閃きが支配する音楽など多種多様な音楽の世界を編集しつつ学んでいく。 その後、制作部門に異動した彼は田部さんの担当ディレクターとして次回作の企画に携わるようになり、その中で浮かんできたのが今回のアルバムある。ここからの話はディレクターのチューリッヒ録音スペシャル・レポートを読んで頂こう。良い音楽を作り上げる、という演奏家・スタッフの情熱が感じられるレポートとなっている。 http://columbia.jp/artist-info/tabe_carmina/shoplist.html CD発売直後の2008年6月、朝日浜離宮ホールでの田部京子:シューマン・プラス第2章で田部さんとカルミナ四重奏団の共演が約10年ぶりにステージで再び実現した。終演後は聴衆全員がCDを購入し、サイン会に並んでいるのではと思われるほど長蛇の列だった。 この素晴らしい演奏に対する評価とセールスは冬まで持続し、同年のレコード・アカデミー賞室内楽部門を受賞した。これは彼のディレクターとしての初受賞作品である。 1993年4月、復活祭直後のスイス、ラ・ショー・ド・フォンで田部さんによるメンデルスゾーン:無言歌集が15日まで、続いて翌日からはカルミナ四重奏団によるブラームス:弦楽四重奏曲第1番、第2番が録音された。共に同じホテルに宿泊していたので、もしかしたらすれ違ったかも知れない。でも当時は5年後に日本で初共演し、15年後には一緒に録音し、賞まで受賞するなんて想像できなかっただろう。さらに残念ながら、その場に居て双方の録音に携わったのは私だけだったが、無事録音を終えることに集中し、2組を結びつけるアイデアが思い浮かばなかった! (久) |
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