[この一枚 No.91]〜クーベリック/スメタナ:連作交響詩「わが祖国」〜
1976年2月と初夏にそれぞれ1ヶ月程プラハにPCMデジタル録音の仕事で滞在していたことがあった。冬の凍てつく日でも、美しい初夏の日差しが眩しい通りでも、街を歩けば「チェンジ・マネー」、「ジーパンを売ってくれ」と10mごとに小声で声をかけられたし、タクシーに乗っても運転手から持ちかけられた。聞けば在るところに「ドルショップ(ドルや西ヨーロッパの通貨でしか買えない店)」があって、そこでしか西側からの輸入品(洋服や電化製品など)が買えないとか。 また、スメタナ四重奏団が招待してくれた城の前の豪華なレストランは西側通貨での支払いか、共産党員のコネが無いと入れない店だったし、演奏家が国外に演奏旅行で出かける場合は亡命を防ぐ為に家族は国内に人質として残らなければならないと聞かされた。 この、たった2ヶ月のプラハ滞在でも現実には共産党支配が多くの人々の自由を抑圧する国家体制であることを思い知らされたし、何故指揮者ラファエル・クーベリックが祖国から逃れ、西側に亡命しなければならなかったのかを少しは実感できた。 1989年11月にベルリンの壁が崩れ、年末にはチェコスロヴァキア(当時)でも共産党一党支配体制が崩壊し、劇作家で反体制の闘士ハヴェルが大統領に就任し、プラハは自由の街となった。 一説によるとハヴェル大統領が、1948年に亡命し1986年には一切の指揮活動から引退した名指揮者ラファエル・クーベリックを母国の、かつて彼が首席指揮者であったチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に、しかも5月12日スメタナの命日に始まる「プラハの春音楽祭」のオープニング・コンサート「わが祖国」の演奏に呼び戻した、と言われる。劇作家の実にドラマチックな脚本ではないか。 このニュースは「チェコスロヴァキアのビロード革命の仕上げの一筆」としてたちまち世界中に拡がり、コンサートの模様は全世界に中継されることになった。日本では音声中継をFM東京が開局20周年記念放送として13日日曜日午前3時から生放送として行ったし、映像はNHK衛星放送第2で13日午後6時から「プラハの春音楽祭」ドキュメンタリーを、午後7時20分からはコンサートの録画を放送した。一つのコンサートを民放とNHKが同じ日に放送するという事実がこの演奏の歴史的意義を物語っている。 このコンサートのCD化、映像商品化権をスプラフォンが獲得したことは日本コロムビアにとって大きな驚きであり、喜びであった。東ドイツの崩壊で共同制作相手のドイツシャルプラッテンが機能不全に陥っていたため、スプラフォンも同様になるのではと危惧していたからだ。もちろんこの革命でスプラフォンから一部の制作・技術者達が退職し、ボヘミア・ヴィデオ・アーツを新設したが、共に日本コロムビアとは良好な関係が保たれていた。 このCD化・宣伝・販売については発売日、商品形態、宣伝手法、初回出荷枚数など様々な角度から何度も会議が行われ、8月21日に初回1万枚限定のピュア・ゴールド(金蒸着)CDとして発売。また「市民フォーラム・バッジを500名にプレゼント」という購入者特典を付けることになった。 また音楽雑誌と打ち合わせて、音楽評論家U氏を特派員としてプラハに派遣し、その取材記事を雑誌の巻頭特集として掲載、またCDのライナーノーツに記載することとなった。 当時、金蒸着CDは音質を高める手法として、また豪華なCDとして認識され、クラシックから歌謡曲まで様々なメモリアルCDに使われていた。 準備に万全を尽くしたがコンサートが無事終了して完全に収録できるまで心配事が2つあった。その1つは療養中と伝えられるクーベリックが果たしてこの指揮台に上り、指揮するのだろうか、というものだった。午前3時、FM東京から放送される「わが祖国」を聴いてこの不安は霧散したが、もう1つは、演奏時間が何分かかるかは最後まで聴かないと不明なことだった 当時CDの記録時間は82年発売当初の64分からレーザーカッテイング、読み取り技術の性能向上により進化していたが、74分を超えるとCD生産の歩留まりが悪くなる、また80分を超えると再生できないCDプレーヤが多くなり、クレームの対象となるというものだった。「わが祖国」全曲の演奏時間は通常74分から80分であるが、クーベリックのこの歴史的演奏がどうなるか、全く不明であったし、最悪CD2枚組も覚悟していた。 スメタナのオペラ「リブシェ」のファンファーレで大統領が入場し、「わが祖国」の演奏が始まった。 第2ヴァイオリンが右から、コントラバスが左奥から聴こえてくる。クーベリックが要求するヴァイオリン左右対称の楽器配置だ。第2曲ヴルタヴァ(モルダウ)の冒頭、泉に湧き上がる水を表現するフルート演奏がまさかの乱れ。プロの百戦錬磨の演奏家でもプレッシャーから緊張している様子が伝わってくる。この歴史的な音楽会を作っているというオーケストラ団員の緊張と喜びは所々にキシミをみせながらも、異常な高揚を作り出してゆき、最後の「ブラニーク」で勝利の、自由の喜びをファンファーレで奏でて終わった。興奮した聴衆の延々と続く拍手を除いた演奏時間は正味77分強。歩留まりは悪くなるがCD1枚に収まる計算だ。 その夜のNHK衛星放送では「プラハの春音楽祭ドキュメンタリー」としてクーベリックの42年ぶりの墓参、前日の旧市街広場での野外コンサートなどの映像も紹介し、その後プラハの春音楽祭オープニング・コンサートが放送された。 個人的には1975年バイエルン放送交響楽団を率いてのマーラー交響曲第9番の演奏でクーベリックの指揮に魅了されていたが、この歴史的コンサートはこれまでの彼の人生や、更にチェコの人々の一党独裁からの開放と喜びが音楽と重なって聴こえ、心からの感動を覚えた。 翌年秋、クーベリックとチェコ・フィルが再びプラハでコンサートを行った時、ドイツに駐在していた私はこのコンサートの録音チームの一人としてプラハに向かった。リハーサルの後、15年前にも一緒に仕事をした元スプラフォンの録音スタッフが私をクーベリックに紹介してくれた。大柄のマエストロは上機嫌で微笑み、分厚い手で握手をしてくれたが、その表情からは42年間待った喜び、そして1年後にまた母国で演奏できる幸福が全身から感じられた。 (久) |
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