エッフェル塔を間近に見上げるパリ中心部のセーヌ河畔のアパルトマン。日本コロムビアの洋楽・録音担当者達にとってこの部屋は1974年12月の第1回ヨーロッパ録音以来、毎回訪れる場所だった。
この部屋の主はハープシコード奏者のユゲット・ドレフュス。
彼女とデンマーク人のフリー録音プロデューサー/エンジニアのピーター・ヴィルモースとは音楽を通じて、深い友情で結ばれていた。FAXもメールも携帯電話も無い時代にヴィルモースはパリに出てくるたびにドレフュスの部屋に居候していたので、必然的にそこが日本コロムビアの録音スタッフとの打ち合わせ場所となっていた。
その頃の彼女はドイツ・グラモフォンのアルヒーフ・レーベルからバッハのイギリス組曲、フランス組曲を発売して各国で高く評価されるなど、フランスを代表するハープシコード奏者として活躍していたのに、我々の訪問と長い打ち合わせ時間に対して嫌な素振りを見せず、素敵なパリのマダムとして振舞っていた。
最初の日本コロムビアへの録音は1975年12月から翌年頭にかけてで、アルバム3枚半分がミュンヘンで行われた。フルートのアンドラーシュ・アドリアンの「J.S.バッハ/フルート・ソナタ全集」2枚組、ヨハネス・フィンク(実はこの名は、あるレコード会社との契約を逃れるための偽名だった)による「J.S.バッハ/ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ全集」、そして彼女のソロで「J.S.バッハ/チェンバロ名曲集」の半分。
そのチェンバロ名曲集の録音で譜めくり役が必要となり、私は彼女の隣に座って、合図で譜面を捲るはめになった。文字通り目と鼻の先で繰り広げられる彼女の演奏は情熱的で、しかも厳しかった。しかしながら休憩中はピーターと手を取って楽しそうにダンスに興じるなど、とてもチャーミングな人でもあった。
それから数年後、彼女の情熱的な一面を遺憾無く発揮したアルバム「D・スカルラッティ・14のソナタ集」をパリ近郊グリジー・スウィヌで録音する。
個人的にはこの演奏の編集を通じてスカルラッティの1楽章のソナタの様々な曲想の豊かさと面白さ、彼女の演奏の素晴らしさを知ることができた。
なお、CDには録音会場はノートルダム・デ・ローズ教会とクレジットされているが、教会の会堂の中ではなく、その敷地内にある集会場・映画館で、響きは少ない会場である。
彼女の録音を始めた頃、その腕にある青い刺青に気づいたとき、ピーターが「戦時中、ユダヤ人は収容所に送られ、刺青をさせられたんだ」と語ってくれた。そしてなにかの折、「私はワーグナーは嫌い」とドレフュスが話していたこともあった。戦争の爪痕を感じさせるエピソードだ。
その後、ドレフュスはフランスで、また来日してF.クープラン、J.S.バッハ、W.F.バッハ、モーツァルトなどハープシコードとハンマークラヴィアで多くの録音を行っていった。
1990年代半ばに日本コロムビアとの録音が終わっても個人的にはクリスマスカードの交流が続いていたが、2001年の盟友ピーターの死を受けて「淋しい」とグリーティングカードに書かれていた。
今年5月には彼女の訃報が届いた。今頃はあのチャーミングな笑顔でピーターと楽しく天国でダンスしているだろうか。
(久)
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