[この一枚 No.95]〜クイケン/寺神戸/ラ・プティット・バンド/モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲〜
バロック・ヴァイオリン奏者の寺神戸亮さんから自らがコンサートマスターを務めるベルギーの古楽オーケストラ、ラ・プティット・バンドの音楽会への招待があったのは1993年8月だった。 「今度インスブルック古楽音楽祭で僕たちのオーケストラがオケ・ピットに入ってオペラをやるんですよ。面白いから是非聴きに来てください」 えっ、インスブルック?今住んでいるドイツのデュッセルドルフからは800km以上も南東に離れているじゃないか。でもクイケン指揮ラ・プティット・バンドの演奏を聴いてみたいし、イザークの「インスブルックよさようなら」で知られる古い街を訪れてみたいし…。仕事をやりくりして都合を付け、週末の朝5時に車を南に向かうアウトバーンに乗せた。日本では東京から広島までの距離に相当する800kmだが、アウトバーンを平均160kmで走ると途中の食事、休憩を入れても10時間で寺神戸さんが予約してくれたオペラハウス近くの宿に到着した。 翌夜に上演されたバロック時代のオペラはタイトルも作曲家もすっかり忘れてしまったが、オーケストラ・ピットのコンサートマスター席で演奏している寺神戸さんの姿と上演終了後、ステージ上で開かれたパーティはよく覚えている。そこで寺神戸さんが今夜のオペラの指揮者でバロック・ヴァイオリン奏者としても世界的に名高いシギスヴァルト・クイケンを紹介してくれた。まるで古い肖像画から出てきたようなオカッパ頭で大きな目が個性的なシギス(皆、彼を愛称でシギスと呼んでいた)に挨拶として「いつかこのオーケストラをDENONで録音したい」と伝えたかもしれない。 日本コロムビアのデジタル録音カタログでモーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」は4種類が数えられる。 最初は1974年12月、第1回PCMヨーロッパ録音としてパリ、リバン教会で録音されたジャン=フランソワ・パイヤール指揮パイヤール室内管弦楽団、ソリストはジャリとコロ、2枚目は1984年レオポルド・ハーガー指揮オランダ室内管弦楽団、ソリストはカントロフとメンデルスゾーン、3枚目は1994年のザルツブルク・カメラータ・ゾリステンでソリストはベルキンとラールセン、そして今回取り上げる1995年オランダ、ハーレムで録音されたラ・プティット・バンド盤、ソリストは寺神戸とクイケン。 古楽オーケストラ、ラ・プティット・バンドは1972年の創設以来ドイツ・ハルモニア・ムンディ(DHM)からずっと発売されてきたため、インスブルックでのパーティの席ではまさかこのオーケストラを本当にDENONのアリアーレ・シリーズで録音できるなんて想像できなかった。 日本コロムビア録音技術スタッフは1972年のPCM録音機第1号機から14ビットの3号機、16ビットの4号機、そして20ビットの6号機に至るまでずっと自分達が使うデジタル録音機材は自ら開発を行ってきたが、 20ビット4チャンネル録音機の開発技術者の一人、井口啓三は新録音機を携え1993年9月にドイツに赴任した。 その日から井口は同僚のドイツ人トーンマイスター2人に新開発の20ビット録音機の操作方法を教え、彼らから録音のテクニックと現場での行動、ヨーロッパでの生き方を学んだ。また日本から録音の為に出張してくる録音エンジニア後藤のサポート役を務めた。この後藤、井口チームの代表作はプラハで録音されたノイマン指揮チェコ・フィルのドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」のワンポイント録音だろうか。また、前述のザルツブルク・カメラータ・ゾリステンの協奏交響曲もこのチームである。そして井口は次第に技術サポート役から録音マイクをセットし、録音バランスを整える録音エンジニアも務めるようになった。 1995年5月、オランダ、ハーレムの市街地にあるドープスゲツィンデ教会(doopsgezinde kerk)でシギスヴァルト・クイケンと寺神戸亮というラ・プティット・バンドの指揮者とコンサートマスターが交互にソリストを担当するモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集の録音が開始された。DENON初のシギスと彼のオーケストラの録音である。制作担当はアリアーレ・シリーズのプロデューサーである馬場、そして録音は井口が担当した。 録音会場の豊かな響きに包まれ、ソロ・ヴァイオリンとヴィオラが浮き出ることなくオーケストラと溶け合って美しい演奏を繰り広げているこのCDは1996年のレコードアカデミー賞「協奏曲部門」に輝いた。更に寺神戸とアリアーレ・シリーズにとって前年の「音楽史部門」に続く2年連続の受賞となった。 DENONのカタログにラ・プティット・バンドはこのモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集とバッハ:クリスマス・オラトリオだけに終わったが、シギスとはクイケン四重奏団のハイドン、モーツァルトの弦楽四重奏曲、またクイケン四重奏団と寺神戸との共演でモーツァルト:弦楽五重奏曲全集が録音され、いずれもが高い評価を得ている。 演奏会の翌日、再びアウトバーンを延々と走り、帰路に着いた。3日間で約2400km運転したら流石に自宅に着いたとき足元がおぼつかなかったことも懐かしい思い出だ。 (久) |
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