「ドン・カルロス」は
叙事詩です。こうしたものを物語るには、時間が必要です。
この作品は、ヴェルディの手になる
最も素晴らしい合唱シーンのひとつによって始まります。そこで私たちは理解するのです。この叙事詩において戦争は、すべての個人的な、そして政治的な災いの根底にあるのだと。
音楽は、
脈打つような動機によって幕を開けますが、この後、私たちはこの動機をほとんどすべてのアリアや二重唱、アンサンブルの中で何度もくり返し聴くことになります。もしこの作品をほかの場面で始めるとすれば、それは、はじめに主題を提示することなくフーガを演奏するようなものです。
さらに第1幕で私たちは、
カルロスとエリザベートがフォンテーヌブローの森でどのように
恋に落ちるのかを知ります。このことはとても重要です。それによってこそ、この恋が破れたときに、私たちは彼らの苦しみを共感することができるのですから。
ヴェルディは「ドン・カルロス」を
フランス語で作曲しましたが、その後の補綴や改訂もすべてフランス語で行っています。
こうした事情が物語っているのは、7つのうちのひとつの版、つまり
オリジナル版だけが問題になるということです。
「
火刑」の場は、構造的にも音楽的にも、他の場面とは全く性格を異にしています。テキストから見ればこれは、物見高い人々の座興に供するために異教徒が火あぶりにされるという民衆たちの祭りであるわけです。ですから私は、舞台と観客との間にある「第4の壁」を開くのです。ここに Spiel(遊び/演技)と Ernst(真面目さ/現実)、オペラと人生が混じり合います。
バレエの場面には、とりわけ小さなヴァイオリン協奏曲を伴って、ヴェルディの大変優れた音楽が聴かれますが、このバレエ音楽は初演以来、二度と演奏されることはありませんでした。なぜか。その背後には、「オペラでは笑ってはいけない」というオペラ界におけるタブーが潜んでいるのではないかと私は危惧するのです。そうしたタブーは、打ち破られなければなりません。このバレエは「カルロスを愛するというエボリの願望」をテーマとし、滑稽さがそれにふさわしい場所を見出すという機能を持った、いわばサテュロス劇なのです。
フィリップとエボリが関係を持つということは、この作品における最も重要な点です。だからエボリは、フィリップがアリアを歌う場面に、しかも彼のベッドに居るわけです。ある男が、自分は妻とうまくいっていないのだと言って、恋人に心の内をぶちまけるような致命的な状況というのは、ほとんど誰しもが知っているものです。
スコアにおいて「
カール5世の声」と示されている謎に充ちたキャラクターは、私の演出においては、「生けるカール5世」となっています。あらゆる時代を通じて最も強大な力を誇った君主ながら、もはや不敬虔で破壊的なヨーロッパの政治にかかわりを持つことを疎んじて死の数年前に退位したこの人物。彼は、かつてマルティン・ルターがそう語ったように、世界の滅亡を思って木を植え
*訳注 、そして作品の最後で二人の恋人を異端審問所から連れ去るのです。
*訳注:「もし明日世界が滅ぶとしても、私は今日リンゴの木を植えよう」とのマルティン・ルターの言葉を指している