源氏物語幻想交響絵巻 TOMITA ON NHK 惑星 千年の恋 Profile
<平安朝のサラウンドスケッチ> 冨田勲

文明の進歩はすばらしい。子供の頃は電気を使わない手回し蓄音機で育ったぼくにとって、現在のオーディオは魔法としか思えず、家庭の茶の間でもサラウンドが聴けるなんていうことは、その頃の想像の域をはるかに越えていた。

しかし、生活の中で実際に耳にする音の中には、今でいうサラウンドで聞ける音はずいぶんあった。このアルバムは幻想的に「源氏物語」を四季になぞって作曲したが、初夏の場面で、箏を「葵の上」、琵琶を「六条の御息所」で、表面上はまだ平常をよそおっている両者の合奏の背景に、ぼくが箱根の「明神」で収録したヒグラシの声が入っているが、そのヒグラシは子供の頃のような鳴きかたではなかった。

戦時中に岡崎の郊外の父の実家で過ごしたぼくは、6月になると山からヒグラシの合唱が聞かれるのがたのしみであった。左側に「法蔵寺山」中央の奥に「入りの山」右側に「権正寺山」というあまり大きくない山に囲まれていたが、ヒグラシは鳴きはじめと鳴きおわりを群集のブロックごとにそろえて鳴くのだ。農薬や害虫駆除の薬や酸性雨がなかった頃なので群集は猛烈な数で、左の山の群衆、次に右の山、そして中央の山と、いったい誰がコントロールしているのか知らないが、ある程度秩序だった壮大なカノンの合唱を聞くことができた。しかし、これを仮に収録したとしても、当時のアセテート盤へのダイレクトカッティングのモノラル録音では、この広がりは到底再現はできない。

ぼくは、作曲の仕事を始めると同時にオーディオにも興味を持ち、とくにシンセサイザーを手がけるようになってからは、自分の曲は自分で録音とミックスダウンをするようにしている。この「源氏物語」のアルバムもロンドンでのコンサートの時に興味を持って協力的に演奏をしてくれたロンドン・フィルに、今度はレコードアルバム用にそれぞれの楽器をサラウンドの素材音として各々を独立したマルチに録音するために、再びロンドンへ行って新たに録音をした。コンサートホールの状態での音響の再現ではなく、根本から再構築するという、最初からオーディオの世界ならではの表現ができるサラウンドの平安時代をぼく流に描いてみたく、サラウンドの音場構成も作曲の延長として考えた。

もはやハードディスクに入った膨大な素材音と音場構成のための、ノートパソコンにインストールしたNUENDOや周辺機器をスーツケースに入れ、山や海辺のホテルなどで24bit/96kHzのハイクオリティーの作業ができるほどオーディオ機器は進化したのだ。ほんの5?6年ほど前まで、大型のシンセサイザーや諸々の機器に埋まるようにしてぼくは日夜悶々と作業をしていたのがうそのようだ。もちろんそこではスタジオのような大きな音は出せないけれども、デジタル処理はアナログのようなあいまいさがないので長年の経験でおおよその見当はつく。修正は最終的なマスタリングの時に、オーディオ設備の整ったスタジオで完全にすればよい。遂にミュージシャンも画家と同じように一人で好きな場所で仕事ができるようになった。これは平安朝のサラウンドスケッチです。



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