1978年、 ビクターより1stアルバム、「ヤスコ、ラヴバード」をリリース。 スウィートでメロウな歌声で一躍脚光を浴び、マスコミから"ネクタイ族のアイドル"、"シュガー・ボイス"などと取り上げられ、華々しいデビューを飾る。
1980年、コンテンポラリーなサウンドで、古いスタンダード・ソングを リ・アレンジした4thアルバム「ジャーニー」がヒット。
1981年、 ラテン=フュージョン・サウンドのオリジナル作品集「サングロウ」は、日本のジャズ・カテゴリーを超えたエポック・メイキングなセールスを記録する。 又、同時に行われたコンサート・ツアーやパブリシティ活動によりトップ・ヴォーカリストの地位を不動のものにする。
その後、セルジオ・メンデスやジョー・サンプル、更に故ニック・デカロやイバン・リンスらをプロデューサーに迎え、次々とコンテンポラリーで意欲的なアル バムをリリース。又、トミー・フラナガン(P)やロン・カーター(B)、ローランド・ハナ(P)、更には自ら結成したビッグ・バンド、"フラミンゴ・ビッ グ・バンド"らをバックにレコーディングやステージ活動を続け、そのゴージャスで華麗なステージは定評となる。
1986年、ロンドンのBlue Birdレコードが「L.A.ナイト」をシングル化、ロンドンのダンス・チャート上位にランクされる。同年、ジャズ・ワールド誌主催の第2回「日本ジャズ・ヴォーカル賞」"大賞"を受賞する。
1987年〜1994年、日本テレビ系のトーク番組、「オシャレ30・30」にレギュラー出演。ゲスト陣とのトークに加え毎週1曲、のべ360曲を披露する。
1994年、ロンドンや東京のクラブシーンで旧作「スキンド・レ・レ」や「L.A.ナイト」が再び流行。同年9月、日本ではDJによるリ・ミックス・アル バム「カメレオン」が、そしてロンドンではBeechwood Recordより、コンビレーション・アルバムで「L.A.ナイト」などが発売される。
1996年、ピノ・パラディーノをプロデューサーに迎え、ロックのカバー・アルバム「エコーズ」をリリース、又、同タイトルのフォト・エッセイ集も発表。同年、5枚組CD集「ソング・ブック」をリリース。
1997年、プロデューサーにアル・シュミット、選曲・観衆に松本幸四郎氏を迎え、ミュージカル曲集「TEA FOR TWO」を発表。
1998年、長年の英語歌曲の発音の功績により、日本人歌手としてはじめて、有名私立高校使用の大学受験生用の教材"プログレス・イン・イングリッシュ" (株式会社エデック発行)に「美女と野獣」、「星に願いを」、「ホール・ニュー・ワールド」の3曲が採用される。