Karel Ancerl (カレル・アンチェル) / 指揮者プロフィール

PROFILEプロフィール

Karel Ancerl (カレル・アンチェル) / 指揮者

Karel Ancerl (カレル・アンチェル) / 指揮者

1908年、南ボヘミアのトゥカピに生まれ。
名門プラハ音楽院で指揮をヴァーツラフ・ターリヒに学ぶ一方、前衛音楽家アロイス・ハーバに作曲を学ぶ。
1933年、プラハ交響楽団の音楽監督に就任し、一躍脚光を浴びるようになった。
1950年、チェコ・フィルの常任指揮者に就任し、ターリヒ時代を継ぐ第二の黄金時代を築き上げるが、『プラハの春』に沸くチェコにワルシャワ機構軍(旧ソ連)の戦車が侵攻し、自由化の希望の灯が消えた1968年、単身北米ツアーの途上だったアンチェルは帰国を断念。
1973年、二度と祖国の地を踏むことなく亡命の地で生涯の幕を閉じた。

チェコ・フィル中興の祖とも称されるチェコの名指揮者、カレル・アンチェルは1908年、南ボヘミアのトゥカピに生まれました。
名門プラハ音楽院で指揮をヴァーツラフ・ターリヒに学ぶ一方、前衛音楽家アロイス・ハーバに作曲を学びます。日本ではスメタナやドヴォルザークといった「お国もの」の指揮者として、もっぱら評判の高いアンチェルですが、実は生前、本人自身がもっとも得意とし、周囲からも注目されていたのは現代音楽の指揮者としてだったのです。なかでもストラヴィンスキーとショスタコーヴィチは十八番。本邦初リリース(2008/6/18)となる「詩篇交響曲」などは、まさにアンチェル芸術の最良の姿を刻んだ音盤です。
1933年にプラハ交響楽団の音楽監督に就任し、一躍脚光を浴びるようになったアンチェルでしたが、ナチス・ドイツのチェコ侵攻とともにその職を追われ、ユダヤ系だった彼は家族とともに強制収容所送りとなりました。結局、妻や子供たちなど、アンチェルの家族はアウシュヴィツで虐殺されてしまったのです。
戦後、奇跡の生還を遂げたアンチェルは、1947年にプラハ放送交響楽団の常任指揮者として楽壇に復帰。
1950年にはチェコ・フィルの常任指揮者に就任し、ターリヒ時代を継ぐ第二の黄金時代を築き上げます。しかし、『プラハの春』に沸くチェコにワルシャワ機構軍(旧ソ連)の戦車が侵攻し、自由化の希望の灯が消えた1968年、単身北米ツアーの途上だったアンチェルは帰国を断念。1969年、カナダのトロント交響楽団の常任指揮者として最後のひと花を咲かせますが1973年、二度と祖国の地を踏むことなく亡命の地で召されます。

2008年はアンチェル生誕100年の記念年です(誕生日は4月11日)。悲劇的な人生を送りながらも、常に新しい音楽の振興に努力し続けた巨匠の音楽を再発見してください。