安藤まり子は本名を安藤摩璃子と言い、1929年(昭和4年)2月2日に北海道北見市に生まれ、北見高等女学校在学時期に音楽の専門教育を個人的に受け、上京して武蔵野音楽学校声楽科に進学、ドイツ人の声楽家リア・フォン・ヘッサート(Ria von Hessert 1893〜1989)女史に師事して研鑽を積みました。
1949年(昭和24年)に武蔵野音楽学校を卒業、6月に日本コロムビア株式会社の専属歌手となり、早速第一作目として「落葉流れて」が録音されましたが、続いての「花の素顔」が映画の公開に合わせて臨時発売となりましたので、2作品がほぼ同時に市場に出た為に「花の素顔」が事実上の第一作扱いとなりました。藤山一郎と新人歌手の共演は異色の人選であり、録音当日は大変に緊張したとの事ですが、如何に実力が有り会社が期待しているかの証左と言え、期待に違わぬ素晴らしい歌唱によるヒットは幸先の良い出発となりました。
以後は順調に新譜を発売する様になり、豊かな声量と表現力を生かした抒情的な作品を中心に企画が立てられ、仁木他喜雄(1901〜1958)、高木東六(1904〜2006)、平川英夫(1906〜1995)、服部良一(1907〜1993)、田村しげる(1908〜1980)、八洲秀章(1915〜1985)、團伊久磨(1924〜2001)等の品位ある抒情作品に秀でた作曲家の作品を何れも見事に歌っております。
また、外国作品の日本語版では当時流行の米国の軽音楽との縁はありませんでしたが、戦後に解禁となったソ連・ロシアの新作に抜擢されています。特に「カチューシャの唄」は最初の日本語版の歌手としての大役を見事に果たして流行に貢献し、次いで「うたごえ運動」の主催団体からの委託製造品の「うるわし春の花よ」にも指名されており、声楽の基礎と表現力を認められての人選と言えましょう。
更には、外部からの委託製造品にも足跡があり、これは依頼主の指名か会社の推薦ですので、この場合も実力と知名度如何に因ります。音楽学校出身の読譜力のある歌手が中心ですので、新人ながら高い評価を得ていた事がわかります。
歌手生活の中での代表作品と言えますのが「毬藻の唄」であり、これはコロムビアが新人歌手の募集の「全国歌謡コンクール」の課題曲の制作に際して、1953年(昭和28年)の第4回目は大衆娯楽雑誌「平凡」と組み、歌詞を公募して当選作品に作曲家が曲を付けるとの新しい試みを行った中の一作です。25000余の応募作品の中から20篇の詩が選出され14人の作曲家と24名の歌手を動員する大規模な企画であり、SP盤のレーベルを歌手の写真を配した色刷りの特別仕様として、20作品の10枚を同時発売した中で最も好評を博した作品でした。詩の良さ、作曲・編曲の良さ、歌唱の素晴らしさに於て卓越している事が今日までも命脈を保ち続けている要因です。
この時期に武蔵野音楽学校の後輩であり、コロムビアの新人歌手の若山彰(1927〜1998)と結婚し、「毬藻の唄」の大ヒット中でありながら1954年(昭和29年)9月の契約満了の1年以上前に引退しました。短期間の活躍ではありましたが、良い作品に恵まれ何れも見事な歌唱が印象的です。なお若山とは1956(昭和31年)に離婚しました。
その後は芸能界から遠ざかり、テレビ出演や代表作品の新録音も行わずにおりましたが、1982年(昭和57年)に二葉あき子(1915〜2011)、池真理子(1917〜2000)、並木路子(1921〜2001)、柴田つる子(1921〜1997)と「コロムビア五人会」を結成したのを機に現役復帰して歌手活動を再開しました。引退より30年弱を経ており、結成の勧誘に際しては気軽な気持ちで引き受けたとの事ですが、50代前半の若手でしたので引退期間を感じさせない力量を示しました。この再開により代表作品の新録音や新作品の録音も行い、1986年(昭和61年)には独唱会を開催、単独活動にも進出して活躍し、1988年(昭和63年)には郷里の北見市にて初めての独唱会を開催しました。
21世紀に入りますと五人会は時間の推移により活動が終息しますが、SP盤時代の現役歌手としての活躍を続け、2004年にはSP盤時代の作品と新録音・独唱会録音を交えたCDを自主制作しています。その後もNHKやテレビ東京のテレビ番組への出演、日本歌手協会の催事への出演を初め、多方面にて活躍しております。一筆書きの同時録音であるSP盤時代を経験した数少ない歌手の一人として貴重な存在と申せましょう。