DISC-1 (*Original Release:1994.8.21)
1.Edo River
2.Be My Baby
3.アイ・アム・サル
4.さよならプー
5.サイケなココロ
6.Speed Skate Sightseeing
7.ダイナマイト・ボイン
8.サマーデイズ
9.ローマ・函館
10.レター
11.今日も朝から夜だった
12.Love Experience
DISC-2
1.Are You There With Another Girl
*from V.A.『Tribute To Burt Bacharach』
2.ローマ・函館 (Studio Demo)
3.さよならプー (Studio Demo)
4.Edo River (Demo)
5.Be My Baby (Demo)
6.サイケなココロ (Demo)
7.サマーデイズ (Demo)
8.ローマ・函館 (Demo)
9.Love Experience (Demo)
10.Edo River (Home Demo)
11.アイ・アム・サル (Home Demo)
12.さよならプー
(Home Demo/Instrumental)
13.サイケなココロ (Home Demo)
14.ダイナマイト・ボイン (Home Demo)
15.今日も朝から夜だった
(Home Demo/Instrumental)
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1994年リリースの通算5枚目にして記念すべきコロムビア移籍第一弾アルバム。
収録曲「Edo River」「ローマ・函館」が各地のFMでパワープレイを獲得、外資系を中心としたCDショップでの大プッシュもあり、音楽ファンの間や業界内で一躍話題となった記念碑的アルバム。DISC-2には貴重なスタジオ・デモ/ホーム・デモ音源等を収録。[ライナーノート:萩原祐子]
直枝政広による『EDO RIVER』セルフ・ライナーノート
『天国と地獄』発表後、何をどうしていいかわからないまま渋谷エッグマンの高橋氏に連絡をとり「ゼロからやります。前向きにライヴをやっていきたいのでよろしくお願いします」と神妙な面持ちで挨拶に行った。かなり挑戦的な編成でファンキーなアンサンブルを模索しだした頃だ。スタジオも自分たちで予約したし、先が見えないという恐れは常にあったけれど、バンドの機材車(中古のハイエース)を購入し、皆でがんばって車を維持しようと、気持ちもひとつになれた時期だった。なかなか運に恵まれないながらも音楽にしっかり向かい合えたことを思えば、バンドの一番結束の固かった2年間だったのかもしれない。あの苦境時のメンバーたちの根性はたいしたものだったと思う。そんな状況においてもライヴになればお客さんが集まってくれたことが何より励みになったし、ライヴだけは欠かさなかった。
徳間ジャパンとの契約はそれぞれがアルバムごとの単発だった(その事情すらわからず、ディレクターに言われるがままやっていたのだけど)。自信作だったとはいえ『天国と地獄』がバカ売れしたわけでもなし、バンド契約はいつのまにか終了していた。状況を見るに見かねたのか、担当ディレクターだった芝省三氏がミストラルズ・ミュージック荒弘二氏に「彼らのライヴを観てやってくれ」と声をかけた事が契機となった。ある日、メンバーは荒氏に新宿二丁目のカウンターだけのバーに呼び出され、いきなり「よかったらうちの事務所で面倒みるよ」と言われた。結果も出していない、何も得もないバンドになんでこの人はこんなに親切なんだろうとも思ったが「あんなライヴを出来るバンドはないよ」という一言、それがすべてだった。
Studio Demoを録音したのは今は亡き赤坂の日本コロムビアのスタジオだった。1993年の11月。当時のライヴ・メンバー(ロベルト小山、美尾洋乃、大野由美子)とともに、念願だったエンジニアの牧野氏(ニューエスト・モデル『クロスブリード・パーク』を手がけた)を迎え、ほぼ一発録音で2曲(Disc2のM2「ローマ・函館」とM3「さよならプー」)を仕上げた。その時すでにコロムビア第一制作宣伝の平野美歌が即席のディレクター的な立場で同席していたと記憶する。
そのデモが認められ、コロムビアで単発契約でアルバムを出すことが決まってすぐバンドはプリプロに入った。84年の2月、その頃は妙にどしっと落ち着いた気分だった。将来に備えて慌てたり、浮かれたりすることもなく淡々と毎日電車に揺られて表参道のミストラルズ・ミュージック地下のスタジオに通った。倉庫兼用のスタジオには裸のラリーズやニューエスト・モデルのライヴ録音テープが無造作に転がっていて、一種独特なやばいロックの匂いがあった。バンドは6曲のアレンジを煮詰め、Demo(Disc-2のM4〜M9)を録音した。まず、ADATのスイッチを器用に足の指で操作しながら黙々とギターのダビング、パンチ・インを繰り返していた鳥羽くんの姿が思い浮かぶ。あの時、薄暗い部屋に籠った5人はレコーダーを囲んで何をしゃべったのだろう。一度、とてつもない笑い病が伝染して床を転げまわったような記憶もあるが…。サウンドは時間をかけて確実に手応えのあるものになっていった。ドラム・パッドによる不便なリズム打ち込みも、矢部くんの天才的なリズム感覚にかかればまるで生のようなニュアンスが生まれたし、後はどうやって歌うかということに気持ちを集中できた。
仕上がったデモを聴いた荒氏の「ここまでやる?すごすぎる!」という反応も、逆にこちらには意外で、「いやぁ、当たり前なんですけど…」と頭をひねったものだ。当時のカーネーションの音楽的な体力は並外れていた。細かい音符をああだこうだとプラモのように組み立てることが実際楽しかったこともあるが、そもそもがXTCフォロワー、耳に新鮮だった60年代ソウル・ミュージック風の旨味を引き寄せよせるにもやはり膨大な時間がかかった。やりたいことを思いっきり試せるという喜びや、未知なる音にのめりこむ熱意がいかに猛烈だったかは、このデモを聴けばわかる。バンドは大きな転換期を迎えていたのだ。
当時はよく矢部くんとふたりして西新宿へレアなソウル・レコードを探しに行った。高いレコードを買わされても帰りの喫茶店では「こればかりはしょうがないよね…」とあきれては笑いあった。思えば『天国と地獄』ではファンク的な筋肉を鍛え、後の『Edo River』に向けては音楽の聴き方のフォーム改造に取り組んだ印象もある。その空白の2年間に無駄はひとつもなかった。
復活作『Edo River』が発表されるその4ヶ月前、プリプロ・デモを録り終えて間もない4月には渋谷クラブ・クアトロで『Wacky Packages』の音源となるライヴ収録が行われた。それまでに見たことのなかった激しい急流はすぐそばに迫っていた。
“Home Demo覚え書き”
つまり、家でのひとり録音作業をHome Demoと呼ぶわけだ。全楽器をシュミレイトしながら演奏するようになったのは前作『天国と地獄』時の作業から。それ以前はTR-808をバックにシンセやギターの軽いダビングですますことが多かった。この『Edo River』期の宅録状況を書くと、TASCAM488という8chカセットMTRでの録音が主で、シンセ音源はRolandのS-50。当時はアンプ・シュミレーターなどもなくギターのほとんどが直のLine。マイクはシュアーだった。作り込みが激しくなってきていて、ほぼアレンジのラインや全体像のイメージは完成されている。大まかであるがゆえに、ここから実演に向かう時には想像以上の手間がかかるわけだ。
ちなみに「Edo River」という曲はじつはもう一曲あって、それは93年にメトロトロンから発売された『International Avant-garde Conference Vol. 3』というアルバムに直枝政太郎名義で収録されている。良く言えばマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』とサン・ラをかけあわせたような、じつに奇妙なインスト曲で、そのタイトルが「Edo River」だった。ここに収められた「Edo River」(Home Demo)はそのイメージとタイトルだけを引き継いで作った別物であって、つまりカーネーション版「Edo River」の原型にあたる。そのカセットには「Edo River#2」というクレジットがついていた。なんともよれよれのラップと「父さん、父さん〜」なる歌詞が笑えるではないか。そういえば当時は近所迷惑にならぬよう、布団をかぶって歌を録音。ここで聴けるボソボソした歌い方の裏にはそういう環境の事情もあったわけ。一方、矢部くんのHome DemoはYAMAHAのQY-10。話によると相当に不便な打ち込み機械だったようだが、細やかなテクニックでなんとも夢のようにしなやかな旋律が生まれた。ムーディーな「さよならプー」(Home Demo)は今回はその音質を優先しインストで収めた。「今日も朝から夜だった」はじつはフランク・ザッパ「A Little Green Rosetta」(『Joe's Garage』)風を狙った変調のブルースだが、ここではいかにも手作りのキッチュなHome Demoならでは味わいを楽しんでいただきたい。ちなみにバックの手拍子はMickey Finnの疑似パーティLP『MICKIE FINNS AMERICAS NO.1 SPEAKEASY』から拝借している。
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