池真理子プロフィール

PROFILEプロフィール

池真理子

池真理子

◇ 生年月日:大正6年1月20日
◇ 出身地:京都府

昭和9年、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)に入団。(芸名:三日月美夜子)
その後、宝塚を退団して作曲家・佐々木俊一の内弟子となり、昭和16年にビクターから「君と別れて」でレコードデビュー。
その後、コロムビア(当時はニッチク)へ移籍し、慰問隊員として全国を回った。
終戦後、改めて「愛のスウィング」でデビュー。この大ヒットによって“スウィングの女王”と呼ばれるようになり、続いて「センチメンタル・ジャーニー」「愛の散歩」「ボタンとリボン」などのヒットを次々と飛ばす。
その後も、日本ラテン音楽協会(現・日本ラテンアメリカ音楽協会)を設立したり、二葉あき子、並木路子らと「コロムビア五人会」を結成、国内のみならず海外でも公演を行ったりと、幅広く、息の長い活動を精力的に続けた。
平成12年5月30日、83歳で急逝。

 池真理子は1917年(大正6年)1月2日に京都府京都市の生まれ、生後半年にて父親を失い祖父母の手で育てられました。地元の平安女学院を経て、1934年(昭和9年)宝塚音楽歌劇学校の声楽専科に進み、三日月美夜子の芸名となりましたが、芽が出ない状態が続きました。
 友人と赴いた京都山科の「東山ダンスホール」にてジャズに魅了され、楽長のジミー原田(1911〜1995)に師事を願い出た結果、宝塚を退団してダンスホールへと移ります。楽団の歌手として活躍し、原田がドラム担当の後には歌手と指揮者を兼ねて評判を呼びましたが、支那事変の長期化により1940年(昭和15年)8月以降ダンスホールは閉鎖を余儀なくされます。同時期に京都の民謡歌手の三島一声と歌手の一色皓一郎の勧めで日本ビクター蓄音器株式会社の作曲家の佐々木俊一(1907〜1957)の内弟子となり、レコード歌手へ方向転換を図り、6月20日発売の「ビクター」レコード7月新譜「君と別れて」(佐伯孝夫作詩、佐々木俊一作曲、伊藤翁介編曲、一色皓一郎共演)に「池マリ子」の芸名で再出発します。新譜月報の作品紹介欄には「嘗て寶塚でスマートな歌ひぶりを賞されてゐた新人池マリ子」とありますが、2作目が検閲により発売中止扱いになり、結局同社では1曲のみの新人でした。その後は京都にて歌手活動を継続、1944年(昭和19年)に日蓄工業株式会社(株式会社日本蓄音器商会の戦時下の社名)の準専属となり、同社慰問隊の一員として活躍、1945年(昭和20年)2月1日に同社の専属に昇格しました。この間に5曲の録音があり、一部は戦時下の同社最終期の新譜として発売されています。
 戦後、直ちにレコードの製造を再開した同社は旧作品の再発売を中心に新譜を組みつつ、新時代に向けての新作企画も進行し、新感覚の作品「愛のスウヰング」の制作時に抜擢されたのが池真理子でした。抜群のリズム感、豊かな声量、楽団の演奏水準の高さ等の様々な要因が結実しての大ヒットとなり、一躍新時代の歌手として注目されます。スウィングやブギの洋風流行歌を中心に企画が立てられ、外国作品の日本語版も実に見事な出来です。その一方で抒情的な作品や声楽的な作品にても遺憾なく実力を発揮し、また制作を急ぐ映画主題歌では読譜力と表現力を買われて頻繁に起用され、戦後のSP盤時代を代表する歌手の一人となり、「スウィングの女王」と言われました。
 外国作品の日本語版の中では「ボタンとリボン」が最大のヒットとして知られており、元々は米国映画主題歌として歌われ、ダイナ・ショアのレコードが提携生産されて好評を博しましたが、日本独自の編曲と訳詞による池のレコードは忽ち首位独走となります。題名の「ボタンとリボン」は訳詞では「バッヅァンボゥーズ」と原語発音に近い片仮名表記でしたが、「バッテンボー」と聞こえる事で更に有名になりました。また、当時の新感覚の「Boogie-woogie」は「ブギウギ」「ブギー」「ブギ」と様々な訳があり、「Swing」も「スウヰング」「スヰング」同様で、作詞家の感覚により表記の統一が取れておりません。
 この時期に仏教学者の鈴木大拙(1870〜1966)の子息の鈴木勝(1916〜1966)と結婚、伴侶の作品を歌う一方で、「東京ブギウギ」は池が作詩の大半を担当との制作裏話があります。また、1952年(昭和27年)8月新譜から「素晴しい外国作品や、日本の名曲を新しいスマートな感覚で作った高級流行歌レコード」として登場した新規格のJL盤にも登用され、見事な作品を残しております。更に日本放送協会の「紅白歌合戦」には1952年から1957年の間に合計6回出場し、人気の程が伺われます。
 その後、1960年(昭和35年)に渡米して現地の音楽事情に接し、この時の見聞からラテン音楽に魅了され、1965年(昭和40年)には日本ラテン音楽協会(現在の日本ラテンアメリカ音楽協会AMLAN)の設立の一員となります。次いでフォルクローレに傾注して紹介に努め、ペルーの首都リマでの独唱会を開催する程でした。更にはロシア音楽へと興味の対象が広がり、その全てを見事に体得している点は流石です。1982年(昭和57年)から二葉あき子、並木路子、安藤まり子、柴田つる子と「コロムビア五人会」を設立し幅広い活動を続けました。また、歌手生活の節目では記念独唱会を開催し現役歌手としての存在を再認識させ、テレビ・ラジオ・実演を通して活動を続けました。2000年(平成12年)5月28日に実演にて「センチメンタル・ジャ−ニ−」独唱後にくも膜下出血にて倒れ、30日に亡くなりました。

郡 修彦(音楽史研究家)