幼少時より、母の歌に合わせて三線を弾き始め、その才能が開花し始める。三線を片手に島々を転々とし、特に南洋諸島に移り住んだ折には、軍の雇員でありながらも三味線を弾いていたという。その他大阪に住んでいたことも。
昭和24年に生まれ育った沖縄に戻る。沖縄芝居の地唄としても各地を歌いながら練り歩き、そのうちラジオ出演やレコード録音などの活動が増え、次第に人気を集めていく。
昭和48年には、竹中労氏のプロデュースで渋谷ジァン・ジァンにて独演会を行い、それ以後彼の名は全国に知れ渡り始めた。
愛称は「カデカルさん」、「おとう」、また竹中労氏は「島唄の神様」と呼んでいた。「カデカルさん」は特に沖縄県内の同世代から、「おとう」は若い世代からは呼ばれていたもので、沖縄の人々がどれだけ彼を慕っていたかが窺える。