クロアチアの首都ザグレブの近郊スシャークに生まれる。幼少の頃にウィーンへ移住し、9歳のときウィーン少年合唱団に入団する。退団後、ウィーン音楽アカデミー、ウィーン市立音楽院で学び、1919年にケルン歌劇場の副指揮者としてデビュー。
1933年にザグレブ国立歌劇場の第1指揮者。1938年にはベオグラード国立歌劇場の音楽総監督に就任する。戦前からベルリン・フィル、パリ・オペラ座などに幅広く客演を行なうが、それがナチスへの協力者としての烙印を押されることとなり、第二次世界大戦後はしばらく不遇の時を過ごす。1954年から本格的な活動を再開し、バイエルン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ローマ歌劇場、ドレスデン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場などに登場。1956年には「ローエングリン」を振ってバイロイト音楽祭にデビュー。1961年からはフランクフルト市立劇場の音楽監督となり、一貫してオペラ指揮者としての道を歩む。
コンサート指揮者としてはドイツ・ロマン派、ロシア東欧物を得意とし、なかでもブルックナーのスペシャリストとして、その雄大なスケールの音楽づくりでカリスマ的な人気を誇った。ウィーン交響楽団とは親密な関係を結び、定期的に客演を続けた。1970年には故国ザグレブ・フィルの終身名誉指揮者となる。
日本とのかかわりも深く、1965年にスラヴ歌劇団の第1指揮者として初来日。「ボリス・ゴドゥノフ」を指揮して日本の聴衆に圧倒的な感銘を与えた。この時にNHK交響楽団とも初の共演を果たし、1967年には名誉指揮者の称号を与えられる。その後、1984年3月の最期の共演まで、同交響楽団を指揮するために7度の来日を果たす。スプラフォン、EMIを中心にレコーディングも多数。作曲家としては「対決の交響曲」のライヴ録音を残している。ザグレブで死去。享年85歳。