創設期の倶楽部の演奏会曲目を見ると、クラシック楽曲が主で、おそらくこの当時のマンドリン・オーケストラの平均的なものであり、独自性は見られない。昭和3年、上級生となった古賀が指揮の演奏会では、民謡、中山晋平曲等、日本の大衆的な音楽も演奏され、更に4年の演奏会では古賀のオリジナル曲も演奏されている。昭和5年の17回演奏会では、童謡舞踊と淡谷のり子の歌と踊りがつくという、かなりユニークな構成となっている。古賀がコロムビアと契約した昭和6年18回演奏会では古賀作品による舞踊コーナーとなっている。これ以降、クラシック、クラシック的小品だけでなく、ポピュラー音楽もそのレパートリーの比重を増していった。
現在のマンドリン倶楽部は、クラシック、ポピュラー、古賀メロ他歌詩曲・オリジナル、そしてゲスト歌手のレパートリーと和洋の“ポピュラリティー”のある幅広い音楽を演奏して、特にクラシック以外ではドラムス、エレキ・ギター、エレキ・ベースをリズム体として、クラシック・スタイルの他のマンドリン・オーケストラとは一線を画した独自のオーケストラであり、演歌歌手からポップス、クラシック歌手と幅広いジャンルの伴奏をこなせるのは、この演奏スタイルによる。
明治大学マンドリン倶楽部が他と同じようにスタートをきりながら、ある時期からプロ大衆歌謡作曲家古賀政男の指導とその影響のもと、レコード音楽の世界と近い位置で活動し、独自のマンドリン・オーケストラとして、学生、アマチュア・バンドの枠を超えた存在であることは、長年の歴史が証明している。特にアマチュア学生バンドでありながら、多くの演奏レコードとヒット曲の伴奏で歌謡史上でも稀有で貴重な存在となっていることは驚きである。
初期の古賀メロのヒット、特に「丘を越えて」は、歌手以上に伴奏が主役であったが、伴奏だけではなく古賀がテイチクに移籍した頃には、その演奏レコードが数多く発売されるようになった。その曲目は、古賀メロと思われるが、実際は当時日本に移入され人気のポピュラー音楽であったことは意外に知られていない。
爾来、マンドリン倶楽部のレコードは他に伝統の宮田楽団、慶應のマンドリン倶楽部をはるかに凌駕し、コロムビア、テイチク、ビクター、キングと主流メジャー・レコード会社から数多く発売され、レコード・マンドリンと言えば明治、と一般に認識されるまでになった。
たしかに、現在では1991年「ビバ・マンドリーノ」をスタートにコロムビアより発売されているシリーズがメインではあるが、LPが普及した昭和33年から昭和末期まで、多くのレコード会社からLPが発売され、マンドリン音楽の担い手として人気を誇ったことは間違いなく、それは4年間でメンバーが入れ替わる学生バンドとしては類の無い活躍であり、レコード界への貢献は大なるものであった。
レコード各社へ多くの演奏録音を残してきたマンドリン倶楽部であるが、その歌謡界への人材輩出での貢献でも他に類が無いものである。