Mick Karn(ミック・カーン)プロフィール

PROFILEプロフィール

Mick Karn(ミック・カーン)

Mick Karn(ミック・カーン)

◇ 元ジャパンのメンバー。
ベーシストに対し、好きなベース・プレイヤーもしくは影響を受けたプレイヤーの名前を聞くと、おそらくミック・カーンの名は確実に挙がるだろう。事実、彼 のユニークな奏法に影響を受けてベースを始めたというミュージシャンは数多い。特に日本では"ベースの神様"とまで賞賛されている。

ミック・カーン
『スリー・パート・スピーシーズ』について語る
インタビュー掲載

ベーシストに対し、好きなベース・プレイヤーもしくは影響を受けたプレイヤーの名前を聞くと、おそらくミック・カーンの名は確実に挙がるだろう。事実、彼 のユニークな奏法に影響を受けてベースを始めたというミュージシャンは数多い。特に日本では"ベースの神様"とまで賞賛されている。

キプロス島生まれのミックは3歳のとき家族と共にイギリスへ移住。7歳でハーモニカ、11歳でバイオリンを習い、既に自分を表現する手段に興味を抱いてい た。後、学校のオーケストラに加わりバスーンを担当し、ロンドン・スクール・シンフォニー・オーケストラのメンバーとして選出される。ハーモニカもバイオ リンもバスーンも、何一つ習って始めたものではなく、全て耳で聞いて覚えたという。イギリスRadio4で放送されたコンサート終了後、バスーンが何者か に盗まれたが学校は新たに購入する事を拒否した事が原因となりオーケストラを脱退、そのかわりに£5で中古のベースを購入。

その後同じ学校の同級生デビッド・シルビアン(vo)とその弟スティーブ・ジャンセン(d)と出会い"ジャパン"結成、1974年6月1日に初ライブを行 う。この時ミックはまだ15歳だった。その後、ミックは同じ学校に通うリチャード・バルビエリ(key)と出会い、リチャードはバンド加入を決心、また、 音楽紙"メロデイメーカー"のギタリスト募集の広告を見てロブ・ディーンが加わり、バンド"ジャパン"が誕生した。

1978年にアリオラ・ハンザ・レコードより『果てしなき反抗(The Unconventional)』でデビュー。当時のイギリスのミュージック・シーンはパンクからニューウエーブへと流れており、その後ニュー・ロマン ティクスへ移行したのだが、"ジャパン"はどこにも属す事無く独自の存在をアピールしていた。またそのショッキングなルックスもあり、本国イギリスよりも 日本での人気が先行したのは周知の事実だ。3枚のアルバムと5枚のシングルをリリース。1980年、ヴァージンへ移籍。トータル4枚目となるアルバムで は、坂本龍一が参加。1982年、5枚目アルバム『ブリキの太鼓』を最後にグループ解散。このアルバムではチャイニーズ・ポップのエッセンスを加え、非常 にユニークな作品として仕上がっており、皮肉な事に、ジャパンにとっての最高傑作と賞賛される作品となった。

ミックのソロは、ジャパン解散前の1981年、ゲイリー・ニューマンの『ダンス』に参加した事をきっかけに活動の幅が広がり、土屋昌巳、矢野顕子、ミッ ジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)、ピーター・マーフィー(元バウハウス)、ケイト・ブッシュ等とセッションを精力的に行い、徐々に彼独自の音楽スタイル とオリジナルなベース・ラインに磨きをかけていった。また、チャールズ皇太子とダイアナ妃の婚約披露のイベントで、ピート・タウンゼントによるスーパーグ ループがプレイした際、ミックはそのベーシストとして選ばれた。

また、この頃から彫刻という手段を持って、音楽とは別の手段の表現を始める。ロンドン、日本、イタリアで計5回のエキジビションが開催され、ミックのアーティストとしての才能が認められるようになる。(日本では渋谷PARCO他大阪、福岡のPARCOにて開催)

ソロとしてのキャリアは1982年ファースト・アルバム『Titles』から始まる。アンジー・ボウイの参加も話題となった。1987年には、2枚目 『Dream Of Reason Produce Monsters 』をリリース、ミックの独特なベース奏法が余すところなく展開されている。その後もデヴィッド・トーン、テリー・ボジオらとのプロジェクト活動を重ねる一 方、スティーブ・ジャンセン、リチャード・バルビエリとレーベル"Medium"を立ち上げ、JFKとしての活動も開始し、ソロのアルバムも定期的にリ リースを続けた。(詳細はディスコグラフィー参照)

また、日本での熱心なファンを多く持つミックは、日本人ミュージシャン達からも熱いラブコールを送られている。SUZIGO(元Luna Sea)のソロ・アルバムの参加をはじめ、ヴィヴィアン・スー、NINA, KIRITO(元ピエロ)のソロ等様々なミュージシャン達の作品及びツアーにセッション・ミュージシャンとして参加している。

今年2006年6月、待望のソロ・アルバム『Three Part Spieces』がイギリス及びヨーロッパで発売。
本作では今までに無いポップ性にチャレンジしているという。しかし、ミック・カーンのベース・ラインは変わる事無く地を這うように音にまとわり付いている。彼ほど"自分の音"を確立しているミュージシャンはいないだろう。彼の音を待っているファンは、まだまだ多い。


 

ミック・カーン 『スリー・パート・スピーシーズ』 インタビュー

 

--アルバムの殆んどのトラックがインストだけど、言葉を載せずに自分の中にあるものを伝える事は可能だと思いますか?
Mick: 僕にとっては音楽もアートも"感性"だと思うんだ。
息子が生を受けた時、その彼が描いている絵の中で使ってる色を見た時なんかでも幸せを感じる。レンブラントが自分の自画像を見ていかに悲しんだかとか・・彼らの作品の中のコンセプトや意図を知る必要は無いと思うんだ。それはまさに僕たちが一瞬で感じ取る"感性"であるべきだと。
僕は曲を書くとき、いつも自分自身を真っ白なキャンバスに見立てるんだ。
だから、僕が作る曲は湧き出てきた"感覚"そのもの、アイディアのかわりにね。ます2−3の楽器で曲のベースができたら、あとは何を重ねていくかを考える。
音楽はいつも自分の"感性"を理解させてくれる。だから聞き手である皆も自分が感じた通りに理解して欲しい、それが例え、僕の感じたものと違っていてもね。
--ではミックにとって歌詞の重要性とは?
Mick: このアルバムでは、ベックス・コリンズに"オール・ユー・ハブ"の詞を頼んだんだ。今回ボーカルをオーディションした時に、どんな歌詞を載せて歌いたいかという部分をとてもオープンにして皆に任せてみた。ただこの時に一番大事だったのはこの曲がもつ空気と似ている雰囲気を持つ声と感性であって、言葉自体はそれ程大事じゃなかった。始めに言ったように、インストの各曲が持つ意味はリスナーに委ねたい。僕が詞を書く時は、リスナーに曲の意図や意味を理解して欲しいという気持ちが強い時かな。
そういう意味では歌詞も僕にとってはとても重要な意味を持っているけど、そんなに頻繁にはないな。
--アルバム・タイトルは何を意味してますか?
Mick:現代のテクノロジーや今僕たちが生きている社会が、僕たち人間が本当な何であるのかを忘れさせている、基本的には原始的な生き物である、と言うことをね。最近は犯罪を犯す人達が急増している様に思える、現代社会のプレッシャーが人を狂わせているんだろう。それで、一体この世の何パーセント位の人達が、"種"(species)としての本来の人間なんだろう、と考え始めたんだ。僕らにはまだ、至福感を味わう為の3大欲を持っているー食欲、睡眠欲そして性欲。少なくともこの3つ(Three Parts)を備えている者が人間と言う"種"なのでは・・.、そういう意味合いがこのタイトルには込められてる。
--アルバムのコンセプトについて。
Mick:こんな事言うと驚くかもしれないけど、僕の作品は全て"ポップ・ミュージック"だと思ってる。ロックとかジャズなんて呼べないよ(笑)
今回の作品では、より"ポップ性"に焦点を当てたつもりなんだ。だから曲作りはスムースに進んだ。多分僕のルーツなんだと思う。今後は更に、この"ポップ性"を広げて行きたいと思ってる。
--日本のミュージシャン達と数多くセッションをしている様ですが、そこからインスパイアされることは?
Mick: 音楽にもよるけど、自分にとってもチャレンジである音を、いつも求めてる。いつもの僕のプレイとは違うものとかね。
--ミックのアルバムの日本発売を首を長くして待っていてくれた日本のファンに向けて一言。
Mick: 僕自身も日本でのリリースを心待ちにしていたよ。
僕にとって日本のファンの存在は、いつでも特別な存在だからね。彼らの支えが無かったら、ミュージシャンとして生き残ってる事は無かったと思う。彼らは本当に昔から支えてくれてた。
今まで皆が僕に与えてくれた喜びや幸せを、今度は僕が皆にお返しをする番だと心から思ってる。
皆の前でプレイする事を心待ちにしているよ。



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