弘田三枝子プロフィール

PROFILEプロフィール

弘田三枝子

弘田三枝子

◇ 本名:竹永三枝子
◇ 生年月日:1947年2月5日
◇ 出身地:東京都世田谷区

小学生の頃から米軍キャンプで歌い、1961年11月東芝レコードから「子供ぢゃないの/悲しき片想い」でレコードデビュー。その後、「ヴァケーション」「想い出の冬休み」「悲しきハート」「ビーマイ・ベイビー」などカバーポップスのヒット曲を連発、そのダイナミックな歌唱と健康優良児イメージから“パンチのミコちゃん”とよばれて人気爆発。
1962年「第13回NHK紅白歌合戦」に「ヴァケーション」で初出場、以後22回まで出場する。週に10本以上のテレビのレギュラー番組を持つ程の国民的な人気者に成長した。
1964年12月、日本コロムビアへ移籍。第一弾「砂に消えた涙」が大ヒット。
「ナポリは恋人」「夢みるシャンソン人形」などカバー路線で大ヒットを飛ばし、“ポップスクィーン”と称される。
1965年7月、日本人歌手として初、18歳で「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出演。12月、アニメ『ジャングル大帝』のテーマ「レオのうた」を発売するなど多彩なジャンルで活躍。
1966年1月、ニューヨークレコーディングされたアルバム「ニューヨークのミコ」リリース。
1968年、アメリカ〜ヨーロッパから帰国後に行われたライブを録音した「ミコR&Bを歌う」で日本の音楽界でいち早くR&Bに取り組む。
1969年7月、イメージチェンジを計って「人形の家」を発売、ミリオンセラーを記録し「日本レコード大賞」歌唱賞受賞。
自身の経験を綴ったダイエット本、「ミコのカロリーブック」が150万部の大ベストセラーとなり、ダイエットブームの先駆者となる。
大阪万博の歌「世界の国からこんにちは」を三波春夫、吉永小百合、坂本九などと競作。

「私が死んだら」「燃える手」「ロダンの肖像」「できごと」ほか歌謡曲のヒットを続発したが、渡米帰国後はジャズやポップス方面に傾倒、「JAZZ TIME」「My Funny Valentine」「IN MY FEELING」などのジャズ・ヴォーカルアルバムを発売、高い評価を受ける。

アメリカ屈指のジャズ・シンガー、エラ・フィッツジェラルドに気に入られ「私の養女にしたい」と言われたというエピソードは有名。また日本歌謡界の女王、美空ひばりからは自身が作詞した「夢みる乙女」をプレゼントされレコード発売している。

また直木賞作家、高橋克彦氏や桑田佳祐氏らが弘田のファンで、桑田氏は1983年に発売されたサザンオールスターズのアルバム『綺麗』に、弘田をテーマにした「MICO」という作品を収録している。ほかにも大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、スピッツの草野正宗らミュージシャンからもリスペクトされ、1999年にはピチカート・ファイヴ小西康陽プロデュースによる弘田のアルバム『TOKYO 27:00』(TRIAD/COLUMBIA)を発売。

2001年、デビュー40周年に発売された『弘田三枝子・これくしょん〜マイ・メモリィ』の6枚組CD-BOXがヒット商品となる。
45周年にはCD『恋のクンビア21』、50周年には自身が選曲したジャズ・アルバム『弘田三枝子・せれくしょん〜ジャズ・ヒッツ』を発売した。
2015年10月、デビュー55周年記念曲『ひいふうみいよう/悲しい恋をしてきたの』を発売。これが最後のシングルとなった。最新アルバムは昨年2019年2月、新曲「ひいふうみいよう」を収録した『弘田三枝子 ゴールデン☆ベスト』。

2020年はデビュー60周年を迎えるに当たり、記念曲や記念コンサートなどが企画されていたが、今回のコロナウィルス感染拡大で延期されていた。
最後の肉声は、亡くなる約ひと月前にYouTube番組「日本歌手協会チャンネル」で配信された「コロナに負けるな リレー歌謡祭第46弾」。
電話で「早く皆さんに会いたいです」とコメントを寄せ、2015年の「日本歌手協会歌謡祭」で歌った「人形の家」の映像が流れていた。

2020年7月21日、心不全のため急逝。享年73。