Interview & Text by 腹巻猫(劇伴倶楽部)
『アタックNo.1』(番組は1969年から放映、コロムビアからのリリースは1970年)から40年にわたってアニメソングを歌ってきた大杉久美子。5月19日に発売された40周年記念CD-BOX『燦(きらめき)のとき やさしさの歌』は、彼女のアニメソング、テーマソング106曲をCD4枚に集大成した作品集だ。
BOX発売を機に、大杉久美子にアニメソングの思い出や歌に対する思いを語ってもらった。CD-BOXとともにお楽しみいただきたい。
■ひっこみ思案だった少女時代
大杉 小さい頃は母が病気がちで、あまりかまってもらえなかったためか、いつもさみしがりやの子どもでした。人見知りもはげしくて、挨拶しなさいって言われても母の陰に隠れているような子でしたね。二人姉妹の姉は私とまったく逆で、はきはきしたタイプだったんです。母は自分が病弱だったものですから、いつまで元気でいられるかわからないと思って、「この子が一人でもなんとか生きていけるようにしないといけない」と思ったらしいです。
私はひっこみ思案のくせに幼稚園で歌を歌ったりするのは大好きで、家でもよく歌っていたんです。ある日、母が近所の人に奨められて、近くの温泉で開催されていた歌のコンクールに私を連れて行ってくれました。そしたら賞をもらってしまって、母はすっかりその気になったんですね。私に本格的に歌を習わせようと、8歳からレッスンに通わせたんです。最初は歌い手になりたいなんて思ってなくて、ひっこみ思案な性格をなんとかしたいということだったんですよ。
そのころ、歌のコンクールがあちこちであったんですが、私は出るたびに何か賞をもらって帰ってきたんです。でも、小学校高学年になってくると、学校のこともあるし、もともと人前に出るのが好きでなかったものですから、もう卒業したいと思ったんですね。だってコンクールに出るとほんとに緊張して、唇が真っ青になってたんですよ。相談したら、父も母も「プロになるのはたいへんだし、歌は趣味でやっていくのがいいんじゃない」って言ってくれて。
■プロの道へ、しかし現実は厳しく
大杉 ところが、ちょうどその頃、クラウンレコードという新しいレコード会社ができて、宣伝を兼ねて、新人歌手を発掘するコンクールが開催されたんです。優勝したら歌手デビューできますと。そのチラシを母が見つけて、「あなた出てみない?」って。はじめは「いやだー」って言ったんですけど、母が「お母さんの楽しみでもあるんだし、じゃあ、これで最後にするから」と言うので、しぶしぶ出たんですね。そしたら、第1次予選、第2次予選と通って、決勝戦まで行って、ついに優勝しちゃったんです。男女1人ずつ、男性の優勝者がミスター・クラウン、私がミス・クラウンに選ばれました。
「優勝した人はプロの歌手になれるんですが、どうします?」とクラウンレコードの人に言われて、さあ、困ったと。うちには芸能界の知り合いもいないし、どんな世界かもわからない。でも私は、「歌手になりたいと思ってなれない人もたくさんいるんだから、この機会に飛び込んでみるべきなのかな」と思って、何も考えないで飛び込んじゃったんです。
でも、まだ中学生じゃないですか。中途半端な年齢なんですよね。愛だの恋だのには早いし、童謡を歌う年でもない。中途半端な曲しか作れないんです。デビュー曲は私が東京出身だったから「東京っ子」っていう歌を作っていただいたんですが、まったく売れなかった。今考えると自分の心構えもできてなかったし、プロダクションにも所属してなかったから、ヒットなんてムリだったんですね。
そのあとも何枚かレコードを出してもらったんですが、あいかわらず売れなくて。知り合いの女性が始めた歌謡レッスン教室に誘われて通い始めました。その教室は素人が通うところではなくて、プロをめざす人や業界の方が出入りしていたんです。ある日、先生が私を呼んで、「オーディションの話があるの。うちに来てる出版社の人があなたに出てほしいって言ってるんだけど、行ってみたら? なんか、漫画の歌らしいんだけど」。
それが「アタックNo.1」だったんです。
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クラウンレコード時代、大杉久美子は“柴山モモ子”の名で「東京っ子」(1964:CW-95)、「ヤングヤングボレロ」(1965:CW-206)、「娘の縁談」(1965:CW-226)、"環ルナ"の名で「ブーガルー・ダウン銀座」(1968:PW-34)、「一人ぼっちの夕陽」(1968:PW-46)と5枚のシングルをリリースしている。しかし、ヒットにめぐまれなかった。そこに持ち込まれたのがテレビアニメ『アタックNo.1』(1969)の主題歌のオーディションだった。当時はアニメソングという呼び方はなく、アニメは「テレビ漫画」、主題歌は「漫画の歌」と呼ばれるのがふつうだった。
■渡辺岳夫との衝撃の出会い
大杉 そのときすでに曲はできていて、小鳩くるみさんと伊集加代子さんが歌った録音がありました。私はそれを聴いて練習し、先生に指導していただいてからオーディションに行ったんです。そしたら気に入られたらしく、「レコーディングしよう」という話になって。そこで、運命の渡辺岳夫先生に出会うんです。
私が小さい頃に歌を習っていた先生はとてもやさしい先生だったし、クラウンレコードでもすごく大切にしてもらって、しかられたことなんかなかったんですよ。ところが、「アタックNo.1」のレコーディングに行ったら、岳夫先生が「そんな声じゃだめだ!」って言うんです。いきなりガーンとやられました(笑)。
「ちょっと来なさい」って録音ブースから出されて非常階段に連れて行かれ、「ここで声出して」「アタック〜!!」「もっと!」「アタック〜!!」って死ぬ気で歌ったら、「そうだ、それだ!」って。ほんとに必死でした。いっしょについてきていた母が、「かわいそうで聞いていられない」って連れて帰ろうと思ったんですって。
それだけ録音に熱が入っていたんです。半端じゃないくらい。そのときは、東京ムービーの方をはじめ、いろんな人が録音の立会いに来ていました。それで、みんな言いたいこと言うんですよ。東京ムービーの人は「"苦しくったって"と"悲しくったって"は違うから、旋律は同じようでも歌いわけてください」。でも、それができなくて。後半の歌い上げるところも「もっと声を出して」って言われるし、その上セリフがあるでしょう。このセリフが難しくて言えないんです。
「くるみちゃんが言ったのがあるから、聞いてみなさい。こういうふうに言うんですよ」「なるほど」と思うんだけど、やっぱり言えない。
結局、1日では録音が終わらなくて、2日かかりました。2日目のときは「あんなにスタジオに人がいたんじゃ歌えません」と先生に泣きついて、人を減らしてもらったんです。ミキサーとディレクターと最小限の人だけにしてもらって、やっとできあがったのがあの歌なんです。
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『アタックNo.1』
のジャケット
(コロムビア盤) |
―― すごく力を入れていたんですね。
大杉 「たかが漫画の歌」なんて誰も思ってないんですよ。それが、私とアニメソングとの出会いでした。
放送のときは、最初は小鳩くるみさんの歌が流れて、何週目かから私の歌に変わったんです。オープニングの映像とともに自分の歌が流れてくるのが新鮮で、「なかなかいいなぁ。一生懸命歌ったかいがあったな」とそのとき思いました。そしたら、すごくヒットしたんですね。
■念願のヒット賞をアニメ主題歌で受賞
『アタックNo.1』のシングルレコードは1社独占ではなく、大杉久美子の歌唱が東芝、コロムビア、キングレコードなど複数のメーカーから発売される競作となった。こうしたリリース形態は、当時のアニメソングには珍しくなかった。大杉久美子は先発だった東芝レコード盤で念願のヒット賞を手にする。
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大杉 クラウンレコードでは毎年ヒルトンホテルでクリスマスパーティが開催されて、その年ヒット曲を出した歌手がみんなの前で表彰されるんです。私はその受賞式を見ながら「いつか私も」と思っていたんですけど、ついに「アタックNo.1」で東芝レコードからヒット賞をいただいたんですよ。受賞式の会場も同じヒルトンホテル。「やった!」と思いました。
でも、いざ会場に近づくと「ほんとうに自分がもらえるの?」って不安になったんです。車で送ってくれた父に話したら、「じゃあ、待っていてあげるからようすを見てきなさい。名前がなかったら帰ればいいから」って。受付へ行ってみたら、ちゃんと名前があり、ゲストの花(コサージュ)も用意されていて、「あぁ、今日は私がこれをつけて出られるんだ」って、やっと実感がわきました。
そのパーティのときに、岳夫先生がレコード会社の方に声をかけられて、「いい歌手見つけてきたねぇ。どこで見つけたの?」って聞かれたんですって。あとで岳夫先生がすごくほこらしげに話してくださったのが印象に残ってますね。
その後もアニメの歌では、何度もヒット賞をもらいました。歌謡曲時代はほしくても手が届かなかった賞をアニメでいただけたので、ほんとうにアニメソングに出会ってよかったです。
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★次回は、『アルプスの少女ハイジ』と渡辺岳夫の思い出。
<第2回 「アルプスの少女ハイジ」〜アニメソング一筋で行こう!>
お楽しみに!