Interview & Text by 腹巻猫(劇伴倶楽部)
『アタックNo.1』(1969)でアニメソングに出会い、念願のヒット賞を手にした大杉久美子は、次々とアニメソングを歌うようになる。彼女のアニメソング歌手としての評価を決定づけたのが、『アルプスの少女ハイジ』だった。
■『ハイジ』との出会いで決心を固めた
大杉 『アタックNo.1』のあとに、『ミラクル少女リミットちゃん』(1973)、『エースをねらえ!』(1973)などの主題歌を歌うんですが、その前に、歌謡曲のレコードも出しているんですよ(※)。まだ迷っていたんですね。だけど、やはり売れませんでした。「アタックNo.1」は売れたのに、自分の曲は売れないなんて、私は歌手としてやっていけるんだろうかって悩みましたね。
※“杉 美子”名義でDENONレーベルから「ポケットにりんご」(1971:CD-136)、「ときめき」(1972:CD-156)の2枚のシングルをリリースしている。
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『アルプスの少女ハイジ』
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大杉 それから、『アルプスの少女ハイジ』(1974)にめぐりあったんです。
『ハイジ』は、『アタックNo.1』以来、久しぶりの渡辺岳夫先生とのお仕事でした。私は「アタックNo.1」の記憶があるから、岳夫先生というと「怖い」という印象があって緊張していたんです。でも、『ハイジ』のレコーディングのときの岳夫先生は、もう厳しいことはおっしゃいませんでした。
そのときは、エンディングの「まっててごらん」と挿入歌「夕方の歌」の2曲をいっしょに録ったんです。「夕方の歌」はほんとに夕焼けの情景が浮かぶようなすてきな歌で、でも難しい歌でした。録音のとき、何度も同じ箇所で間違えてしまうんです。「ここに来ると間違える」という部分があって、気をつけているんだけれど、歌うと同じところを間違える。それで何度も録り直しました。そのとき、岳夫先生が「彼女はきっとうちでいっぱい練習してきたんだね。だからすぐには直せないんだよ。待っててあげよう」って言ってくださって。申し訳ないと思いながらも、「岳夫先生がそういってくださるなんて」とうれしかったですね。
その録音が終わったあと、『ハイジ』の試写会に呼ばれて観に行きました。私たちは録音のときは絵を見ていないんですよ。そのとき、はじめて映像を観たんです。そしたら、オープニングのあのブランコがぐーんとなるシーン! もう、「わあーっ」って引き込まれて、見入ってしまいました。
この『ハイジ』もおかげで大ヒットして、また賞をいただきました。この作品をきっかけに、私は「もう自分の歌だとか漫画の歌だとか関係ない、こんなすばらしい歌が歌えてみんなによろこんでもらえるなら、アニメひと筋で行こう」と心に決めたんです。
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この作品のために自費でヨーロッパへ音楽取材に行ったという渡辺岳夫は、『ハイジ』の曲に自らの音楽性を注ぎ込んだ。伊集加代子が歌ったオープニング「おしえて」、大杉久美子によるエンディング「まっててごらん」、挿入歌「ユキとわたし」「ペーターとわたし」「夕方の歌」など、シンプルなメロディに凝縮された渡辺岳夫の"音楽ごころ"は、まっすぐに子どもたちの心に届いた。1974年にコロムビアから発売されたLPアルバム『アルプスの少女ハイジ』はロングヒットとなり、アナログレコードがCDに交代する1980年代末まで、現役商品としてレコード店の店頭に並び続けたのである。
■子どもたちの反応がダイレクトに伝わってくる楽しさ
―― 歌謡曲時代の歌い方とアニメソングの歌い方では違いはありましたか?
大杉 違いますね。歌謡曲はフィーリングで歌ってもいいところがあるんですが、アニメソングはそうじゃないんです。アニメの歌の場合は自分が前に出るんじゃなくて作品がまずあるんですよ。
歌謡曲を歌っているときは、歌手というイメージを作って、そのイメージに沿って歌っている感じです。でも、アニメの場合は、作品によって歌い方を変えていかなければいけない。そこは大きな違いでしたね。
『ハイジ』の頃から、子どもたちの前で歌う機会が増えて、遊園地やデパートの屋上や野外ステージなど、いろんなところに行って歌いました。
子どもたちの前で歌うのは楽しかったです。司会のお姉さんが「さあ、歌のお姉さんが歌ってくれますよ」って言うんですけど、子どもたちは最初は遠巻きに見てるんです。「誰が来たんだろう?」って顔をして。でも、私が歌い始めると、「わあーっ」て反応してくれる。「ほんものだ」って。その反応が歌っている私にじかに伝わってくるのが楽しかったですね。歌謡曲時代には感じたことのない楽しさでした。
そうやってステージを重ねていくうちに、自分なりに「次はどんなふうに歌おうか」「こんなふうに歌ってみよう」と考えたり、「さあ、みんなで○○の歌を歌おうね」って子どもたちに呼びかけたりするようになって、ステージを作り上げていく楽しみを知りました。
―― 小さい頃はコンクールに出るたびに緊張されていたそうですが、そういう場では緊張しなかったんですか?
大杉 少女時代と違って、その頃になるともう大丈夫でした。ステージに上がるまでは緊張してるんですよ。でも、いざお客さんや子どもたちを前にすると、歌うことが楽しくてたまらなかった。きっと、生のステージで、お客さんの前で歌うのが好きだったんでしょうね。テレビの録画だとすごく緊張するんですけれど、ステージではそんなことはなかったです。
―― その後、アニメブームがやってくると、お客さんの顔ぶれがだんだん変わってきましたね。
大杉 客席のうしろのほうに、お兄さんお姉さんが混じるようになって(笑)。中高生のファンが増えてきました。聴き方も、子どもたちのような「うわーっ」ていう聴き方ではないんです。彼らはアイドル歌手で育った世代なんですけど、アニメソング歌手に求めているものは、アイドルとはまたちょっと違うんですよ。特に私の歌を聴いてくれる人は、アニメの歌というより、音楽として聴くという人が多かったみたい。音楽好きっていうのかな。クラシックが好きな人だったり、自分も音楽をやる人だったり。そういうファンが私の歌を聴きにきてくれましたね。アニメの歌が、だんだんと音楽性を求められるようになってきた時期だったと思います。
■渡辺岳夫の思い出
『アタックNo.1』『アルプスの少女ハイジ』の音楽を担当した作曲家・渡辺岳夫は、その後も大杉久美子のために多くの曲を書き、アニメソング歌手・大杉久美子を育てた。『フランダースの犬』に始まる一連の「世界名作劇場」の主題歌をはじめ、アニメソング史上に輝く数々の名曲を残している。
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『フランダースの犬』
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大杉 渡辺岳夫先生は私の一番の恩人ですね。ほんとうはやさしい先生なんですけど、先生とのお仕事のときはいつもちょっとどきどきしていました。先生は歌い手に要求するものも高かったんです。
『フランダースの犬』(1975)から「世界名作劇場」の歌を続けて歌わせていただいたんですが、岳夫先生の曲は、簡単なように聞こえて、けっこう難しいんですよ。『あらいぐまラスカル』(1977)にしても『ペリーヌ物語』(1978)にしても、すごく高い音が使われていたり、逆に低い音があったりして。私の友だちが、「大杉さんの歌を歌おうとしたんだけど、難しくて歌えないのよ」って言うんです。どうも岳夫先生は、私のときはわざと難しい曲を作ってくるんじゃないかと思うくらい(笑)。簡単には歌えない部分をちょこちょこっと入れてくるんですね。
―― 岳夫先生も「大杉さんならここまで歌ってくれるだろう」と思われていたんじゃないですか?
大杉 そうかしらね。『あらいぐまラスカル』の挿入歌に「もえるゆうひ」という歌があるんです。松山祐(「示」+「右」が正字)士先生のアレンジもすばらしくて、すごくいい歌なんですが、歌うのも難しかったんですよ。それを私が精一杯歌って録音を済ませたあと、岳夫先生が「今日はおれの負けだな」っておっしゃったんですって。あとからマネージャーから聞きました。そのときは、「やったぁ!!」と思いましたね。
岳夫先生の曲は、曲の中に「ここが聞かせどころだよ」「ここをうまく歌ってほしいんだよ」という箇所が必ずあるんです。それを歌手として読み取って、そこをとても大切に歌おうと心がけていました。
―― 『森の陽気な小人たち ベルフィーとリルビット』(1980)のときは、アニメ雑誌の取材に答えて、「渡辺先生の歌って、いつもむずかしいのね。今回も1度目の録音では音程が落ちつかなくって録り直したほどなの」(徳間書店刊『月刊アニメージュ』1980年2月号)とおっしゃってますね。
大杉 「森へおいでよ」ですよね。この歌もなんでもない歌に聞こえるでしょう。すごく難しいんですよ。旋律はとてもかわいいんですが、息つぎのしかたに苦労したことを覚えています。
■ちいさいかわのうた
―― 渡辺岳夫先生との最後のお仕事になる「ちいさいかわのうた」(『ミームいろいろ夢の旅』(1983)エンディング)もすばらしい曲ですよね。
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『ミームいろいろ夢の旅』
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大杉 作詞をされた武鹿悦子さんは、もともと詩人の方なんです。すばらしい詩でした。最初は「詩を朗読してください」と言われたんです。でも、朗読って言われてもどうしていいかわからなくて。
録音のときに、いろんな方がいろいろなことを言うんですよ。岳夫先生の曲がとても美しい曲だったので、きっとみなさんそれぞれにイメージを持たれていたと思うんですね。「こう歌ったらいいんじゃない」「こうしたらどう?」っていろいろな意見が出て、実際に歌ってもみたんですけど、どうしてもしっくりこない。最後に「私なりの歌い方をしてみていいですか?」と言って歌ったものが採用されました。
私の本来の歌い方ってこういう感じなんです。かわいいでもなく、力むでもなく、自然に歌った歌が「ちいさいかわのうた」です。
このときは岳夫先生が笑いながら「ひとつこの老人に書かせてみようって思ったんじゃない」っておっしゃっていました。まだお若かったんですけれどね。今いらっしゃらないのが、ほんとうに残念です。
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生涯をアニメ・ドラマなどの劇音楽にささげた渡辺岳夫は、1989年、惜しまれつつ世を去った。その音楽は、今も多くのファンに愛され歌い継がれている。
★次回は、ともにヒット曲を作った作曲家の思い出。
<第3回 「エースをねらえ!」「ドラえもん」〜思い出の曲と思い出の先生>
お楽しみに!