メンデルスゾーンのピアノ曲といえば、田部の出世作となった名盤《無言歌集》をまず挙げられる方も少なくないのではないでしょうか?発売以来、専門家筋の絶賛と申し上げてよい高評価にとどまらず、多くのリスナーの皆さまに支えられてのロングセラーとなり、田部の代表的アルバムとしてご愛聴いただいています。
Newアルバム『田部京子 プレイズ・メンデルスゾーン』の魅力
メンデスルゾーンの生誕200年に当たる今年、田部の新録音がメンデルスゾーンのピアノ作品集第2弾になることは、きわめて自然なことでした。今回は、無言歌だけではなくメンデルスゾーンのさまざまな側面をお伝えできるような選曲となりました。中には再録音となる曲(無言歌集から《デュエット》《春の歌》の2曲。ただし《デュエット》はアルバム《ロマンス》の収録曲)もあり、新旧の聴き比べもできる点など、興味は尽きないのではないでしょうか?
録音は、4月1日から4日間。会場の福島市音楽堂は、ホール内部の壁面全体が九谷焼のタイルで覆われていて、その効果による美しく豊かな響きで有名です。コロムビアのスタッフは、ここで、2本のマイクだけによる澄み切った音色のワンポイント録音にチャレンジ。豊かな残響とクリアな質感、ダイナミックさと繊細さといった、背反するものを両立した見事なサウンドが実現しました。ゆったりとしたメロディーがホールの響きを纏いまるで歌曲のように響くさまは、まさに「無言歌」の世界! 当初、細かな表現がホールの残響に埋もれてしまうことを懸念しましたが、全くの杞憂でした。田部さん曰く、「美しい音響を味方につけて、普段よりもペダルの使い方をぐっと減らして演奏できたのです。結果として、響きが少なめのホールで演奏するときよりも、細かな動きを自然に浮き立たせることができました!」さすがの一言です!
サウンドチェックが済み、いよいよ録音本番。各曲まず全体を通して何度か弾いてみます。これまでの録音では、田部は2〜3回弾いたら一旦楽器を離れてプレイバックを聴き、そこで感じたものを以降のテイクに活かしてゆく、というのがスタイルでした。しかし、今回はちょっと様子が違います。4回、5回、多いときには7回と繰り返し、納得できるまでただひたすらに弾き続けたのです。回を重ねるに連れ、テンポはより自在に、歌のラインはよりダイナミックに、細部の伴奏音形に至るまで音楽の喜びに溢れた、まさにドイツ浪漫の薫りも高いメンデルスゾーンとなっていったのです。ピアノ・レスナーが良く取り上げる楽曲(ロンド・カプリチオーソなど)も収録しましたが、よくありがちな「練習曲」然とした風情を完全に払拭し、大家の風格さえ感じさせる圧巻の演奏でありました。そして畳み掛けるテンポと強靭なタッチが形作る見事なクライマックス!抒情表現ばかりでないメンデルスゾーンのもうひとつの側面に、田部さんの新境地を感じる方も多いことでしょう。現場に居合わせたスタッフも感動の余りに声う失うほどでありました。
収録後の作業を経てアルバムとして完成してみると、細かく弾きなおすことをほとんどしなかったことが非常によく作用し、あたかも白熱のピアノ・リサイタルを目前で聴いているかのような、ライヴ感覚溢れる仕上がりになりました。昨年秋にリリースした、浜離宮朝日ホールでのリサイタル・シリーズ《シューマン・プラス》の第1回公演のライヴ盤に近い趣を感じたプロデューサーは、あとでこのことを本人に話してみると、「ライヴ盤をリリースした経験で、これまでの自分のCDにない表現の可能性を実感できたのです。ですので、今回それを意図的に意識して、一筆書きのような感覚を大事にしようと思い、あえてこれまでとは違うスタイルでの録音セッションにしてみたのです・・・」恐れ入りました。これはもう「セルフ・プロデュース」の世界ですね。
それにしても、「古典派」の枠組みを破壊するようなことはしないで、そのなかでのロマン性の発露に特徴があるメンデルスゾーンのような作曲家こそが、田部の資質に実にピッタリ合うように感じるのは、私だけではないでしょう。これまで、メンデルスゾーンは、たとえばシューマンなどに比べて、薄い印象をもたれがちでしたが、田部の透徹した視線は、甘いメロディーの影にあるメンデルスゾーンの心の陰影を見逃しませんでした。聴きなれた曲で、かくも深く心を揺さぶられるとは!メンデルスゾーンの奥深い体験を約束する、名盤の誕生です!
(担当プロデューサー談)