1998年寅年 (0歳) | 鬼束大我は、1998年7月9日、料理人である父親と美術教師の母親のもとに生まれ。ジャズ好きの両親を持った彼は、母親のお腹の中にいるときからジャズを聴き、生まれてからも、家で流れるジャズをBGMに育つ。また、父親が、ジャズのライブを行うレストランを経営していたため、生まれたときから、生のジャズ演奏に触れる機会があった。 |
2000年 (2歳) | 2歳になるころには、父親に連れられて、様々なジャズライブを聴きに行くようになる。 |
2001年 (3歳) | ギタリスト山口武氏の紹介で、3歳の時に出会ったロン・カーターに衝撃を受ける。握手をしてもらった大我は、そのとき、ジャズミュージシャンを意識したのかも知れない。何か楽器をやりたい、とはいえ、3歳の小さな大我に扱える楽器はなかった。それなら家にあるものということで、フライパンをいくつか並べて叩かせてみたら、何とCDに合わせて、4ビートを叩いたという。しかし8ビートはまだ 叩けなかった。 |
2003年 (5歳) | 4ビートならやはりジャズだということで、2003年の5歳の誕生日の直前、両親は大我に子供用のドラムセットを買い与えた。そして、店に出入りしていたミュージシャンの紹介で、西代一博(にしよかずひろ)氏につき、ドラムを習い始める。 |
2004年 (6歳) | 「この子は他の子とは違う」という先生の言葉通り、めきめきと才能を現した大我は、わずか1年後の2004年9月30日、神戸ホリーズで、初めての飛び入りセッションを経験。曲は「セント・トーマス」。同年の11月には、京都のストリートで伝説的ピアニスト故・市川修らとゲリラ的なライブを開始し、不定期で行うこのスリートライブは人気となり、イベントの依頼が舞い込むようになる。 |
2005年 (6歳) | 並行して、ライブハウスでのジャムセッションを経験する中で、2005年1月、ベーシスト 西山満(にしやまみつる)と知り合い、大我の才能に驚いた西山の計らいで、更に大我の活躍の場は広がっていく。 |
2005年 (6歳:小学校1年) | 小学校に入学後、2005年5月22日には、西山氏の尽力で、初めての単独ライブを京都の白糸で行う。その後、エディ・ヘンダーソン(tp)、オテロ・モリーノ、クリフトン・アンダーソン、日野皓正、北村英治、エヴェリン・ブレイキーなどと共演し、その活躍がフジテレビ「スーパーニュース」などでも取り上げられるようになる。 |
2005年 (7歳:小学校1年) | 2005年10月には、ストリートライブで貯めた資金で、家族とともにニュー ヨークに渡り、1ヶ月滞在。SMOKE、イリディウムなどで飛び入り参加し、ミンガス・ビッグバンド、エリック・アレキザンダー、マイク・ロドン、グレッグ・バンディなどと共演するほか、ハーレムのセント・ニックス・パブ(St.Nick's Pub)で、ニューヨークでの初の自己名義のライブも行う。 |
2006年 (8歳:小学校2年) | 2006年からは、自己の音楽世界を追求すべく、「TheRealJazzシリーズ」を開始。海外からのゲストを招いて、全国各地でのライブを行うようになる。 |
2007年 (9歳:小学校3年) |
様々なミュージシャンとセッションを行い、経験を積む中、2007年7月には、9歳になるのを機に、自己のバンド「Tiger,BurningBright」を結成。2007年後半は、更に活躍の場が広がり、10月には、板橋文夫氏の推薦で横浜ジャズプロムナードに出演し、日本が世界に誇るジャズの巨匠 穐吉敏子と共演。11月には、ギンザインターナショナルジャズフェスティバルに出演。そして、ライブを通じて大我を高く評価するオルガン奏者KANKAWAのプロデュースで、ついにCDデビューが決定。 <CDデビュー> |
2008年 (9歳:小学校3年) | 2008年の1月、日本のジャズシーンを代表するミュージシャンのサポートのもと、2日間のセッションが行われ、全く録り直しなしの一発録音で、全てのセッションが終了。コロムビアSAVOYレーベルから発売されるスタジオ録音盤と同時に、スパイスレコードから、ライブ盤が同時発売も決定し、2枚同時のデビューアルバム発売となる。 |
2008年5月 | 「世界最年少プロドラマー」として、ギネスブックに認定される。 |
2008年6月 | セカンドアルバムの録音と、ジャズのルーツを探求するため、ニューヨークに1ヶ月滞在。ニューオーリンズも訪れる。セカンドアルバムの録音は、ピアニストのベニー・グリーンとベーシストのバスター・ウイリアムスを迎え、ニューヨークのクリントン・スタジオで行われた。その後、SMOKEなどでライブを行った。 |