into Love − ポピュラーソング・カヴァーズ
デビューCDは、誰もが知る名曲で上野さんのフルートの素晴らしさを感じていただくアルバムでした。2枚目では、近代フルートの最重要2作品(ドビュッシー/プーランク)と、吉松隆の傑作を軸に、(近現代の作品でありながら)いわゆる前衛的作風を(意図的に?)避けた作曲家の作品が並びます。その上で、この3作目のアルバムでは、上野さんの歌の魅力がフォーカスされたわけです。当初はクラシックとポップスを混ぜた選曲案もありましたが、上野さん自身があえてポップスのみで勝負する道を選びました。このコンセプトのあたりを聞かせてください。
(上野)1枚目も2枚目も、「僕の中での名曲」という点で、コンセプトは一貫しているんです。2枚目では、同じコンセプトの「発展形」として、一般にはあまり聴かれない曲であっても「自分の中での名曲」のコンセプトを貫きました。3枚目も、その想いは全く変わってなくて、「歌」にフォーカスするというコンセプトのなかで、あくまで「自分の中での名曲」で選曲したのです。
歌謡曲とかポピュラーソングというのは、自分にとって物凄く近い存在です。もちろん自分はクラシックの奏者だけれど、決してバッハから音楽を聴き始めた訳ではなくて、歌謡曲とかJ-POPから歌を覚えていきましたし、その延長線上でで、クラシックというジャンルに入っていった訳です。いまでは、そこ(クラシック)が僕のメインのフィールドではあるのですが、基本的に、自分の中では、いいと思った音とか音楽にジャンル分けの必要を感じないんですね。今回、敢えて分けた(=POPSのみの)アルバムを創ることで、ジャンルを分ける必要が無いということを、逆説的に提示できるように思ったのです。
上野さんはフルート奏者ですから、その使命として、フルートという楽器の魅力を最大限に生かして表現されるわけで、そのフィールドの中で、誰もが知っているようなポピュラーソングの名曲のなかから「自分でも好きな曲」を、聴いていただきたかった、ということですね。もちろん、クラシックの編成で。
(上野) 一番の課題というか、僕にとってのチャレンジは、もともとの原曲には言葉(歌詞)があるということです。
このようなインストによるカヴァーの場合に、歌詞を抜き去った「メロディー」の世界にフォーカスするというやり方もあると思うのですが、僕のアプローチはそうではないのです。フルートで演奏する場合は、具体的な歌詞はなくなるけれど、それでも、原曲の「メロディーと歌詞」が一体となった曲の魅力に到達したい、という気持ちがありました。歌詞を抜いてメロディーだけでそれを綺麗に演奏するというのは、BGMとして聴き流されてしまう音楽になってしまうと思うのです。僕が求めているのは、歌詞を自分の感情に一度還元してそれがそのまま音に乗っている、という表現で、そこがリスナーの皆さんに伝わったら嬉しいですね。
例えば、「好き」という言葉には、いろんな種類の「好き」があると思うし、そこに込められた「感情」というのはさまざまな種類があると思うんですよね。その多様な「感情」を表現するのに、フルートという楽器は、言葉(歌詞)が無い分だけ、「感情の手紙を書く」そういうコンセプト・精神状態で取り組めるのではないかと思ったのです。
だから、このアルバムを聴いて頂いたときに、(歌詞が無い分)間接的な表現になっていることで、それぞれの曲をご存知の聴き手のかたの(個人的な)思い出に繋がったり、心の中に広がってくれたらいいな、と思いますね。
ある種、具体的なイメージから、「言葉」を排して、抽象化するような考え方なのですか?
(上野) 僕の中では、抽象化するというよりは・・・・・、感情というのは、心で生まれるものですよね・・・・、(例えば)溜息をつく時って、わざとつく溜息ってなかなか無いですよね、心の深いところから無意識にでてくるものじゃないですか。この溜息と同じように自分は演奏したいと、思うんですよね。息を使う楽器だからこそ、深いところで生まれた感情がそのまま息に乗って出ている、っていうのが、一番大切じゃないかなと思う。それこそが、僕がフルートでやりたいことなのです。
例えば、尾崎豊さんの I Love You の冒頭のメロディー、ここを演奏するときに、僕の頭の中にあるのは、メロディーではなくて「I Love You」という歌詞なんですね。こういう曲を演奏するのはすごく難しい、なぜかというと、テクニックだったり、音程・音色だったり、そこを考えているようでは、あまりやっている意味が無い。テクニックな部分を忘れて歌詞の世界(魂)に没頭するためには、テクニックのことを考えることは僕にはすごく邪魔なことで、それ(テクニック)が無意識下でも高いレベルに維持できていることが前提なんですね。
I Love Youの最初のひとくだりを聞くだけで、ものすごく多彩な音楽的表情を聞き取ることができるのだけれど、そこでは、場面場面での具体的表現を、計算ずくで盛り込もうとしているわけではない、と。
(上野) 計算しているうちはダメだと思いますね。計算しなくてはいけない、という精神状態だったら、このコンセプトでこのアルバムを作っていないですね。1枚目にも2枚目にも、「楽器を使いこなす」という意味で、ヴィルトゥオーゾな要素を持つ楽曲も採り上げたけれど、それは、道具でしかないし、そのような技巧的なことをやっているときでも、技巧のことを僕は考えてないですね。技巧のことを考えているうちは、技巧的な曲をやる意味は無いとおもっている。結局は音楽なんで、音楽だけに没頭できないうちは、お客さんに聴いて頂けないとおもっているんです。
心の深いところでの感情を音に込めようとした結果として、具体的な表現が(結果的に)音に現れてくるわけで、その逆では絶対無い、そのありかたって正に「歌い手」と同じですね。制作されている最中に困難を感じたりしましたか?
(上野) 完璧に楽器が使いこなせたところでしか実現できない表現をめざす、その意味で、自分としても挑戦でした。録音のときにプレイバックを聴いたりして、「言葉に対する想い、歌詞に対するリスペクトが、未だ足りない、もっと必要だ」、と感じる場面は少なからずありましたね。満足できるまで何度でもテイクを重ねることになるわけです。
原曲のシンガーの「歌いかた(個性)」の情報は、楽譜にするという編曲の過程で相当欠落しますよね。その中からの「再創造」という2段構えになる、という点については、どうなんですか?
(上野) 実は、今回に限らず、僕は、演奏するときに、音符をほとんど見てないんですね。例えば、I Love You、海を見ていた午後、未来予想図II、を録音したときに、目の前に楽譜はあるわけなんですけれど、そこには、自分で書き込んだ歌詞があって、見ていたのは、むしろ歌詞のほうなんですね。大事なのは言葉で、言葉から得たインスピレーションをいかにその瞬間に音として出すことができるか、ということなんで、音符のほうは見てないんです。じゃないと、1番と2番で違う歌詞を、どう表現したらいいの?というハナシになってきちゃうわけなんですね、メロディーしか見て無かったら。全く同じメロディーでも、2回目では全然違う意味、例えば、1番では「今日」だったのが、2番では「明日」になっていたり、そこからどうインスピレーション受けてフルートでどう表現するかってときに、音符だけ見ていたら、だめで。
でもそれって、(普段の)クラシックでもまったく同じことが言えると思うんですよね。同じメロディーがあっても、それは単なるリピートではないと思うんですよね。そこには違う意味が込められているかもしれないし、同じ場所に立っているんだけれども同じ景色が、時間の経過とともに見え方が変わる、というようなこともあるでしょう。それは、現代曲なんかには、しばしは使われる手法ですよね、時間の経過によって、物事が違って見えてくる、っていう。
そういうことを考え出すと、もう、ポップスもクラシックも僕にとってはアプローチの仕方は全く変わらないんですよ。
違いがあるとすると、普段の一般的な生活の中でポピュラーソングに耳慣れているがゆえに、リスナーの方々が「入っていきやすい」という点くらいでしょうか?
(上野) そうですね、実際、僕もそこから入ったわけですからね。ポップスのその「間口の広さ」というのは、大きなアドバンテージですよね。
選曲についてお話しましょう。ぼくはもう、何年も前から、一人でいる時間がすごく長いわけなんです。海外暮らしだというのもあるし、フェスティバルに招待されたり、オーケストラに客演したり、日本に戻ってきていてもコンサートで地方に向うときは大体の時間は一人ですごしている。そのなかで、列車や飛行機での移動中や、あるいは道を歩いているときでも、孤独とか寂しさといつも寄り添って生きているんだな、と感じる瞬間って、ものすごくあるんですよ。そう思ったときに、なにか、思い出に自分の心を委ねたりとか、いろんなことを思い出して、あんなことあったなとかこんなことあったなとか、そういう寂しさを感じたときに一番聞きたい音楽はどんな音楽だろうか、とおもったときに、このアルバムのコンセプトと選曲が、ふと湧き上がったんですね。自分の今のめまぐるしさ忙しさと、一方ですべてが「簡単に・単純に」なってゆく世の中で、そこで失われている心の深いところで生まれている感情というものを、想い出したいなと、と思うときに、こういう選曲は、すごく僕は必要なことではないかと思っているんです。それはクラシックでもそうなんですけれど、よりわかりやすい形で聞いてもらえるのがポピュラーソングではないでしょうか?
ある意味、ポピュラーソングというのは時代を写してきたところがあって、懐かしさだとか、過去の感情の記憶と強く連動する要素がありますよね。一方で、大半の日本人にとってクラシックは「後から学ぶ」ことが大多数であって、「時代や世代の感覚」を友人知人と共有するというのとは、ちょっと違う。
(上野) 例えば、スピッツなんかは、僕は高校のときに毎日聞いていたとか、とにかく想い出が一杯詰まっているんですよ。それは僕だけではなくて、誰もがそうに違いないんじゃないかな?それをなぜ敢えてフルートでカヴァーして聴いて頂きたいかというと、聴いてくださる方々が、それぞれ思い出を持ってきて、そこに僕のフルートがそっと寄り添る役割を果たせたら嬉しい、という気持ちなんです。
制作担当として、録音現場で感じ、今こうやって完成に至るまでの過程を経て改めて強く思うことがあって、それは、普通のインスト・カヴァーって、「(自分の楽器で演奏したら)こんなに凄いんだぞ」と頑張ってマスっていう演奏になりがちなんですね。でも上野さんのこのアルバムでは、「我欲」みたいのをあんまり感じなくて。これはとっても特徴的なんですが、それゆえに、うまく紹介して良さをお伝えするのが簡単でない(笑)。
(上野) プロモーションとしては、「凄い」ものがあったほうが、目に付きやすい、というのはあるんでしょうけれど、でも音楽の本当の力とか、今の時代が本当に求めているものって、そうじゃないと思っていて。
「流行しているもの」と、時代に「本当に必要なもの」って、実は違っていると思っていて、(単純な)驚かせること、こんなに大きな音がでるとか、速く吹けるとか、というのは、魂の本質とはかけ離れたところにあると思うし、音楽にそれを求めてはダメだと思うんですよね。ちょっと寂しいとか、心の中にスキマができてしまったときに、僕のフルートがそのスペースを埋めることが出来たら、とい願いがありますね。
今この時代にある人の心の中のそういうスキマを埋めることができたら、ぼくはこんな幸せなことは無いですね。そこに驚きやエンターテインメント性というのは今回のCDには全く入れたつもりは無いんです。ポピュラーソングの曲目だけ文字で見ているとエンターテインメントなCDに見えるのでしょうけれども、アプローチとしてはそうじゃないんですね。あくまで、聴き手に寄り添う音楽。朝起きたときでもいいし、道を歩いているときでも、夜寝る前でも、きっとこの「名曲たち」の魅力とフルートが持っているぬくもりや暖かさが、伝わるんじゃないかと思いますね。
「スキマ」という言葉が、すごく印象的。僕自身は、今回の曲目の中で、「音符のスキマ」の多い曲が、より胸に迫って聞こえるんですよ。その最たるものが「海を見ていた午後」これ以上どの音符も削れないようなシンプルの極みで、ある意味、スキマだらけ。そこに、魂の込められた音が隈なく埋め込まれている、と強く感じますね。ピアニシモが持っている音楽の「強さ」を感じていただけたらなあと感じていて、できれば、少しボリウムを上げていろんな気持ち感情が込められた多彩なニュアンスを掘り起こすように聴いて頂けたらなあと思っているんです。
(上野) それは、ひとつの聴き方であって、僕自身は必ずしもそうでなくてはならないなんて欲してなくて。僕自身は、なによりも正直に演奏しているのであって、こころで生まれた感情を伝えているのであって。
でもアルバム全体を通して、弱音が印象的だなと感じていただける、というのは、わかる気がします。弱音になったとき残る、浮かび上がってくる、気持ちの強さのようなものがありますよね。大きい声で歌うのばかりがエスプレシーヴォ(表情豊かに)じゃないですからね。無表情と紙一重のところにあるとあるのが、極上のエスプレシーヴォじゃないか、いうものを自分の母親から学んだことです。
上野さんの歌ヘのアプローチとお母さんがソプラノ歌手であることの関わりについて、もっと伺いたいです。
(上野) 歌というのは、母親のソプラノを小さいときから聴いていて自分の中でものすごく身近なものだったし、自分がフルートをやっていてもフルート的な技術というものにフォーカスするのではなくて、歌というのが自然と自分の「ベース、原点」になっていましたね。 中学生のときだったと思うんですけれど、母親に自分の演奏を聴いてもらっていて、そのとき楽譜にエスプレシーヴォと書いてあるんだけれど同時にピアノ(弱音で)とも書いてあったんですね。当時、僕は意味がわからなかった。エスプレシーヴォというのは、当時の僕にはイコール大きく「歌い上げる」、発散するほうの表現だったんです。たしかにそういう表現もある。「でもね、ピアニッシモのなかにこもっている気持ちっていうのは、一番強いエスプレシーヴォかもしれないね。心の強さとか、想いの強さとか」と母親に言われて。気持ちのエスプレシーヴォってことですよね。その母親の言葉というのは、今でも覚えていますね。はっと目が覚めた感じでしたね。ものの見方というか、価値観が変わりましたね。 今回収録した曲たちには、かなりその要素が入っていると思います。なので、そんなところも楽しんでいただけたらと思います。このアルバム自体を、言葉の無いラヴレターのようなものと、そんなふうに心で受けて頂けたら嬉しいですね。 アルバムタイトルも、内面的なものを表したいという想いがあって、「歌詞のない」というところが、僕の中では「into」になるんですね。歌詞が無いことで、より中(内面)に向うというね。
クラシック・メールマガジン2015年1月号の記事をUPしました。