[この一枚 No.37] インバル/ショスタコーヴィチ/交響曲全集

この一枚

1990年、バブル絶頂期の日本コロムビアはCDの海外生産、輸出に意気盛んで、国内、海外ディラー達からはCDレパートリーの拡大が強く求められていた。その声を受けてDENONのメイン・アーティストとなったインバルにはオーケストラ・レパートリーの主要部分が任されていた。世界的な成功を収めたマーラーに引き続きフランクフルト放送響とはベルリオーズ、チャイコフスキー、新ウィーン楽派、ブラームス、シューマン、そしてフランス国立管弦楽団とはラヴェルのオーケストラ作品、スイスロマンド管弦楽団とはリヒャルト・シュトラウスやバルトーク、そしてウィーン交響楽団とはショスタコーヴィチの交響曲全集の録音計画が次々に立てられていった。

当時、マーラー・ブームの絶頂期になされた「ポスト・マーラーは?」という質問に多くの音楽関係者はショスタコーヴィチの名を挙げていた。従来からの名声に加えて「ショスタコーヴィチの証言」の出版、またベルリンの壁崩壊に続く中欧共産党独裁国家の崩壊など、ショスタコーヴィチ再評価の舞台が整ったと思われていた。しかし名声とはうらはらに、音楽市場では一部の楽曲を除いて、商品数は少なく、商業的な成功は厳しいものだった。

それに挑むように、インバルと日本コロムビアはソ連崩壊後、最初の全15曲の交響曲全集録音を1990年から1993年の間に録音する計画を発表した。逆に、新しいマーラー像を確立したインバルならば、新しいショスタコーヴィチ像を造り出してくれるという期待を背負って。

何故、ウィーン交響楽団でショスタコーヴィチ? 当時の日本コロムビアの力ではベルリン・フィルやウィーン・フィルは難しいが、ロンドンのオーケストラはどこでも金次第だったし、一方で近現代作品演奏に必要な機能性についてウィーン交響楽団の市場での評価は高いとは言えず、不安材料であった。
このコンビになった正確な理由は不明だが、当時ウィーン交響楽団の本拠地であるウィーン・コンツェルトハウスの事務局長で、現在はチューリッヒ・オペラハウスの総監督、そしてまもなくザルツブルク音楽祭の総監督に就任するアレクサンダー・ペレイラが「この全集の演奏、録音により、オーケストラの知名度が高まる」と考え、インバルと強力なチームを組んだからではないだろうか。
そう考えないと、おせじにも集客が良いと言えないショスタコーヴィチの交響曲全集の演奏、録音をオーケストラに、また聴衆に提案できないだろう。ペレイラはそんな強い意志を持った事務局長であった。

ヘッセン放送との共同制作によるマーラー録音では、お互いの録音ポリシーの相違から当初2つの録音室と指示系統などの混乱はあったものの、マイクセッティングやマイクケーブルの引き回しなどの現場準備の大半は放送局スタッフが行なっていた。しかしDENONの自主録音であるウィーンでは録音準備の全てを自前で行なわなければならなかった。

この全集ではコンツェルトハウスとムジークフェラインの2箇所が録音会場として使われたが、メインはコンツェルトハウスであった。1913年に建てられたこのホールはウィーンの市街地を巡るリング通りの外側の縁に面し、近くには有名なベートーヴェンの像がある、大ホールは美しい装飾が施され、高い天井を持ち、豊かな響きが得られるが、現代のコンサートホールでは常設されている天井からマイクを吊るす設備は無かった。そのため、録音スタッフは、まるで登山家のように100mのマイクケーブル2束と、ハンディトーキーを携え、5階まで階段を、そこからはしごをよじ登って天井裏にたどり着く。そこからハンディトーキーから聞こえる指示に従って数十メートル真下のステージにマイクケーブルを垂らし、その先端に取り付けられたメインマイクをヨイショと吊り上げる。吊り上げた後のマイクの角度の微調整は10mのマイクスタンドを竹竿のように操って行うという、とてもアナログな方法が用いられていた。このようにマイクセッティングだけでも時間と人数が必要だったので、機材搬入とセッティング時には当時ウィーンに滞在していた日本人達に呼びかけ手伝ってもらった。

当時、コンツェルトハウスの地下には英国デッカのモニタールームが備えられ、いつでも録音できる状態にあった。我々は羨ましく思い、また何度かこのスタジオを借用したが、ここはステージからは遠いこともあって、基本的には指揮者室の近くの小部屋をモニタールームに作り変え、ここに指揮者やソリストがプレイバックの度ごとに詰め掛けた。

録音はコンサートと並行して行われ、基本的に事前練習が録音セッションとなった。オーケストラは必死に演奏し、聴衆は地味なプログラムにも係わらず、いつもほぼ満員であり、終演後の満足した表情を伺うと、その音楽、演奏をしっかり受け止める懐の深い聴衆であるように感じた。

インバルはどの作曲家、音楽でもそうだが、楽譜に記載されている音楽を深くえぐり出す。ショスタコーヴィチの交響曲では革命やソ連共産党の栄光に題材を求め、他の指揮者ではもっとドラマチックな表現の箇所であっても、楽譜に書かれた以上の過剰な味付けは行わない。それが時に音楽に酔いしれたい聴衆には物足りなさとして残る。
それもあったのだろうか、スタッフ、関係者の努力、その演奏の鋭さとはうらはらに発売されたCDは商業的な成功は勝ち得ることはきなかったし、ブームも作り出せなかった。また、バブルは急速に崩壊して、日本コロムビアの海外オーケストラ録音はまもなく終焉を迎える。

様々な楽器編成とオーケストレーションを持つ全15曲の交響曲。今、改めて15曲を聴くと、当時の録音の度ごとに楽譜を購入し、マイクセッティングを考え、録音テイクのナンバーと演奏の開始箇所をノートに記録しながら、その音楽、演奏を理解しようと務めたウィーン滞在時の情景が浮かんでくる。
一方で、この価格でこの内容の全集が入手できる時代になったのだ、と時の流れを痛感させられる。

(久)


アルバム 2010年10月20日発売

エリアフ・インバル指揮 ウィーン交響楽団
ショスタコーヴィチ交響曲全集

COCQ-84843-53 ¥6,930(税込) 歌詞対訳付き CDエキストラ仕様(DISC-11)

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