[この一枚 No.46] 〜安田謙一�ｶ/J.S.バッハ：無伴奏チェロ組曲全集〜

1960年代後半からのバロック音楽ブームにより、フィリップスのイ・ムジチ合奏団、デッカのアカデミー室内管弦楽団、エラートのパイヤール室内管弦楽団など、レコード会社各社から多くの合奏団のアルバムが発売されていた。
当時、スイスのルツェルン音楽院院長で音楽祭の主催者でもあったバウムガルトナーも音楽院在校生、卒業生を中心にルツェルン音楽祭弦楽合奏団(ルツェルン合奏団)を組織し、西ドイツ、オイロディスクに次々と録音を行っていた。そのLPジャケットには時折メンバーの集合写真が使われていたが、その中にスラリとした欧米人に混ざって小柄な日本人男性が写っていた。今回のコラムに登場する安田謙一�ｶである。

安田のプロフィールをライナーから簡単に紹介しよう。1944年生まれで55年より齋藤秀雄氏に師事。65年のNHK毎日音楽コンクールで大賞、翌年のチャイコフスキー・コンクール・チェロ部門で第3位入賞してヨーロッパに留学。ガスパール・カサド、ピエール・フルニエに師事。1975年春より桐朋学園助教授就任のため帰国、日本コロムビアと専属契約を結ぶ、となっている。

35年振りに再発売されたCDをプレーヤに置き、まず、組曲第１番のプレリュードが流れてくると、その生々しい音に初めて聴く人は驚くだろう。どうしてこの録音とCD化が行われたか、以下に辿ってみよう。

日本コロムビアはこの若きチェリストのデビューにチェロの小品では無く、いきなりコダーイの無伴奏チェロ・ソナタとバッハの無伴奏チェロ組曲全集の録音を計画した。名曲ではあるが、セールス的には期待できないコダーイと制作金額の嵩むバッハ。確かに伴奏が無いのでピアニストとピアノ使用料、楽器調律料は加算しなくてすむが、音源の二次使用の回数も限られてくる。また、バッハの場合、録音が数ヶ月に渡るので、同じ会場の確保も大変である。そんなこんなでレコード会社としては呑みにくい話であるが、承認したのである。

そして、1975年2月から録音が開始された。会場の川口市民会館は座席数1200程の大きなホールであるが、録音する音を決定するプレイバックで演奏家とスタッフの打合せを重ねるごとに、「細かい音を聴き取りたい」と、マイク位置はどんどん近くなっていった。当時は４チャンネルで収録していたので、3，4チャンネルに収録しているホールの響きを編集後に足せば良い、という考えもあったかもしれない。結果、1,2チャンネルの音のみでの発売となり、ホールというより、リビングルームで演奏されているような生々しい音となった。

2月の録音では暖房装置を運転させるとホール内で小さく騒音として聞こえるので、休憩以外は暖房は無し、そんな厳しい環境の中でチェロの技巧を尽くしたコダーイ、チェレプニンという難曲に続いてバッハの録音が開始された。演奏家もスタッフも寒さとの戦いであった。
また、録音の度ごとに録音機材は運送会社のトラック荷台に積み込まれ、川口の会場へ、終了後は赤坂の本社まで運ばれる。機材の監視役でトラックの助手席に座るのはいつもオペレータの役目で、録音終了後に夜の川口から赤羽、飯田橋、そして本社で機材を降ろし、片付けるといつも深夜であった。

75年に発売されたコダーイも翌年のバッハのLPも安田の演奏は評価されたものの、商業的には成功を収めず、初回発売のみで、再発売されることはなかった。結果、以降の安田の録音計画は無くなった。

今回、35年振りのマスターテープからのCD化には大変な苦労があったという。当時、プロの録音や放送現場で使われるあるメーカーの磁気テープにトラブルが発生していた。それは磁性粉をテープに貼り付ける糊が時間の経過のうちに劣化して粉となり、磁性体が剥離する現象である。世界的な問題ともなり、コロムビアでも貴重なマスターテープのダビングに追われたが、機材や優先度もあり、再発の予定のないものは後回しとなったため、今回の再発売では、まずテープの粉落とし、磁性体の剥離防止から取り組まねばならなかった。努力の結果、オリジ ナルの瑞々しい音がCDに移し替えられている。

当初、このCDのあまりに生々しい音に「もう少し響きがあれば」と思ったし、演奏のカスレなどの小さなキズやノイズも聴かれる。キズの殆どが現在の編集技術では簡単に差し替えられるものだが、当時はデジタル編集が難しいので、あまり編集指定はできないと言われ、差し替えなかったのか、演奏の流れを大切にしたかったのか。

世界的チェロ奏者が「旧約聖書」として挑むこの曲で、このCDは他の演奏と比べてキズや欠点が多く、当時売れなかったのも納得できる。しかし、聴き進むうちに、その欠点やキズが気にならなくなり、まるで若き演奏家の意欲的なライヴを独り占めにしている気持ちになるだろう。

(久)

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