「プラハの春音楽祭」は毎年スメタナの命日である5月12日に彼の6曲からなる交響詩「わが祖国」の演奏会で幕を開ける。
1990年、ビロード革命がなされた直後の「プラハの春音楽祭」のオープニングを飾ったのは約40年ぶりに祖国の指揮台に立つラファエル・クーベリック。ハベル大統領も出席してのこの記念すべき演奏会はTV中継され、またCDやDVDとなって全世界の人々を感動させた。
また、今年はプラハ音楽院の200周年を記念してビエロフラーヴェク指揮プラハ音楽院管弦楽団がスメタナホールで演奏するという。
このチェコの人々にとっていわば「第2の国歌」ともいうべきこの作品を録音するということはチェコの指揮者にとって、いったいどんな意味を持つのだろうか。今回は1980年にヴァーツラフ・スメターチェクがチェコ・フィルと録音した「わが祖国」を取上げる。
1980年の年末か、翌年の年明けだっただろうか、チェコのスプラフォンから日本コロムビアに1つの連絡があった。内容は「スメターチェク指揮の「わが祖国」をデジタル録音したので、編集を日本コロムビアでやってくれないか」との依頼であった。
日本コロムビアは1972年からデジタル録音を行い、1976年2月にはプラハでフィッシャー=ディースカウ指揮チェコ・フィルのブラームス:交響曲第4番、ベルリオーズ:交響曲「イタリアのハロルド」を急遽録音。また、翌1977年春にはコシュラー指揮チェコ・フィルでヤナーチェクのシンフォニエッタ、タラス・ブーリバを録音するなどスプラフォンとの共同制作の実績を重ねていた。また、スプラフォンも独自でデジタル録音システムを購入していたが、当時のプロ用デジタル編集機は操作に手間と時間がかかり、音楽の細かい編集には向いていないため、当社への依頼となった。
程なくして、楽譜と録音テープが届き、楽譜に記載されたテイク番号と編集箇所の指示に従って編集を開始した。音楽編集者の特典は、最初にその演奏、商品の全貌を知るということだろうか。しかも楽譜にかぶりつきで作品や演奏内容を深く知ることができる。以前「わが祖国」の一部のオーケストラ楽譜は見る機会があったが、全曲の編集は筆者にとって始めてであった。
当時、「わが祖国」のスプラフォン盤はターリヒ、シェイナ、アンチェル、ノイマンとあり、いずれも名盤とされているが、このスメターチェクの編集作業をジグソーパズルを1ピースごと組み立てるように進め、次第に全貌が明らかになるとともに「こんな凄い演奏があるのだ」と興奮と感動が込上げてきた。それまでスメターチェクには「チェコのカラヤン」と称され、長らくプラハ交響楽団の常任として君臨し、協奏曲伴奏やカタログ作品録音の指揮者という認識しかなかったが、その印象はすっかり改まり、編集を終え、この作業から離れてしまうのがとても残念だった。
仮に「わが祖国」美術館があり、各指揮者演奏の絵画が夫々の部屋に展示してあるとしたら、各曲を6枚の同じサイズのキャンバスに描くのが一般的だろう。しかしながらスメターチェクの部屋は最初の方の絵はそんなに大きくない。でも「ヴィシェフラト」、「ヴルタヴァ(モルダウ)」、「シャールカ」、「ボヘミアの森と草原より」、と奥に進んで、いよいよ5枚目、6枚目の「ターボル」、「ブラニーク」の前に立つと、そのとてつもない大きさに気付く。まるでルーベンスの巨大なタピスリのように。そこには戦いの凄まじさ、恐ろしさ、戦場の臭い、また敬虔な祈り、そして苦難を乗り越えての勝利と新たな希望の輝きなどが生々しく、大胆に描かれて、見る人を圧倒し、感動に誘う。
こんな表現でこの演奏を理解していただけるだろろうか。
1906年生まれのスメターチェクは録音当時74歳。経歴によると20代後半はチェコ・フィルのオーボエ奏者として、指揮者としては1942年から72年までの30年間プラハ交響楽団のシェフとして活躍している。日本ならば、引退公演として1972年に彼が手塩にかけてきたオーケストラとのコンビで、この曲の演奏会と録音が行われたに違いないと確信する。
当時のチェコは共産党の一党独裁政権時代。政治力で人の行動は左右されていたし、日本コロムビアとの共同制作は西側通貨欲しさで行われた部分もかなりあった。当方には便利なこともあったが、街を歩けば、「チェンジ・マネー」、「そのジーンズを売って」と声がかかり、タクシーに乗ると闇ドルの交換を持ちかけられることは珍しくなく、人々は仲間の目を気にして、抑圧された二重生活を強いられていた。スメターチェクは政治力の無い人だったのだろうか? でも、何故74歳のときにチェコ・フィルとの録音が実現したのだろうか? 誰かが「この指揮者の演奏は絶対残さないと!」と訴えたのだろうか? それとも「文化勲章」のように、お上からの指示だったのだろうか?
これだけの名演奏が繰り広げられると、その裏事情を知りたくなるのは下種の勘繰りかもしれない。
スメターチェクはビロード革命を見ることなく、1986年80歳で鬼籍に入った。この作品は1981年2枚組LPとして発売され、その年の文化庁の芸術祭優秀賞に輝いている。
もし、この素晴らしい演奏に無い物ねだりをするならば、それは72年にプラハ交響楽団との演奏が録音されなかったことだろう。
(久)
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