[この一枚 No.82]〜ゲルバー/ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番、他集〜

この一枚

アムステルダムから南西に約40km下った静かな大学町ライデンのほぼ中心、運河沿いにスタッツヘホールザール(時にはスターツヘホールザールと記されているが)はある。1891年に建てられたこの建物は楕円形のホールで周囲を縁どるように2階に小さなバルコニーが設けられ、1階は木の床張りで、街の音楽会場として、また椅子が取り払われた平土間を使って舞踏会場として使われてきた。収容人員は約800人。 日本コロムビアのカタログを見てみると、1983年7月、ジャック・ルヴィエによるドビュッシー:ピアノ作品集-2の録音会場に使われたのが最初で、以降、毎年のように年数回、ピアノを中心とした録音に用いられている。
ここで録音したアーティストはジャック・ルヴィエ、ジャン=ジャック・カントロフ、ルース・ラレード、エレーヌ・グリモー、藤原真理、ブルーノ・リグット、そしてブルーノ=レオナルド・ゲルバーなどが挙げられる。

なぜこのホールがこれほど用いられたのだろうか?その理由としてまず挙げられるのは、録音で最も大切なこと、響きの良さである。次に会場が比較的空いているので、録音のため連続して3日間以上押さえやすいことも要因の一つである。多忙な、時には気儘なアーティストのスケジュールに合わせた会場選択は録音スタッフの大切な仕事で、録音会場の電話番号リストは重要書類である。さらに良質の録音用ピアノと調律師が調達できることも大事な条件である。ヨーロッパにおける音楽の中心地の一つ、アムステルダムから遠くない地の利がこの条件を満たしている。そして交通の便が良いこと。当時日本コロムビアのヨーロッパ録音基地が置かれたドイツ西部デュッセルドルフから車で3時間、オランダのスキポール国際空港からはタクシーで30分という距離は魅力的な場所であった。

1987年7月から開始されたブルーノ=レオナルド・ゲルバーによるベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集の録音だが、最初は比較的順調に進んでいった。しかし1989年12月に4枚目を終えてから次の5枚目の録音日程が難航していた。
1992年初夏に待望の録音の連絡が届いたが、その内容は「7月にベートーヴェンではなく、ブラームスを録音したい」というものだった。ゲルバーの弾くブラームスはデビュー当初より高く評価されており、ベートーヴェンを中断するが、この提案を断る理由は無い。直ぐ様ドイツ録音チームに録音会場を押さえること、ゲルバー担当の録音エンジニア、デンマーク人のピーター・ヴィルモースに依頼すること、録音用ピアノと調律師を手配すること、この3点の指示が届いた。

7月9日、ゲルバーが会場にタクシーで到着した。不自由な足をかばってゆっくりとピアノに向かう。
ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番第一楽章はフォルテシモの分厚い和音で始まるが、ゲルバーは全精神をピアノに打ち込んでいくかのようにダイナミックな演奏を繰り広げる。この演奏ならば、マイクロフォンをどこに置いても良い音が録音できそうな気持ちで、録音スタッフ3人は顔を見合わせた。
「夕べの帳が降り、月の光が輝いている、そこには二つの心、愛に結ばれひとつになって、互いに寄り添い、抱きあう」というシュテルナウの詩にブラームスがインスパイアされて作られた第二楽章では、ゲルバーはピアニシモで歌う。霊感を込めてロマンチックに歌い、ため息がでそうな詩の世界を繰り広げる。全楽章を通じて20歳のブラームスの熱い想いがゲルバーの演奏からは聴こえてくる。

ゲルバーもこの録音に上機嫌だったのだろう、終了後直ぐに9月頭にベート−ヴェン録音の連絡が入ってきた。
この録音については「この1枚No.40」に書いたので、そちらを参照していただきたい。

録音が終わり、録音機材とマスターテープを配送業者に渡した後、馬場ディレクターを車に載せてデン・ハーグに向かった。
目的地はマウリッツハイス美術館。こぢんまりした美術館だが、フェルメールの代表作「真珠の首飾りの少女」、「デルフトの眺望」を所蔵していることで知られている。美術館の入口で馬場さんを降ろして車はデュッセルドルフへの帰路についた。

残念ながらゲルバーによるブラームスの協奏曲は録音できなかったけれど、ソナタの名演は残された。
馬場さん、お疲れ様でした。

(久)


アルバム 2003年03月26日発売

ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番/ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 集
※録音:1992年
COCO-70533 ¥1,000+税

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