この一枚

この一枚 No.89

クラシックメールマガジン 2016年2月付

~エリアフ・インバル/ベルリオーズ:レクイエム~

インターネットの情報によれば、エリアフ・インバルは1936年2月16日にエリアフ・ヨーゼフという名で誕生しているので、今年で80歳を迎えたことになる。
振り返ってみると、彼と日本コロムビアがマーラー交響曲全集から始まる膨大なオーケストラ作品の録音を成し遂げたのは彼が40代後半から50代、まさしく充実した壮年期だった。
フランクフルト放送交響楽団のコンビによるマーラー交響曲全集の世界的な大成功により日本コロムビアのトップ・アーティストとなったインバルがこのコンビで次に何を録音するのか?
社内ではR・シュトラウスやベートーヴェンなど正統的ドイツ音楽レパートリーの要望が高かった。同時期、東ドイツではドイツ・シャルプラッテンとの共同制作でスウィトナーによるベートーヴェン、シューベルト交響曲全集、ブロムシュテットによるR・シュトラウスの管弦楽作品録音が並行して行われていたが、インバルの斬新な音楽作りはそれらとは競合せずに新たなマーケットを切り開くものとして期待されていた。
しかし、インバルの答えはベルリーズの管弦楽作品集だった。ドイツのオーケストラでフランス物?社内ではその企画に否定的な意見があったが、いまここでインバルを切れない、またベルリオーズはカタログに無い、共同制作のため大オーケストラの録音経費負担は半減できる、などから制作承認が得られ、翌1987年9月の〈幻想交響曲、レリオあるいは生への復帰〉からマーラー同様に演奏会と録音がセットで行われていった。
そして。1989年5月に《ベルリオーズ作品集成》の第一弾として88年9月録音の「レクイエム:死者のための大ミサ曲」が発売された。
「もし、私の作品のうち、ひとつを除いて後は全部燃やしてしまうと脅迫されたら、『死者のためのミサ』を助けてくれと頼むだろう。」(ライナーノートより)とベルリオーズが友人へ宛てているほどの自信作「レクイエム」の演奏には多数の演奏者、スコアには合唱210、テノール独唱、弦楽器118、管楽器32(内ホルンが12)、8対(16個)のティンパニを含む打楽器群、それにバンダと呼ばれる金管の小アンサンブルが4組(オーケストラ・合唱から離れた四隅に置かれる)が必要と記載されている。その時代の野外演奏の伝統によるものとはいえ、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」に匹敵する迫力あるサウンドはデジタル録音、CDの威力を発揮させるものである。
日本コロムビアの録音チームは一連のベルリオーズの録音に従来の自社製4チャンネルPCM録音機の他に三菱の32チャンネルデジタル録音機も持ち込み、壮大な音楽の全てを録音しようとしていた。 特に、2曲目の「ディエス・イレ(怒りの日)」や7曲目の「ラクリモサ(かの日こそ涙の日)」で活躍する四隅に置かれた金管アンサンブルの掛け合いと8対のティンパニが作り出す大スペクタクルはサラウンド再生で真価を発揮するもので、後のマルチチャンネル再生ソフトへの布石でもあった。
このインバルの録音からは離れるが、この曲の初演を彷彿とさせる恰好の映像がYou Tubeに挙がっている。
グスターボ・ドゥダメル指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団、シモン・ボリバル交響楽団、アンドリュー・ステイプルズ(テノール)フランス放送合唱団、ノートルダム大聖堂聖歌隊 [収録]2014年1月22日ノートルダム大聖堂(パリ) 2日前に亡くなったクラウディオ・アバドを偲んで。
You Tube The Grande Messe des morts, Op. 5 (or Requiem) Claudio Abbado in memorian
[You Tube]
The Grande Messe des morts, Op. 5 (or Requiem) Claudio Abbado in memorian
この曲が初演されたパリ、アンヴァリッドの聖ルイ教会では無いが、同じようなノートルダム大聖堂での演奏映像である。中央にオーケストラが並び、その奥には16個のティンパニが陣取っている。さらにその奥に大合唱団、教会後方上のオルガン席の左右と前方上の左右には金管アンサンブルが対峙している。
ヨーロッパ全土にテレビ中継された鮮明な映像がそのまま教育目的として公開されているので、ぜひ一見を。
インバル/ベルリオーズ作品集成の第一弾「レクイエム」は以降に続く作品群を考えると商業的に成功させなければならなかったが、2枚組¥5,634と高価で、しかも「声楽曲」は交響曲・管弦楽曲に比べてセールスの苦戦が予想されたため、宣伝は音楽愛好家だけでなく、オーディオ・マニアにも訴えかける手法を用いた。マーラー交響曲全集に続いてこの録音に従事したドイツ駐在の高橋君に依頼して8対のティンパニが映っている録音風景の写真を手配し、コラムを書いてもらい、新聞や音楽・オーディオ雑誌、オーディオ評論家にサンプルCDと共に持ち込んだ。
不安材料は当時の「レコード芸術」誌で声楽部門を担当する音楽評論家2名がこの演奏をどのように評価するか、皆目検討がつかないことだった。録音が良くても演奏評が悪ければ車輪の片方が壊れてしまい、前に進めないことになる。当時、音楽評論家の中にはメジャー・レーベルの指揮者と比べ、インバルを下等評価するむきもあったからだ。しかしベルリオーズの作品が併せ持つ狂気と知性を明晰な解釈で繰り広げるインバルの演奏は高く評価され「特選」となり、さらに予想していなかったその年の「レコードアカデミー賞 声楽部門」を受賞する栄誉に輝く。
インバルにとっては86年:マーラー交響曲第4番での「録音部門」、翌87年:マーラー交響曲第7番での「交響曲部門」に続く3度目の受賞となった。結果、ベルリオーズ作品集成第一弾は音楽的にも、オーディオ的にも、さらに商業的にも成功を修め、その役割を果たした。
前述のように、サラウンド再生に恰好なベルリオーズの「レクイエム」だが、残念ながらこの演奏・録音はSACD化されていない。この録音で用いられた三菱の32チャンネルデジタル録音テープはどこかに眠っているのだろうか。

(久)

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