音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.01

クラシックメールマガジン 2013年5月付

~歌が結ぶ点と線 ~ 朴葵姫『スペインの旅』~

不覚でした。こんなに素晴らしいアルバムが既に半年前に出ていたのに聴かずにいたなんて。最終的に聴くことができたのだからそれでいいかという気もしますが、これまでこのアルバムを聴かずにいた時間がもったいないとさえ思える。あの時、このアルバムが自分の傍にあれば、立ち直りも早かっただろうにと悔しく思えたりもする。何を大袈裟なと言われるかもしれませんが、日々、音盤を聴いて活力を取り戻すことの多い私にはよくあること。
私は昨年(2012年8月)に発売された朴葵姫(パク・キュヒ)さんのコロムビア移籍第1弾アルバム『スペインの旅』の話をしようとしています。少し前、NHKのTV番組で彼女のライヴが放映されたのを見て感銘を受けていたし、そもそもスペインのギター曲は私の最近の大好物なので買わない手はなかったはずなのに、どうした訳か買っていなかった。まったくどうかしていたとしか言いようがない。
買ってから、ほぼ毎日のようにこのアルバムをヘビーローテーションで聴いています。特に、就寝前、朴さんの弾くギターを聴いていると、気持ちが落ち着く。
まず、ファリャの「粉屋の踊り」やタレガの「グラン・ホタ」、トローバのソナチネの両端楽章のように、沸き立つような温度の高いリズムに接していると、心の底からエネルギーが湧いてきて勝手に体が動き出しそうになる。一体どれだけの色のパレットを持っているのかというほどの多彩な音色が次から次から繰り出され、それが曲想の変化に応じて、まったく一瞬のうちに、しかも信じられないほど自然に切り替わる、その俊敏さたるやどうでしょうか。一体これどうやって弾いているんだろうと思わずにいられないような超絶技巧が、こともなげに繰り出され、魅力的な音楽たちの持っている独特のパルスを体験することもできる。私はスペインなんて一度も行ったこともないくせに、おお、これぞフラメンコの国、情熱の国であるスペインの音楽だ!と快哉を叫びたくなる。
でも、そんな楽しさ以上に、私にとってこのアルバムの一番素敵なところは、穏やかで美しい旋律を、静かにしみじみと歌うところ。具体的には、タレガの「ラグリマ」「アラビア奇想曲」「前奏曲第10、11番」、リョベートの「アメリアの遺言」「聖母の御子」、トローバのソナチネの第2楽章などがそう。長調の明るい旋律にも、穏やかな微笑みの中にどこかにほの暗い翳りがあって、決して開放されない感情がその奥に秘められていることを感じさせ、しみじみと聴き入ってしまう。短調の哀しげな旋律では、時折、胸が締め付けられるような孤独な響きが聴こえてきて、それこそ「ラグリマ(涙)」を呼び起こしそうな場面もある。でも、そこにはいつも「明日は明日の風が吹く」とでも言うような楽観がどこかにあり、人生のすべてを受け容れて歩き出そうとする人の微笑みがある。つまり、どの曲も、孤独と微笑みが手を結んであたたかく共存している演奏。そうした音楽のアンビバレントさが、むしろ私の心に安らぎを与えてくれる。
どうしてこんな演奏が可能になるのでしょうか。言うまでもなく、彼女のギターの技術の高さが背景にあることは言うまでもないところですが、前述のような超絶技巧の他に、彼女の演奏からは、まぎれもない、なめらかなレガートが聴こえてくるからだと思います。撥弦楽器であるギターでほんもののレガートを聴かせるのは想像以上に難しいことだと思うのですが、彼女のレガートから生まれてくる歌はもはやギターという楽器の領域を超えて、人間の肉声による歌にさえ聴こえてくるのです。彼女の孤独な微笑みをたたえたあたたかい歌は、その人間の声に近い音色から生まれてきている、そこが素晴らしい。そこが私の心に沁みてくる。
もちろん、ただギターが巧いというだけでは、こんな魅力のある音楽が生まれることにはならない。間違いなく、朴さんの心の中には「歌」がある。スペインのcancion(カンシオン)、韓国のノレ、日本の歌という異文化の「点」が、朴さんのギターから生まれるレガートによって「線」で結ばれている。そこにあたたかなつながりを感じて、心が安らかになってくるのでしょう。
哀しいだとか、孤独だとか、沁みるだとか、お前は毎日そんなに辛い生活を送っているのか?と聞かれてしまうかもしれません。酒を飲みに行って、スナックのママさんやホステスさんと話したり、カラオケで歌ってストレス発散すればいいのにと言われるかもしれません。でも、私は自分でも悲しくなるほどに下戸なので、どうもそういう気にはならないし、カラオケも好きじゃない(カラオケ機器の開発に携わったことはあるのに )。ただ、ある程度歳を重ねてしまうと、毎日、自分の人生の限界がはっきり見えてくるような気がして、芥川龍之介じゃないですけれど、「漠然とした不安」みたいなものが、まるで喉に刺さった魚の小骨のように、いつも心のどこかに引っかかっているのです。将来のことを考えると、無駄に焦ってしまったりもする。
そんな風に、まるで演歌の世界へと足を踏み入れかけ、心が萎んでしまった時に朴さんのギターを聴いていると、誰かに愚痴を聞いてもらってスッキリした時のような爽快感を感じて、落ちかけた気持ちが復活してくるのです。もしかしたら世の酒飲みの中年おやじたちは、まさにその爽快感を得るために、夜な夜なスナックやバーへ行くのかもしれない。こんな厨二病的な話って、家族にはしたくないというか、心配かけるからできないということもあるし。でも、私はそういうところへ行かなくとも、このアルバムを聴けば、ほぼ同等の効果を得ることができるのです。健康にも害はないし、お金はかからないし、後ろめたいことはまったくないし、いいことずくめ。だから、ああ、もっと早くにこのアルバムを知っていれば、悶々と過ごした時間は節約できたかもしれないのにな、と思うのです。でもまあいいでしょう。今は、この素晴らしい「スペインの旅」というアルバムが既に私の傍らにあるのですから。
私は、どんな要求にも応えるプロフェッショナルの確実な成果に最大限の敬意を表しますが、ほんとは、作り手が本当に「作りたい」「表現したい」「伝えたい」と思ったものをこそ聴きたいと願っています。作り手側が愛情や情熱を持って作ったディスクかどうかは、そのディスクを聴けば何となく分かる。この朴さんのアルバムは、まさにそうしたディスクの一つです。選曲や演奏が素晴らしいだけでなくて、ライナーノートも、彼女のポートレート写真や、彼女が撮ったイメージ写真を掲載するだけでなく、彼女の先生にあたる荘村清志さんのコメントや、クラシック音楽評論界でユニークなポジションを得ている鈴木淳史さんによる曲目解説(ただし、文面は意外にも正攻法のもの)を掲載しているところにも、心から作りたいもの、自分たちがいいと思えるもの、他の人に聴いてもらいたいと思えるパッケージを届けようという制作者の意気込みが伝わってくる。音盤中毒患者としてはまさに大好物のディスクなのです。聴けてほんとに良かったと思います。
これから朴さんがどんなアルバムを聴かせてくれるのか、どんなふうに成熟していくのか、ひとりの聴き手として、とても楽しみにしています。これだけの本格的な逸材ですから、願わくば、「売る」ことばかりに注力せず、彼女に対し、注意深く、最良の意味での負荷をかけていき、超一流の音楽家としての成長に手を貸してあげながら、その時々の一番作りたいアルバムを作ってほしいなあと思います。何だか、飲み屋で野球やサッカーなどスポーツ談義をしているおっさんみたいな口調になってしまいましたが、ほんとにそう心から願っています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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