「日本人の心の原風景を映す懐かしいあの歌、この歌」
幸田浩子さんの6枚目のニュー・アルバム『ふるさと~日本のうた~』のオビには、こんな宣伝文句が書かれています。
なるほど、御意です。確かに、幸田さんの歌う19曲の日本のうたを聴いて、「私の心の原風景」を見た気がします。
「私の心の原風景」とは何かというと、実は、歌そのものとは関係のないものです。なぜなら、私は、山で兎を追ったことも、川で小鮒を釣ったこともないし、ペチカも見たことはないし、「姐や」なんて呼ぶ人はいないし、私の周囲では15で嫁には行けない。せいぜい白黒の映像で見る昔の日本の風景くらいの距離感でしか見ることができないものだからです。からたちの花や、椰子の実も、実際に見たことがあったかどうか。そんな状況で、これらの歌の情景を私の「原風景」というには違和感がある。見方を変えれば、日本の作曲家たちの独特の音の使い方に確かに「日本」を感じることもできるのかもしれませんが、西洋の音階を使って書かれた歌ばかりだし、音楽の専門家でもない私はその音の並びに「心の原風景」を感じる理由はあまりありません。
要するに、これらの歌そのものではなくて、私は幸田さんの歌に心の原風景を見たのだと思います。そして、彼女の歌から感じた、私の心の原風景とは「おかあさん」でした。それも、私の母という固有名詞としての「おかあさん」ではなくて「母なる存在」という普通名詞としての「おかあさん」。
どうしてでしょうか?どうして幸田さんの歌から見える私の心の原風景は、「おかあさん」なのでしょうか?
幸田さんの歌を聴いていて私の耳をとらえたのは、その倍音の美しさでした。倍音が豊かに含まれているということは、体やホール(スタジオ)全体を共鳴させて、声がとてもよく響くということ。だから、どんなに強い音で歌うところでも、どんなに弱い音で密やかに歌うところでも、常に余裕を持って楽に歌うことができる。しかも、彼女はもともとコロラトゥーラ歌手ですから、当然、声をコントロールする技術には長けている。
だから、幸田さんの関心は、どれだけ巧く歌うか、どんなに自分主張するかということよりもずっと先のところにあって、それぞれの曲そのもののが持つ魅力、良さをしっかり出していくことにあるように思える。素材の良さを最大限に聴き手に伝えるには、なるべくシンプルに歌い、ゴテゴテといろいろなものを付け加えない方がいい。伴奏もシンプルなのがいい。だから、楽器もピアノ一台、楽譜もオリジナルの伴奏譜か、簡素なアレンジを施したものを採用する。勿論、細かいところではいろいろと工夫をしていて、料理で言うと、素材の大きさや切り口を揃えたり、固いところはほぐしたりというような気遣いは随所に見せているのだけれど、それらは目立たないように注意深く背後に押しやられている。そして、決して大げさにならないように注意しつつ、言葉を一つ一つ丁寧に歌い、歌に込められた「言霊」を、まっすぐに、ピュアに伝えてくれる。
そんな彼女の心遣いに、私の心の原風景としての母親の存在を感じるのです。子供は気がつかないような細かなことでも、子供がのびのびと遊べるように、怪我をしないようにといつも注意してくれている。そんなあたたかな気配りができる存在は、おとうさんや他人じゃなく、おかあさんしかいない。幸田さんは、この19曲の歌にとっても、そして聴き手としての私にとっても、母親的な存在であると言ってしまって良いのかもしれません。
本当に心に沁み入るような歌ばかりでした。ほとんどフォルクロアの域に達したかのような親しみやすさと、リートと呼んで差し支えないような味わい深い歌でもあることを実感させてくれる山田耕筰の歌。特に、R.シュトラウスを想起させるような作曲者最後の歌曲「ばらの花に心をこめて」。香り立つような官能が印象的で、ここでの幸田さんは、オクタヴィアンから銀のバラを献呈されてうっとりしているゾフィーといった風情。山田一雄の「もう直き春になるだろう」は、独特のシンコペーションのリズムや熱っぽいカンタービレが、初代ヤマカズの独特の指揮ぶりを懐かしく思い出せてくれて微笑ましい。毎日毎日テレビで聴かされていささか食傷気味の「花は咲く」も、感動してください、泣いてくださいというような下心のない、あたたかな歌に胸が熱くなりました。でも、やはり一番印象的だったのは、私自身「日本の第二の国歌」と思っている「故郷」。アカペラで始まり、ただ淡々と丁寧に歌を紡いでいて、心にすーっと自然に入ってくる。どれも、贅を極めた豪華な料理なんかじゃないけれど、気遣いとまごころに溢れた、胃にも心にも優しい「おふくろの味」といった趣の歌だったと言い換えてもいいのかもしれません。やっぱり私にとっての心の原風景は「おかあさん」だった。
最近、クールジャパンだとかいう言葉があって、日本文化の良さを再認識し、海外にも積極的に伝えていこうという動きがあります。日本の工業製品の品質、食品の安全性、公衆衛生の高さ、あるいは、丁寧できめ細やかな接客やサービス、アニメを始めとするサブカルチャーの面白さ、そういったものを「ウリ」に世界戦略を立てようというもの。でも、その「ウリ」は、日本のおじさんビジネスマンや、おたくのお兄さんたちが自力で作ってきたものではない。実は、私たち日本人が「おかあさん」の細やかであたたかな気遣いの中で育ってきたからこそ生まれてきたものなんじゃないでしょうか。つまり、日本が世界に誇れるものの起源はすべて母親にこそある。私たち人間が等しく共有できる数少ない真理は「母親から生まれる」ということなのですから当たり前のことかもしれない。
ならば、クールジャパンを真剣に考えたいのなら、もっと母親の視点を入れてみるなり、自分の母親がやってくれたことを思い出しながら、まずは日本を、日本文化を捉え直すところから始めるのが良いんじゃないでしょうか。きっと、今まで気がつかなかったようないろんな新しい発見があるはず。そのためにも、もっと日本の母親たちの社会的、文化的な地位向上を真面目に考えないと、私たち日本の未来は暗いんじゃないでしょうか。そして、日本は、母性的なあたたかさをもった、許容度の大きな社会になっていければいいなあと思います。
音楽から話が逸れてしまいました。私は何と身勝手な妄想を書いているのでしょう。ちょっと恥ずかしい。でも、幸田さんの歌は、こんな妄想をも包み込んでくれるような許容力をもっていて、聴き手が自由に音楽を感じるための余白をちゃんと残してくれている。だから、私は自由に「心の原風景」としての「おかあさん」に触れ、あたたかい気持ちに包まれながら19曲の歌を聴き、彼女が用意してくれた余白に荒唐無稽な思いを書き込める。でも、幸田さんの歌からは、聴き手を心の底から信頼し、聴き手に多くを委ねるという姿勢を感じるので、きっと幸田さん自身は、私の勝手な思いを拒んだりせず、むしろニコニコと笑って許して下さるんじゃないかと思えて、つい自己正当化したくなってしまう。だって、幸田さんは私にとっての「歌のおかあさん」だから・・・。
ということで、私は是非とも幸田さんに言いたい。歌のおかあさん、あたたかくて幸せな時間をありがとう、おおきに、と。そして、あまり多くを書けませんでしたが、本当に素晴らしいピアノ伴奏と編曲をなさっている寺嶋隆也さん、このアルバムを企画した日本コロムビアのスタッフにもただただ感謝あるのみです。
私の母は既にこの世に亡く、私自身は「おとうさん」でしかありませんから、せめて自分の子供たちが、いつか巣立った後でも、帰ってきてたっぷりと「おふくろの味」を味える「ふるさと」をしっかり作っていきたいな、と思いを新たにしました。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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