音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.08

クラシックメールマガジン 2013年12月付

~上岡敏之指揮ヴッパルタール響ほか ベートーヴェン/交響曲第9番~

早いもので12月になりました。ベートーヴェンの「第9」のシーズン到来。今年も今月だけで全国津々浦々の会場で180回近く(筆者がフリーペーパーで調べた結果)「第九」が鳴り響きます。
私はと言えば、もう既に11月から「第9」シーズンに突入しています。さすがに180回も聴いてはいませんが、ほぼ毎晩のように「第9」を聴き、通勤電車の中で「第9」に関する書籍を読み、歩いている間も「第9」を脳内再生という状況で、今、私の血液検査をすれば、「第9」の血中濃度が高くて要検査となることでしょう。
では、どうして「第9」ばかり聴いていたかというと、先月コロムビアから発売された上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団の新盤を聴いて感動し、「いつ書くの、今でしょ!」とばかり今月のコラムで感想を書こうと決めたところまでは良かったものの、いざ書こうとすると、書けない、聴き直す、書けない・・・という無限ループにハマってしまったからです。
感想を書けない理由は明確です。感想を書きながら前回聴いた印象を確認するために部分的に聴き直すつもりが、いざ聴き始めるとハタと手が止まって聴き入ってしまい、しかも聴くたびに前回とはまったく違う新たな思いが溢れ返り、文章を継ぎ足していくうちに辻褄が合わなくなって破綻し、最初から書き直す破目になってしまうからです。ならばと、いろいろな情報を入手して自分の容量を大きくし、せめて視点のブレをなくそうとするのですが却って逆効果。「第9」という音楽の尽きせぬ魅力にズブズブと引き込まれてしまうばかりだったのです。いや、それは正確ではありません。「第9」という音楽が「わからなくなった」のです。私の中でそれなりに明晰に見えていたはずの「第9」の輪郭が、聴けば聴くほどにぼんやりとしたものになり、聴くたびに「第9」の違う景色が見え、違う言葉が聴こえてしまうのです。
例えば、J.F.ケネディの暗殺50周年の特集番組で見た生前のケネディ大統領の演説や、亡くなった南アフリカの元大統領ネルソン・マンデラの映像を見た後に聴いた時、「すべての人々は兄弟となる」「抱かれるがいい 幾百万の人々よ!この口づけを全世界に!」(ライナーノート掲載の対訳より)という第4楽章で歌われるシラーの「歓喜に寄せて」の言葉と、映像に見るケネディやマンデラの姿やその言葉が激しく共鳴し、ベートーヴェンがこの交響曲に込めた思いの深さ、大きさ、切実さ、そして新しさを改めて痛感しました。勿論、「第9」という作品の性質上、ケネディやマンデラという偉人を思いながら聴けば、それがどんな演奏だったとしても、これと同じような感慨を得ただろうとは思うのですが、上岡とヴッパータールの演奏は私の中の何ものかをかき立てる力がきっと並外れて強いのでしょう、「第9」という聴き慣れた音楽がいつも以上に強い訴えかけをもったものとして迫ってきました。これはきっと上岡とヴッパータールの「第9」について世界平和への願いや人類愛というキーワードで感想を書けという天からのお告げに違いないと思い、勢い込んで文章を書き始めました。
ところがです。原稿がほとんど書き上がった頃、私の娘が通う中学校のクラス対抗合唱コンクールを聴きに行きました。娘のクラスの生徒たちは、普段はやんちゃばかりしている男子たちもがとても熱心に合唱に取り組み、まさに音楽を通して心を一つした熱い思いの感じられる歌を聴かせてくれました。私は手垢のついていない感動に満ちた子供たちの歌声にはからずも感動しました。と同時に、少年少女の歌から受けた感銘は、上岡とヴッパータールの「第9」を聴いて得たものととても近い気がしました。私がこのディスクから聴くことができたのは、指揮者、オケと合唱、そして聴衆までもを巻き込んだ強くてあたたかな結びつきがそのまま表れた音だったからです。しかも、日本とは違って滅多に「第9」を演奏する機会のない人たち(上岡が音楽監督に就任した2004年以来8年ぶりだった由)の、「第9」という偉大な作品に向き合うことの初々しいまでに新鮮な驚きや喜び取り組みが痛いほど伝わってきて、私の胸を打ったのでした。私は書いていた原稿はボツにすることに決めました。そもそも、「第9」と世界平和なんてもう散々書き尽くされてきたこと。今さら私のような者が書くことなど何もない。それよりも自分の体験から得た自分の実感をもとに感想を書くのだ!とリセット。そう、まさに「このような音ではなく!」という心境。
今度こそはと意を決し、心を一新して再度ディスクを聴いてみました。すると、「第9」に熱中して短期間に何度も何度も繰り返し聴き、ひどい時には一日に2回立て続けに聴いている自分の姿をふと思った瞬間、小学生二年生の頃に初めて「第9」を聴いて衝撃を受け、それこそ毎日毎日、親が呆れかえるほど繰り返し「第9」を聴きまくっていた頃のことを思い出したのです。当時の具体的な思い出がよみがえってきたというよりも、「第9」という音楽がまだ8歳だった私の中で引き起こしたほとんど革命といって良いほどの化学反応が再現されたように思えたのです。中年のおっさんの心の中で、少年の頃の感動が再現されるなんて信じられません。「じぇじぇじぇ」を何回言えば済むだろうかというくらい!
勿論、8歳当時の私と、今の私とは同じではありませんから、今でしか感じとることのできないものもあります。例えば、第3楽章の声を潜めた静謐な歌から聴こえる祈りと、第4楽章の中盤、合唱とオケが前のめりのテンポで感情を絞り出すかのように激しく歌う「歓喜の歌」(トラック4、12分41秒付近から)の対比からは、シラーの歌詞を借りてベートーヴェンが謳った平和で愛に溢れた世界への願いがまだ今も実現していないことに思いを馳せずにいられなくなります。人々が兄弟になれるような平和な世界が実現できないからこそ「祈り」は深くものになるし、いつまでも手に入れることのできない「喜び」を希求する心はどんどん高まっていく。とても普通の言葉では言い表せないような未分化で巨大で熱い感動の塊が私に押し寄せてきて私の心の中はもうカオス状態へと陥り、途方に暮れてしまいました。
万事休す。私はもう完全にオーバーフローしてしまいました。何をどうまとめて書けば良いのか、まったくわからなくなりました。一体この演奏は何なのだと思いました。今どきベーレンライター版の楽譜を採用(速度指示以外はほぼ忠実に準拠)しているのはまったく珍しいことではないし、部分的にユニークな処理が聴かれる部分はあるとは言え、全体にはむしろ正統派のオーソドックスな演奏と言って良いと思うのですが、どうして私を心の奥深くにある聴体験の「原点」にまで立ち返らせ、私をかき乱し、引っ掻き回すのでしょうか。一体どこにそんなマジックが仕掛けられているのでしょうか?
あれこれと考えているうち、私は最近読んだ上岡敏之のインタビューの言葉を思い出しました。
「ベートーヴェンは息をするのも忘れるように作曲していますし、突然の変化も多い。人間的なところを超えたような、人間がいきつけないようなところを表現するのが(略)難しかった。しかしそこをきっちりやると、聴いてくださるかたに自然にファンタジーが伝わると思うんです。(略)僕はお客さんに息をさせないような演奏してますね」(レコード芸術誌2013年12月号p.61)
息をさせない演奏というのは確かにそうです。オペラのオケ相手なのでつい息継ぎしやすいように余裕をもって演奏してしまいがちなところを、上岡が全曲を60分で駆け抜けるというかなり早めのテンポ(第2楽章の反復は一部省略)と、一瞬の弛緩を許さない引き締まった音楽の運びでオケと声楽陣を追い込んでいるのがその音から確かに伝わってきます。まったく注意を逸らさせない指揮者の強力なリードに時に顎をあげそうになりながら、自分たちのベストを尽くそうとする演奏者たちの音は、基本的にはドイツの地方オケが持つ素朴な美しさを感じさせるものでもありますが、それ以上に、あたたたかな血の通ったものとして私の心に沁み込んできます。
もっとも、その音は、例えばこの秋に立て続けに来日した名門オーケストラが聴かせてくれる細部まで美麗に磨きぬいた至れり尽せりの「お・も・て・な・し」に溢れた極上の悦楽に満ちたものではありません。聴き手としても、ふかふかの絨毯の上で、ただ流れてくる贅沢極まりない音にただ身を委ね、腕組みして待っていれば何もかもが向こうから降ってくることを期待する訳にいきません。演奏者と同じように自分を追い込み、楽想のめまぐるしい変化に同期しようとしてこちらから音楽の内部に入り込み、音の向こう側から聴こえてくる声に耳を傾けずにはいられない。そうすると、息をすることも忘れて音楽に没入してしまう。
でも、そうやって一旦音楽の中に身を置いてみると、ベートーヴェンがすべての音符に込めた激しい思いや祈り、憧れ、希望、そういったものが全部、先ほど書いたような未分化な感動の塊として私の耳に飛び込んでくるような体験をします。これこそが、上岡の言う「ファンタジー」なのかもしれません。上岡がベートーヴェンの音楽を通して私たちに届けてくれるファンタジーが豊かであればあるほど、私の中の幻想・妄想が核分裂を繰り返してどんどん広がり、猛烈なエネルギーを放射しながら膨れ上がっていく。爆発して砕け散ったものはものすごい勢いで拡散してしまっているので、それらを回収して一つの答えにまとめることなど不可能になる。自分自身の感覚はどんどん研ぎ澄まされ、音楽との距離も縮まっている気がするのに、聴けば聴くほどに「第9」の生み出した私の内的な宇宙の広がりの余りの大きさに気づき、ただその広大さと、私という存在の小ささに呆然とするしかない。私は、上岡自身、聴き手にファンタジーを届けることを狙い、きっちりとそれを実現した演奏を聴いていて、私は「正しい」反応をしているに過ぎないのでしょう。私ができることはそのとっちらかったファンタジーを、そのまま書きつけるしかありません。
それでもこの演奏を聴いた感想を何とか要約するとするなら、上岡とヴッパータールの「第9」とは、息もつかせず目まぐるしく変化しながら突き進む音楽のうねりの真只中に聴き手を引きずり込み、聴き手の、一人の人間としての「自意識」を覚醒させるものだということになるでしょうか。
考えてみれば、実はそれこそが、私にとってのベートーヴェンの音楽の正体です。西洋音楽史的な観点から見ても、フランス革命に端を発するヨーロッパ市民革命の激動の時代、それまで王侯貴族や教会といった一部の富裕層や権力者のものでしかなかった「音楽」を、市民のものとした実質的に最初の作曲家がベートーヴェンでした。しかも、ベートーヴェン自身が市民革命思想に共鳴したことは周知の事実であり、故郷のボンにいた頃にこんな有名な言葉を残しています。「できうるかぎりの善行 なにものにも優って自由を愛し たとえ王座のかたわらにあっても 決して真理を裏切るな(1793年5月22日 実業家ア・ボックの記念帳に書いたとされる言葉)」実際、ベートーヴェンという作曲家は、19世紀初頭、主に社交の場で、ほとんどBGMか贅沢な遊びとしてしか見られなかった音楽に、書き手の「自意識」を猛烈に盛り込み、「お前ら、私の音楽をちゃんと聴け!これは私の音楽だが、あなたたちの音楽でもあるのだ!」とばかり、聴き手の「自意識」に訴えかけた人だったことは間違いない。だから、私の考えるベートーヴェンの音楽の「正体」はそんなに間違ったものではないような気もしています。
とは言え、それは2013年の時点の私の考えでしかなく、これからどんどん変わっていくのでしょう。いや、どんどん変えていきたい。上岡敏之とヴッパータール響の「第9」が今の私に示してくれた「聴き手の自意識を覚醒させる音楽」という認識がもし間違いだったとしても、それを出発点として「ベートーヴェンの音楽の正体」を探求し考え続けたい。もしやめてしまったら、20世紀にしばしば行われたような独裁者による曲解と悪用がなされようとした時に抵抗することはできず、結果、好むと好まざるとに関わらず「凡庸な悪」へと巻き込まれてしまうような危惧があるからです。
ベートーヴェンのこんな声が聴こえてくるような気がします。「思考は何も生み出さないが、とにかく考え続けなさい。と同時に、人間への信頼を決して失ってはいけない。信頼に足る人間がいる限り、この世界はより良く、より平和なものになり得るという信念を捨ててはいけない」と。幻聴に違いないですが、それはとても大きくて豊かなファンタジーを内に秘めた演奏からしか得られたものなら、私は満更悪いものではないように思えます。私はどんどん「第9」のことがわからなくなったけれど、それゆえにさらに魅力的な音楽として感じられたのだし、同時にほんの少しだけ自分のことがわかったのですから。素晴らしい演奏に出会えたことに心から感謝したい気持ちでいっぱいです。
このディスクは、恐らくヴッパータールの人たちも買えるようにドイツでも発売されるのでしょう。ライナーノートには日本語解説とそのドイツ語訳の両方が掲載されています。自分たちのオケは世界一うまくて、ベルリン・フィルももっと練習すればうちのオケくらいうまくなるのに、と思っている市民たちの「自意識」も再び覚醒させ、オケと合唱団、そしてマエストロ上岡への誇りを新たにするのでしょう。当地で8年ぶりに演奏された初々しい「第9」の記録は、素晴らしい演奏への日本から「倍返し」の御礼として届けられ、この音楽家たちを愛する人たちの間で再びファンタジーの嵐を巻き起こすに違いありません。こうなったら彼らのベートーヴェンの交響曲の残り8曲も是非とも聴きたいと切に願わずにいられません。
なお、本ディスクはコロムビアならではの超優秀録音が楽しめるSACDハイブリッド盤で、ホールの豊かな残響が美しく捉えられ、演奏家の息遣いまでもが実にリアルに捉えられていてとても素晴らしいのですが、私の感覚では、結構ボリュームを上げて聴かないとその魅力は半減してしまうように思われました。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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