音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.09

クラシックメールマガジン 2014年1月付

~空のショパン~「バラードの音魂を求めて -ショパン作品集- 」福間洸太朗(P)~

あけましておめでとうございます。昨年5月より連載を開始した「音盤中毒患者のディスク案内」ですが、おかげさまで無事(?)年を越すことができました。本年は、昨年よりは内容のある文章をお届けできるように精一杯努力致しますので、おつきあいのほど何卒よろしくお願いします。
さて、2014年最初のディスク案内として、昨年11月発売の、ピアニスト福間洸太朗のコロムビア移籍第二弾となるショパンの作品集を取り上げます。2013年3月に岩舟町文化会館でのセッション録音で、SACDハイブリッド盤。「バラードの音魂(おとだま)を求めて」と銘打たれたアルバムで、ショパンの4曲のバラードを軸に、「アンダンテ・スピアナートと華麗なポロネーズ」や幻想即興曲、ワルツ、ノクターン2曲、そしてエチュード(「別れの曲」)をほぼ作曲順に並べた構成になっています。つまり、単純なバラード全曲集でも、まとまりのない名曲集でもなく、しっかりしたコンセプトに基づいて組み立てられたアルバム。ショパンという作曲家の音楽の作風の成熟過程、形式毎の味わいの違いなどを盛り込みながら、バラードという音楽のありようをより多角的にくっきりと浮き立たせようという狙いが透けて見えます。そもそも福間にとってショパンは特別な思い入れのある大切な作曲家で、2010年にこのアルバムと同様の選曲からなる「バラードの音魂を求めて」というプログラムを持ってツアーをおこなったとのこと、当盤は彼なりにずっと練りに練ってきたアイディアを煮詰め、満を持して具現化したものなのでしょう。
そうした福間の音楽上の意図は、彼の演奏を聴いていると私にもはっきりと感じられます。
よく知られているように、ショパンのバラードというのは、同郷出身の詩人アダム・ミツキェヴィチの詩に霊感を受けて書いたと言われるものの、実際に詩の内容をなぞるような物語詩的な展開をもつ音楽として書かれた訳ではありません。形式的に見ても、中世の吟遊詩人が竪琴を弾き語りしながら歌ったという定型詩としてのバラードの形式よりもソナタ形式に近いので、ショパンがシューマンやリストが書いたような標題音楽的なプロットをもった音楽を目指したのでもないことは明らかです。
それなのに、これらの4曲はどれも、その音楽の展開に何か特定のストーリーを当てはめずとも、私たち聴き手の中でさまざまな感情の動きを生み出します。しかも単純な喜怒哀楽ではなく、それらの感情の間にある微妙なところを移ろっていく音楽の中に、これまでに経験したことのあるような心の動きを追体験することもあれば、ドラマティックな音楽の展開に触れて自分の中にこんな景色があったのかと驚くようなこともある。まるで何か筋の通ったストーリーがあると感じてしまうような瞬間もたくさんあります。ショパンのバラードは、そうした聴き手(作り手も含めて良いのかも)の中で豊かで多彩な感情の変化をもたらす大きな「力」を秘めているのだということを、このアルバムでは他の曲との対比の中ではっきりと感じることができるのです。そして、福間は、ショパンのバラードに内在する、聴き手の心を動かす「力」を、福間は「音霊」と呼んだのでしょう。何しろ、言葉に宿ると信じられていた不思議な力を言霊と呼ぶのですから。
確かに、私は福間の演奏からは大いなる「力」を感じました。それも単に物理的に大きい音とか強い音とかいうふうに、音楽の外見から感じられるものではありません。
もっとも、データだけを見ても分かる通り、どの曲も演奏時間の長さが目を引きます。特に顕著なのは第4番で、例えばサンソン・フランソワが9分15秒で激しい嵐のように駆け抜けたのに対し、福間は11分22秒かかって演奏しています。ルービンシュタイン、ポリーニと比べても1分以上長いし、私が知っている演奏の中でもかなり長い部類に入ります。しかし、福間の演奏では不思議とテンポが遅いと感じることは皆無。
それら名盤に比べると、福間の演奏は全体にテンポや強弱の変化は特に極端なものではなく、例えばこれみよがしに間をとってみたり、情熱的に畳みかけてみたり、曲想によって音色を変えたりして聴き手を驚かせようというような意図は皆無、ショパンの音楽に不可欠なルバートもごく控えめだし、華麗なテクニックを披露するような場面もありません。全曲ほぼ福間と演奏時間が同じであるツィメルマンの演奏は、結構テンポの緩急の差が大きくて「テンポが遅い」と感じるところがあって印象はかなり異なります。同様に演奏時間が近いキーシン盤もやはり自由なゆらぎがあってこれも違う。とにかく淡白、さっぱり、草食系、というような言葉を当てはめたくなる演奏で、ビッグネームたちの濃厚な演奏と比べると、聴き手によっては個性に乏しい薄味の演奏に聴こえてしまうのではと思ってしまうほどです。
でも、外見に捉われずによくよく耳を澄まして聴いてみると(楽譜を見ながら聴くと良い)、福間がすべての音に対してどれほど細やかな神経を遣い、その音の立ち居振る舞いをいかに克明に描き出そうとしているかは歴然とします。すべての音が明晰に奏でられていて、一瞬たりとも茫洋とした音や不用意な音はない。かと言って、演奏者が完全に音をコントロールしてしまうような息苦しさもない。音にまつわる不純物を極限までそぎ落とすことで、一つ一つの音のもっているエネルギーを解き放ち自律的に振舞わせたというような風情の音楽になっている。そして、聴こえてくる音そのものの「力」すなわち「音魂」を感じ取っているうちに、聴き手としての私の心は澄んでいき透明になっていく。まるで波紋が広がって行くかのように、心の中に静けさが伝播していき、何か清められていくような思いがする。ショパンの音楽を聴いて「心が清められる」という経験は、私はこれまで余りしてこなかったので、とても不思議な感覚です。
一体、どうしてこんな演奏が生まれてくるのでしょうか?
ヒントは、少し前に聴きに行ったコンサート会場の入口で配布された福間のコンサートのチラシのキャッチコピーにあるように思います。それは昨年12月に各地で開かれたN.Y.デビュー10周年記念リサイタルのチラシなのですが、演奏会には「五輪書を読みて」というタイトルが付いていました。きっとリストの「ダンテを読みて」をもじったものに違いないのですが、彼の座右の書が宮本武蔵が「五輪書」であり、リサイタルのプログラムも、五輪書に出てくる、地球を構成する五大、すなわち「地・水・火・風・空」に因んだものが取り上げられていました。残念ながら私は演奏会を聴きに行くことはできませんでしたが、ショパンのバラード第1番か第4番が「風」に関連するものとして日によって交互に取り上げられていましたこと、そしてそれ以上に、福間が「五輪書」を愛読しているということに興味を持ちました。と言っても、私自身は「五輪書」を読んだこともなくて、最近ネットで検索して調べてみたに過ぎないのですが、以下の言葉が福間の演奏の「核心」を表しているような気がします。
空有善無惡(空は善有りて悪無し)
 智者有也(智は有なり)
 理者有也(理は有なり)
 道者有也(道は有なり)
 心者空也(心は空なり)
これはまさに「五輪書」の最後の最後、二刀一流の兵法の極意を著した「空(くう)の巻」の末尾に出てくる言葉(宮本武蔵本人のものではないというのが定説)で、「空」とは物事のかたちのないこと、知り得ないこと、つまり、無を指す言葉だが、有(かたちのあるもの)を知って無を知ることこそが「空」であると定義した上で、「兵法の智、利、道を極めることで、心が空の域に達する」という解釈をするらしい。
そう、まさしく福間の演奏からは、楽譜を読み、ピアノを弾き、演奏するという行為(=有としての兵法)を通して、「音魂」というまったく実体のないもの(=無)を掴み取ろうという、まさに「空」の境地に達したような彼の心を感じ取ることができるのです。そして、その彼の澄みきった「空」の心が私にも伝播し、前述のようなある種の「浄化作用」をもたらしてくれるのではないでしょうか。思えば、私が福間の演奏を初めて聴いたのは、別レーベルから出ている武満徹のピアノ作品集で、それこそ透明で静謐な美しさに溢れた素晴らしい演奏でしたから、きっとどんな曲を弾く時も、彼は「空の境地」を目指しているに違いありません。そうしたブレのなさ、迷いのなさ、曇りのなさこそ、まさに武士道の教えのはずです。彼は高校生の頃にコンクールを受ける際の心構えを五輪書から習んだそうですが、その後、時間をかけて武蔵の言葉から学んだ兵法の極意を自身の演奏に演繹した結果、このユニークな「空(くう)のショパン」を生み出すことができたということなのではないでしょうか。
アルバムの全体的な印象ばかり書いてしまいましたが、どれか特に印象に残ったものを一つと聞かれればやはりバラード第4番の充実した音楽の大きさに惹かれたと答えましょうか。いや、他の3曲のまるで冬の空を思わせるような澄み切った音の世界にも魅力を感じる。勿論、バラード以外の曲たちも素晴らしい。2曲のノクターンの瑞々しい抒情も、イ短調のワルツの沈んだ表情も、アンダンテ・スピアナートの凛とした風情も、敢えて原典版を採用した幻想即興曲の豊かなファンタジーも、彼が子供の頃に好きだったという「別れの曲」の慈しみに満ちた歌も、何度聴いても飽きることのない新鮮な魅力を感じずにはいられません。実に印象深いショパン演奏を聴くことができたという喜びをかみしめながら、次はノクターンを聴きたい、スケルツォもいい、でもプレリュードも興味があると、今後への期待に胸ふくらませています。
あとこのアルバムについて書いておかなければならないのは、福間が弾いている楽器のことです。ライナーではスタインウェイという記載しかありませんが、調律を担当しているのが、最近「今のピアノでショパンは弾けない」という本を出版して話題になっているタカギクラヴィアの高木裕氏。そんなタイトルの本を出した氏が調律しているのはおかしいと思われるかもしれませんが、まったくそうではなくて、氏はスタインウェイの持ち味を最大限に引き出し、ショパンを弾くのに最もふさわしい状態に調整するという作業をおこなっている。全然矛盾はないのです。実際、福間の微細な表現は、このスタインウェイでこそ可能になったのではないかと思えるほどに、とてもいいピアノの音が聴けます。SACDフォーマットの高精細な録音のせいもあってか、ペダル音の余韻にとても微妙な干渉が聴き取れるのですが、そのことからも分かるように、ただ物理特性だけが優れた無個性なピアノではなくて、複雑な味わいをもった音色を愉しむことができるのです。録音も、この明晰なピアニズムを身上とする福間の音を克明に記録した優秀なもの。ピアニストだけでなく、録音、楽器を担当するスタッフたちのまさにプロの実力を結集させて完成したアルバムと言えると思います。
このところ、どちらかというと女性アーティストの活躍が目立っていたコロムビアですが、福間やフルートの上野星矢、指揮とピアノの上岡敏之といった男性陣が女性たちに負けず劣らず充実した活躍を展開していること、また、このショパンや、先月取り上げた上岡の「第9」、あるいはスクロヴァチェフスキと読響のベートーヴェンなど、クラシック・ファンの主食とも言えるようなレパートリーの録音が増えてきたことから考えると、今年はまたこれまで以上に興味深いディスクをたくさん聴かせてくれるだろうという期待が大きくなってきます。勿論、福間洸太朗とコロムビアの共同作業が、息の長い豊かなものにして頂きたいです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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