「私の人生を変えた一枚」なんていうと大袈裟かもしれませんが、そう呼びたくなるくらいに思い入れの強いディスクは誰にでもあるのではないでしょうか。音楽との出会いとなった一枚、自分の意志で初めて買った(買ってもらった)一枚、あるいは何か特別な個人的な思い出の詰まった一枚など思い入れの種類にはいろいろあるでしょうが、もしこれを聴かなかったら別の人生を歩んでいたかもしれないと思わずにいられないもの。音楽を聴く醍醐味はナマにこそあるという考え方も理解しつつ、音盤に触れて豊かな時間を過ごし、時に「人生が変わる」くらいの体験を得られるからこそ、私たちファンはせっせと音盤を買い続けて新しい楽しみを探し続けるのではないでしょうか。
ということで、今回は私の「人生を変えたこの一枚」について書くことにします。厳密には「一枚」ではなくて15枚を要する大がかりなセットなのですが、エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏するマーラーの交響曲全集です。
1985年から1年をかけて1~9番と未完の10番のアダージョが作曲順に録音され、その後に追加された「大地の歌」やクック補筆完成版の第10番を含めて全集としてまとめられたもので、インバルにとっても、コロムビア(DENONレーベル)にとっても、それぞれの代表的な録音として国内外で非常に高い評価を得ている名盤です。第4番以降、基本的にワンポイント録音方式を採用し、とても自然で臨場感あふれる優秀な録音であることも非常に大きな話題を呼びました。
私自身は1987年4月に発売された交響曲第7番からこの全集を聴き始めました。60CO-1553~4という品番のディスクで、その後の度重なる再発売に際しても一度も変えられなかった、白地にマーラーの横顔が印刷されたジャケット。裏にはまだ髪が黒くて、眼鏡もかけておらず、ほっそりした顔の、当時50代前半だったインバルの写真を見ることができます。
7番以前に発売されたディスクを聴いていなかった理由は、当時、レナード・バーンスタインのドイツ・グラモフォンへの再録音チクルスがほぼ同時に開始されていて、そちらの方に夢中になってしまっていたからです。何しろ、1985年にバーンスタインがイスラエル・フィルと来日した時の第9番を大阪で聴き、それこそ「私の人生を変えた一夜」を体験してしまったので、インバルに限らず、同時期に全集録音が進行していたアバド、シノーポリ、小澤、テンシュテットらのディスクでさえも私の眼中からは完全に外れてしまっていました。
どうして当時の私がインバルのマーラーを聴こうと思ったのかははっきりとは覚えていません。もしかすると、このシリーズの第4番あたりから評論家やファンの間で「インバルのマーラーが凄い!」という評判が高まっていたからかもしれませんし、バーンスタインの新盤で興味を持った第7番のもっと他の演奏を聴きたいと思ったのかもしれないのですが、それ以上に「私はこのディスクを絶対聴かなければいけない」という直感が働いたからだったように思います。
インバルとフランクフルトのマーラーの7番は、87年のレコード・アカデミー賞の交響曲部門を受賞し、あらゆるところで絶賛されてきた名盤ですから、演奏について私から付け加えることなど何もありません。マーラー研究の権威ド・ラグランジュの「マーラーが譜面に記載した美や多面性や醜さまでも、全てを表現している」というコメントが最も的確に演奏の特徴を表しているのではないでしょうか。事実、私もこのディスクを聴いて心から感動し、マーラーの音楽の底知れない魅力を、バーンスタインという私にとって絶対的な存在とは別の視点から教えてもらいました。
しかし、ただ単に演奏が良いというだけでは「人生を変えた一枚」とまでは思わなかったかもしれません。むしろ、このディスクを聴いたことをきっかけとする私のとった「次の行動」が人生を変えたと言って良いのかもしれません。つまり、インバルのマーラーの7番のディスクを聴いて感動した私は、その年の秋に予定されていたインバルとフランクフルト放響の来日公演を聴きに行くことにしたのです。
私が聴いたのは初日のサントリー・ホールでのマーラーの5番と、最終日の東京文化会館でのブルックナーの5番。どちらも期待を遥かに上回る素晴らしい演奏でした。前者は、録音以上に細部の表現に拘ってマーラーが総譜に書きつけた詳細な指示を過激なまでにデフォルメしつつ、冒頭のトランペット・ソロから始まる葬送行進曲から第5楽章のコーダの熱狂に至るまで、尋常ならざる集中力をもって音楽の核心にどんどん斬り込んでいくさまはもう凄絶としか言いようがありませんでした。後者は、重厚で壮大な伝統的なブルックナー解釈に背を向け、ブルックナーの音楽の持つ革新性を打ち出した「新しい」演奏でしたが、指揮者とオーケストラが一体となって、ブルックナーの音楽に冷徹にしかし熱く没入したもので、特に終楽章の大規模なフーガの後、それまでの緊張を一気に解放するかのような力に満ちたコーダのコラールの輝かしい響きに触れ、まさに「全身で音楽に浸る」ということの幸福を知りました。
私が聴きたい音楽、これから聴いていく音楽はきっとこういうものだろうと思いました。事実、それ以降、私はインバルの演奏をたくさん聴いて来ました。DENONからのディスクは全部、そして他レーベルから出ているディスクも主なものは大体聴いていますし、他のどの音楽家よりも実演を聴いた回数の多い演奏家です。要するに一番好きな指揮者エリアフ・インバルとの出会いのきっかけをくれたのがフランクフルトとのマーラーの7番のディスクだったのです。
もっとも、最初に聴くディスクは7番じゃなくても良かったのかもしれません。それよりも87年4月という時期にインバルとフランクフルトのマーラーを「新譜」として聴いたということの方が大きかった。
87年4月、私は大学進学のため故郷の神戸から上京、大学の学生オケに入団してチェロを始め、ほどなくしてマーラーが好きという同期のヴァイオリン弾きと意気投合しました。そして何かの機会に、その頃に聴いたインバルのマーラーのCDの話になり、秋のインバルとフランクフルトの来日公演を一緒に彼と聴きに行くことにしました。
前述の2つの演奏会とも、友人も私も熱狂的に感動しました。忘れられないのはブルックナーの時のこと。演奏会からの帰り道、互いの下宿の最寄り駅で別れたのですが、素晴らしい音楽を聴いた余韻が消えてしまうのが何だかもったいなくて、近くをウロウロと散歩してから日付が変わるくらいの時間にようやく下宿に帰りました。翌日、友人と会ってその話をすると、彼も私と同じくまっすぐ帰るのがもったいなくてぶらぶら歩いて帰ったと言っていて、「おお、おんなじやな」と笑い合ったのを覚えています。
その友人は、私にとって、今も大切な存在です。生き方も、音楽の聴き方も、性格も全然違いますが、音楽を含めたさまざまなことへの関心の方向やものの考え方に共通するものがあって、音楽を聴いたり、本を読んだり、映画を見たりした時には彼の感想を聞いて話をしたくなります。さすがに社会人になってからはなかなか会う機会も持てませんが、つかず離れずでいつも繋がっていたいと思います。30年近い付き合いを振り返ってみると、彼と私の繋がりの中心には、いつもインバルという指揮者がいて、彼の指揮するマーラーのCDや実演がありました。そんな私の大切な友人との関わりのきっかけを作ってくれたという意味でも、インバルのマーラー全集は「私の人生を変えた一枚」でもあるのです。
また、先ほど述べたように、私の音楽体験の中で、インバルという指揮者の占める存在はとても大きなものであり、彼の数多いディスクの中でも、このマーラー全集には計り知れない価値があります。
このマーラー全集への私の愛着は、彼の振るマーラーの実演を聴いた体験と強く結び付いています。これまでに私は少なくとも50回は彼のコンサートを聴いていますが、前述の5番の他、89年にフランクフルトとの来日公演で聴いた空前絶後の第6番や、93年のN響への初登場の際の第3番、そして都響との2回のチクルスなど忘れがたい感銘を与えてくれた演奏がたくさんあります。それらはいずれもライヴで激しく燃焼するインバルの特質を実感させてくれる痛烈な体験でしたが、セッションを組んで細部まで煮詰めた緻密な演奏もまた、インバルのもう一つの側面をとらえたものであり、実演とディスクの両方で「インバルのマーラー」に触れているのだという意識があります。今回も、この文章を書くために久しぶりに何曲かを聴き直したのですが、いずれもリリースから30年近く経った今もなお古さをまったく感じさせないどころか、十分な鮮度を保った普遍的な価値をもった演奏に感じられ、私のこれらのディスクに対する愛着はまったく変わることがありませんでした。ですから、「私の人生を変えた一枚」として、第7番だけ単独ではなく、全集として(ウィーン響との歌曲集2枚も含めたい)挙げたいです。
しかし、どれか一つだけ好きなディスクを選べと言われたら、他のディスクへの未練に身悶えしつつ、第10番のデリック・クックによる補筆完成版を挙げます。マーラーの10番のクック版をめぐっては様々な意見があり、マーラーの手によって完成されていないので演奏すべきではない、響きも薄くて欠陥が多いという声が根強いことも承知しています。私自身、別の演奏で初めてクック版の10番を聴いた時もピンと来ず、世評と同じ意見を持っていました。事実、このインバルとフランクフルトの演奏をもってしても克服できない弱点はあるのでしょう。
しかし、この演奏からは、マーラーの心の張り裂けんばかりの痛みと、声にならない絶叫が聴こえてくるような気がして、いつも全身が震えるような感動をもって聴きます。特に第5楽章、この世のものとは思えないほど美しいフルートのソロから始まって、第1楽章の凄絶なトーンクラスターによるカタストロフが再現された後、音楽が鎮まってからコーダに至るまでの美しい音楽を聴いていると、心に熱い感動が沁み渡っていくのを感じます。とりわけ、中低弦の和音に乗ってヴァイオリンが最後の絶唱をおこない、まさにその絶頂でトリスタンのターン音型が歌われる時、そこには、現世でのあらゆる辛苦からの救いを願う「祈り」が私には聴こえるような気がしてなりません。
第9番のアダージョでのクライマックスが声涙ともに下る"Leb Wohl!(さよなら)"であったとするなら、この10番の絶唱はさしずめもはや言葉になりきらない悲痛な叫びであり、その「声なき声」私という存在の根源に触れる思いがして心を激しく揺さぶられてしまいます。それはきっと、凄まじいまでの感情移入と、恐ろしいほどに純度の高い響きとが両立したインバルの演奏の素晴らしさゆえですし、クックが極力「余計なものを付加しない」という姿勢を貫いて補筆をしてくれた結果でもあるのでしょう。以来、マーラーの10番は、私の中では、最高傑作である第9番に勝るとも劣らない感動を与えてくれる音楽として大切な存在となっています。きっとこの曲を愛することは、そのまま私という人間の輪郭を規定する行為なのかもしれません。
というように、インバルの7番のCDとの出会いがその後の私にとっての大切な存在と出会う機会を作ってくれましたし、10番のクック版の演奏が私の音楽の嗜好・志向を決定づけてくれました。私は音楽を職業にした訳でも何でもありませんが、やはりこの全集は「私の人生を変えた一枚」だと言い切れます。もしも87年4月にこのCDと出会っていなかったらの秋の来日公演には行っていなかったかもしれず、もしもあの時の来日公演を聴いていなかったら、その後インバルの演奏にちゃんと出会えていたか、友人と永続的な関係を結べたかどうか、まったく自信がありません。偶然とは言え、これも何かの縁なのかもしれません。
そんな風に考えていくと、「私の人生を変えた一枚」と呼びたくなるような愛聴盤というのは、単に音楽が記録された媒体である以上に、それを聴いた時々の自分自身の姿が刻み込まれた記録でもあって、私たち聴き手は、音楽以外にそうしたものも一緒に聴いているのではないかと思えてきます。
ここ数日、「音楽以外の物語を聴く」ということが、とても悪いことのように言われています。確かに、音楽の作り手側にまつわる「物語」に必要以上に捉われて自分の印象を歪めてしまうのは不健康なことでしょうが、「音盤にまつわる聴き手自身の物語」のようなものからは、少なくとも私は逃れることはできません。いや、逃れる必要もないでしょうか。音にこびりついた自分自身の物語に寄りかかって音楽を聴くことは、一面、居心地の良い過去の自分の記憶への逃避ではありますが、マイナスばかりではありません。音盤を聴いた時に得た感動なり喜びというのは、過去に通り過ぎた間違いなく自分だけの里程であり、折に触れて立ち返り再び触れることで、今の自分の立ち位置を知るよすがとなります。そこから何か新しい出会いが発生することもあります。実際、そういう意義深い経験を何度もしているからこそ、私は、ディスクで音楽を聴くのはやめられない、音盤中毒から脱け出せないのです。たかが音盤、されど音盤。
子供じみた感想を述べますが、人の人生を変えてしまう仕事って凄いなあと思います。職業人として私自身のことを考えると、私がソフト技術者として開発のごくごく一部に携わった商品は世にそれなりの数が出ていて、開発にあたっても使って下さるユーザーに満足して頂きたいという思いを胸に仕事をしているつもりですが、自分が関わったアウトプットによって誰かの人生が変わったというようなことはほぼ考えられません。そう考えると、音楽家、あるいは音楽の制作に携わるスタッフというのは、何と貴い仕事をされているのだろうと尊敬してしまいます。だから、このインバルのマーラー全集のようなかけがえのない音盤を残してくれたインバル、フランクフルト放響、そしてコロムビアのスタッフには心の底から感謝したいと思います。
コロムビアからリリースされた膨大なディスクの中には、ジャンルを問わず、私にとってのインバルのマーラー全集のように、「人生を変えた一枚」として聴き手に宝物のように大切に扱ってもらっているものがたくさんあるはずです。先日発覚した出来事でコロムビアの方々はさぞ心を痛めておられることと思いますが、聴き手の多くは、それらのディスクを大切にする気持ちに何ら変わりはなく、コロムビアがこれからも素晴らしいディスクをリリースして下さることを期待しているはずです。今回の一件に至った経緯を検証し、是正しなければならないことはあるにせよ、これまでの素晴らしい業績までも真っ黒に塗りつぶすことなく、同時代の音楽家たちと私たち聴き手を結ぶ架け橋として、「聴き手にどうしても届けたい」と思うものを作り続けて頂きたいと思います。応援しています。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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