音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.13

クラシックメールマガジン 2014年5月付

~星に願いを ~ スメタナ/連作交響詩「わが祖国」 ノイマン指揮 チェコ・フィル~

あなたが最初に聴いたコロムビアのディスクは何ですか?
そんなアンケートをしたら、きっと面白い集計結果になるでしょう。世代や男女によって多彩なディスクが挙げられるはずですが、私の世代なら、ゴダイゴや榊原郁恵、河合奈保子、あるいは仮面ライダーの主題歌などを歌っていた子門真人が多いでしょうか。クラシックだと、70~80年代に人気のあったチェコや旧東独の演奏家たちのディスクが強いのではないかと予想します。
私の場合も、月並みですが、ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルの演奏によるスメタナの連作交響詩「わが祖国」のレコードでした。コロムビアから出ているノイマンとチェコ・フィルの「わが祖国」は1975年盤、1982年盤の2つがありますが、前者のスタジオ録音の方(後者は東京でのライヴ録音)です。今もなお堂々の現役盤で、SACDやLPのフォーマットでも発売され、多くのファンから愛されているこの名盤は、1975年2,3月にプラハのルドルフィヌム(芸術家の家)で録音された、スプラフォン原盤のディスクです。OB-7281~2という番号を付けられた2枚組のLPは、録音された年に発売されるや否や各方面から絶賛され、3万セット(!)を売り上げたのだそうです。日本側からの要請で制作されたこともあり、コロムビアからノイマンとスプラフォンに対して感謝状とゴールドディスクが贈呈されたと聞きます。
私がクラシック音楽を聴き始めた当時、ノイマンの「わが祖国」は、発売から既に1年近く過ぎていたにも関わらず、まだベストセラー街道を突っ走っていました。事実、雑誌「レコード芸術」の1977年1月号の付録を見ると、1976年のコロムビアの年間レコード売上第1位はこのLPですし、私の故郷の神戸にもまだたくさんあった「街のレコード屋さん」の多くでは、この「わが祖国」が一番目立つ場所に置かれていたと記憶します。そんな頃、私がクラシック音楽を聴き始めたと聞きつけた大人たちが、なぜか揃いも揃って「わが祖国」を絶対に聴けと薦めてくれたので、いつもレコード屋さんで見かけるノイマン盤を、迷うことなく購入してもらったのでした。
以来、40年近くが経過し、スメタナの「わが祖国」は私の偏愛する曲になりました。ノイマン盤だけでなく、大指揮者ラファエル・クーベリックの遺したいくつもの名盤、特に1990年5月のプラハの春音楽祭の開幕演奏会で、民主化なったチェコに42年ぶりにクーベリックが帰国しチェコ・フィルを指揮して演奏した歴史的名演(コロムビアからCD/DVDが発売)を初め、多くの素晴らしい演奏を聴いてきました。ですが、このノイマンの75年盤には格別の愛着があり、折に触れて聴き返したくなる愛聴盤であり続けています。
表面的には、どこまでも楷書的で、ひたすら生真面目な演奏です。勿論、この曲には欠かせないダイナミックで熱い盛り上がりは十分なのですが、歴史に残るイベントのライヴであるとか、印象的なエピソードがあるとか、いわゆる「物語」が付随していないだけに、この交響詩の標題音楽的な要素を必要以上に強調するようなことはなく、全体に穏やかで落ち着いた趣があります。最後の2曲「ターボル」「ブラニーク」という、チェコの人たちの愛国心、独立精神を掻き立てるような激しい思いが込められた音楽でさえ、淡々と演奏をしているように聴こえるほどです。また、全曲に頻出するボヘミアの民謡や踊りを思わせるような素朴な音楽でも、殊更に民族色豊かなリズムや旋律を強調するようなこともありません。ですから、聴く人によっては薄味で物足りない演奏とか、官僚的な音楽(今は亡き高名な評論家がノイマンの演奏をそう評したことがあります)ととられるかもしれません。
それにも関わらず、私がこの演奏を聴くたび、言い知れないほどの深い充足感を感じることができるのは、彼らの素朴で飾らない音楽が、演奏者の「自分たちの最善を尽くそう」という強い気概に貫かれたものであるように感じるからです。
シルクのような上質の手触りをもった響きの美しい弦、トランペットのミロスラフ・ケイマル、ホルンのズデニェク・ティルシャル という名手を擁し、派手さはないけれども壮麗な響きを聴かせてくれるブラスセクション、ヴィブラートのかかったクラリネットを始め鄙びた古雅な音色が魅力的な木管、神技的な演奏を聴かせるシンバルや、オケ全体に睨みを効かせる強力なティンパニが印象的な打楽器群。そして、豊かなホールの残響を最後の最後まで味わいたくなるような、充実しきったトゥッティ(全奏)の響き。ノイマンの指揮も、表面上は平明な表現をとりながらも、その背後に吟味され尽した強固な美意識の存在を感じさせるもので、まさに彼の指揮芸術の真骨頂と言えるものです。
このように、この「わが祖国」の演奏は、聴き手を否応なく熱いドラマに巻き込むような凄みはなくとも、彼らが自らの最良の姿を記録するために最善を尽くした演奏であり、今も聴くたびに新しい発見のある味わい深い名演だと私は思います。
と同時に、私はノイマンとチェコ・フィルの「わが祖国」という音楽への強い愛情と、一点の曇りもない敬意を感じずにはいられません。そして、その演奏者の内側にあるものを、恐らく、祖国への「愛国心」と呼んで差支えないように思います。
ただ、この「愛国心」についてはよく考えないといけないと感じています。ノイマンの「わが祖国」の1975年盤は、「本場モノの演奏」である以上に、「1970年代のチェコの国家体制の『中の人』による演奏」でもあるからです。
1975年のチェコといえば、年表上では平穏無事な時期ですが、1968年8月、ソ連の軍事介入(いわゆるチェコ事件)によって「プラハの春」と呼ばれた民主化運動が潰されてからまだ7年、ソ連の強い影響下にある「正常化体制」が国を動かしていた時期です。「人の顔をした社会主義」を標榜し、自由な社会を目指して活動していた人たちは既に追放され、言論や文化活動も厳しく統制されるなど、一般の国民は不自由な生活を強いられていました。
指揮をするノイマンは、チェコ・フィルの首席指揮者を務めていたカレル・アンチェルがチェコ事件に抗議してカナダに亡命したため、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の音楽監督のポストを辞してチェコに帰国、アンチェルの後任としてチェコ・フィルの指揮者に就任しました。以来、実に21年の長きにわたってチェコ・フィルを率い、西側でも活発な活動をおこなって高い評価を受けました。日本にも何度も来日、コロムビア経由で発売される数多くのスプラフォン原盤のディスクは軒並み評判となりましたのでお馴染みの指揮者でした。つまり、共産主義国家にあって特権的な待遇を受けた人だったとも言え、意地の悪い今風の言い方をしてしまうと、「御用音楽家」と呼ばれてもおかしくない位置にいた「中の人」だった訳です。
ノイマンがチェコの「中の人」だったということを考えるためには、クーベリックについて触れない訳にいきません。1941年から名指揮者ターリッヒの後を継いでチェコ・フィルの首席指揮者を務めていた彼は、1948年の政変で共産国家が樹立するとともに亡命し、心ならずもチェコの「外の人」になってしまいました。亡命後は、アメリカで黒人演奏家を登用したことで経営陣と喧嘩したり、チェコの体制を公然と批判したりなど、すぐれた音楽家であるだけでなく、英雄的な行為をした「正義の人」として尊敬されていました。
自由主義経済社会の真っ只中に生きる者にとって、クーベリックのように自由を求めて西側へ出た「外の人」の行動に対して理解し共感を抱くことはさほど難しくはありません。しかし、70年代のチェコの「中の人」として国内で活躍していた人の心の中にあった「愛国心」とは一体どんなものだったのか、その人たちが、愛国心の象徴ともいうべき「わが祖国」という音楽をどのような思いで演奏したのかは、少なくとも私にとっては想像することすら困難です。
そんなことは関係なく、音楽だけ聴けばいいじゃないかと言われてしまうかもしれません。しかし、他国からの度重なる侵略に悩まされ続けてきた祖国チェコの真の独立への強い願いを込め、郷土の自然や、そこに生きる人々の姿を描いた「わが祖国」、しかも、演奏しているのがチェコの人たちであるならば尚更、それを誰が、いつ、どんな状況の下で、どういう風に演奏したのかということを無視して、何も考えずに音だけ聴くことは難しい。「物語」抜きに聴くことができないのです。
最近、ノイマンに関するエピソードを知りました。それはコロムビアからもライヴ録音のCDが発売されている、「わが祖国」初演100周年を東京で祝った演奏会を含む1982年11月の日本ツアーの際のこと。11月10日に、当時のソ連の指導者ブレジネフ書記長が亡くなったのですが、オケとのリハーサル開始時にその報を聞いたノイマンは「御起立下さい。偉大な指導者が亡くなられました。チェコ音楽に多大な貢献をされた偉大な人物に敬意を」と告げるや、間髪を入れずに「どうぞご着席下さい。彼はチェコ音楽に大した貢献をしていませんから」と続けたのだそうです。
何と辛辣な言葉でしょうか。ノイマンのスピーチに楽団員はどんな反応をしたのか知りたいところですが、このエピソードから彼の「本音」が垣間見えたような気がしました。彼は、「正常化体制」の下、祖国が理不尽に押さえつけられていることを、いつも悔しく思っていたのでしょう。また、例外はあったでしょうが、チェコ・フィルの団員の多くも同じ気持ちだったのではないでしょうか。
つまり、ノイマンは決して「御用音楽家」などではなかったのです。チェコの音楽と聴衆を愛し、心から必要としていたからチェコを離れられなかったのであり、ソ連の軍事介入の際に帰国したのも、本当にチェコの音楽の危機を憂い、何とかせねばという正義感から出た行動だったのだと確信するに至りました。
そんな反骨精神をもった演奏家の心にあったものは、言うまでもなく、手放しの「愛国心」ではあり得ません。ですから、彼らが演奏した「わが祖国」は、絶大な軍事的な力をもった大国に支配され、言いなりになってしまった国家への愛情や忠誠心を表明したようなプロパガンダ音楽でもなければ、愛国心を煽るような「わが祖国」を演奏したらシベリア送りだから、愛国心などないかのように振舞う、というようなニヒルな自虐精神に覆われた空虚な音楽でもありません。「決していい加減な演奏などするものか!」という意気込みの感じられる、心のこもった生き生きとした魅力的な音楽です。もっと言えば、強者の横暴には表面的には屈服しながらも、決して自国への誇りや自己肯定感を捨てずることなく着実に歩みを進め、14年後には無血で民主化を勝ち取った「ベルベット革命」をやり遂げるチェコの「中の人」たちの姿を思い起こさずにはいられない音楽なのです。
1968年以降もチェコに残った「中の人」たちの思いに、音楽とは別のところで触れたことがあります。チェコを代表する報道写真家にヨゼフ・クーデルカという人がいるのですが、1968年8月にソ連軍がプラハの街へと進駐してきたその日の様子を、彼が記録した写真を見た時です。
クーデルカが写した写真のほとんどは、広場に集まって不安げな表情で座りこんだり、街を占拠したソ連軍の戦車を取り囲んで何かを叫んだり、銃を構えた兵士に何かを語りかけようとするプラハ市民の姿が記録されたものです。そんなことをしたって相手は重装備をした兵士なのですから絶対に勝てる訳はないのですが、チェコの人たちは、一部を除いては表立って組織的な抵抗はしなかった。「話せば分かる」とばかり、若い兵士たちと何とか話し合おうとしていたようです。
そんな国家存亡の危機にあって、たまたまアメリカに演奏旅行中で帰国を拒否したアンチェルのように、チェコ国外に亡命できた人はどれくらいいたのかは資料を持っていないので分かりませんが、決して多数とは言えないのだろうと思います。多くの「中の人」たちは、ブラニークという名前の山に眠っているフス教徒たちの霊が目覚め、自分たちを救いに来てくれることを望みながら、ソ連の衛星国(というより属国)としての位置に甘んじていたのでしょう。
ノイマンもチェコ・フィルも、そんな国家体制の中を「生き延びた」人たちであると同時に、ソ連軍事介入の際に、武器も持たずにソ連の若い兵士たちと「話し合いを!」と叫んだプラハ市民と同じ血の流れる人たちでもあり、亡命することのできない「弱い」人たちだった。彼らの1975年の「わが祖国」の演奏の、むしろ熱い思いを背後に押しとどめた端正な音の一つ一つから、そんなチェコの人たちの心のありようなものが窺い知れるように私は感じています。
そして、彼らの心の奥底に秘められた祖国への強い思いは、前述の「ベルベット革命」で実を結ぶこととなります。有名な話ですが、1989年の民主化運動の際、ノイマンはチェコ・フィルとともに公的な演奏会をすべてキャンセルし、反政府側団体の市民フォーラムの活動を支援するチャリティコンサートで、「わが祖国」をノーギャラで毎日のように演奏しました。また、革命が達成され、民主的な新政府が樹立された際には、新大統領ヴァーツラフ・ハヴェル臨席の下でベートーヴェンの「第9」を演奏し、映像の記録が残っています(コロムビアからCD/DVDが発売、現在は廃盤)。さらに翌年のプラハの春音楽祭でのクーベリックのチェコ・フィルへの招聘も、ノイマンの多大な尽力により実現したのだそうです。1968年に完全に潰えてしまったかに思われた自由への夢が、幾多の困難を乗り越えてついに現実のものになったという喜びは、どれほどのものだったことでしょうか。
そんな風に「その後」の歴史を歩んだノイマンとチェコ・フィルの演奏を前にして、私は考えずにはいられません。「愛国心」と言ってもその表現の仕方は人それぞれなのであること、そもそも「愛国心」というもの自体も人それぞれであるということです。つまり、ずっとチェコの「外の人」として過ごしていたクーベリックが1990年の「プラハの春」や翌年の来日公演で聴かせてくれたものも「愛国心」なら、もはや存在しない国家体制の「中の人」だったノイマンの「わが祖国」から聴き取れるものも間違いなく「愛国心」であるということ。そして、亡命しようと思えばできたはずなのに敢えて祖国を離れなかった音楽家たち、心根には反体制的な思想を持ちつつも、結局は祖国の聴衆を必要とし、生涯離れることができなかった「中の人」たちが、愛する人たちのために心を込めて奏でていた音楽は、今の耳で聴けば野暮ったくて地味かもしれませんが、たしかな「愛国心」を内に深く秘めたものであって、チェコの聴衆にとっても、個人個人の様々な思いを包みこんでくれる、大切な心の糧であったに違いない、ということ。
であるならば、多様な「愛国心」に触れ、それらを発した人たちの思いを、ただ「外の人」として傍観者的に見るだけでなく、たとえその国家体制に批判的であったとしても、まずはそこで生きていた「中の人」の気持ちに一度寄り添ってみなければ、21世紀の聴き手はこのノイマンの演奏の良さを自分のものとして感じ取ることはできないのではないかと思います。歴史というのは、常に複眼的な視点から多角的に捉えることで、ようやく本質が見えてくるものであると、この演奏が身をもって私に教えてくれるような気がします。
このように、ノイマンの「わが祖国」は、LPで初めて聴いてから40年を経た今もなお、私に多くのことを語りかけ、問いかけてくれます。だからこそ、今も私の愛聴盤であり続けているのだろうと思います。ただ音楽として優れているという以上に、ある時代を、誠実に、そして最善を尽くして生き抜いた人たちの記録であるからこそ、長く繰り返して聴く価値のある音楽となっているのだろうと演奏を聴くたびに思います。ライヴで音楽との一期一会の出会いに心を躍らせる楽しみだけでなく、音盤に記録された音楽と何度もじっくり向き合い、自分の音楽体験をより深めていくという楽しみもまた、私にとっては生きていく上で欠かせない糧です。これからも、ノイマンとチェコ・フィルの「わが祖国」のディスクから、豊かなものをつかみとっていきたいと思います。
私は、ノイマンとチェコ・フィルの実演を、幸運にも2回、神戸で聴くことができました。1976年に「モルダウ」と「第9」(コロムビアから出ている同曲の東京ライヴの3週間前)、1982年に「悲愴」など(前述のブレジネフ死去の3日後)で、前者は私が生まれて初めて聴いた外来オーケストラの実演でした。残念ながら、この黄金コンビの「わが祖国」全曲は聴けませんでしたし、その後も何度も来日していたのに一度も聴きに行きませんでした。今思えば、もったいないことをしたと後悔していますが、せめて彼らが遺してくれた音盤を聴き、その偉大な業績を偲びたいと思います。来年2015年は、ノイマンの没後20年、「わが祖国」のLP発売40年のアニバーサリーイヤーですから、コロムビアでも是非、ノイマンの再評価につながる企画を期待したいところです。
最後に、余談になりますが、ノイマンが1964~68年に活動の拠点としていたドイツのライプツィヒには、「ヴァーツラフ・ノイマン通り」というのがあるのだそうです。彼が亡くなった6年後の2001年に作られたものだそうで、東ドイツの民主化運動の中心となったライプツィヒで、ノイマンが今もなお愛されていると知り、なぜか嬉しかったりします。
また、もう一つ余談ですが、「ヴァーツラフ・ノイマン」と命名された小惑星もあります。これもノイマンの死後、1999年にチェコの天文台が発見したもので、木星の公転軌道に内接しているものなのだとか。
天の星になったノイマンは、今のウクライナの情勢などをどんな風に見ているのでしょうか。ちょっと聞いてみたい気がします。そして、いろいろな国の、いろいろな「中の人」たちの愛国心が、民主的なプロセスを経て平和的に共存できる日が早く来ますようにと「星に願いを」かけつつ、数日後に迫った「プラハの春音楽祭2014」の開幕に合わせ、ノイマンとチェコ・フィルの遺してくれた「わが祖国」を再びじっくりと聴きたいと思います。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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