音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.15

クラシックメールマガジン 2014年7月付

~私の好きな歌 ~ さとうきび畑 鮫島有美子(ソプラノ)~

時の経つのは早いもので、本連載を開始してから1年余りが経ちました。読者の皆様のご愛顧に、心より御礼申し上げます。

ところで、私はここで一体「何」を書いているのでしょうか?タイトルに「ディスク案内」を謳っているのでコロムビアのディスクの紹介をしているのは間違いないのですが、「評論」ではなく「読みもの」であるのは自明として、「コラム」と「エッセイ」のどちらなのでしょうか?
コラムニストの小田嶋隆氏の定義に従えば、前者が、対象に対していろいろな距離をとって職人的に文章を書ける人の手によるもの、後者が、主人公が私の自分語りで、女優の片手間的な位置づけにあるものなのだそうですから、自分語りであるという点でエッセイに近いものだと思います。いや、もしかすると、同じ小田嶋氏の言葉を借りれば、感情に流れて何かになりきれなかった言葉に溢れているという意味で、エッセイになり損ねた「ポエム」であると言った方が正確なのかもしれません。

私の文章がエッセイであれポエムであれ、一介のファンでしかない私が、音楽について書けることと言えば、突き詰めてしまえば「私と音楽の関わり」でしかありません。私が読者に対して責任を持てるのは、音盤に収められた音楽の音楽的、歴史的な価値、演奏の優劣などの「評価」の正しさではなく、私という聴き手が音楽を聴いて何を感じたか、私の書いたことに嘘偽りがないかどうかということ、ただそれだけだからです。
「私と音楽の関わり」とはどんなものかを言葉にするのはとても難しいのですが、何か特別な濃密な音楽体験をした時、それを強烈に、しかも一瞬にして実感することがあります。感動だとか、名曲名演だとか、そんな言葉を思い起こす暇もないほどにただただ打ちのめされるような深い音楽体験。ファンの方ならば誰でも一度はそんな強烈な経験をなさっているのではないでしょうか。
私の場合、4年前に母が亡くなった1週間後、母が愛した音楽を聴いた時、まさに「私と音楽の関わり」が何であるのか、私にとって音楽とは何なのかを痛烈に実感する体験をしました。その音楽とは、コロムビアの看板アーティストの一人、鮫島有美子さんの歌う「さとうきび畑」です。
ちょうどその時に書いたブログの文章があります。今の私には体験の切実さを表現できないので、私的なものなのでお恥ずかしいのですが敢えて全文を引用します。

私の好きな歌(4) ~ さとうきび畑 鮫島有美子(S)

かつて森山良子さんが歌って大ヒットした「さとうきび畑」は、私の好きな歌、というよりも私の母が好きな歌と言うべきかもしれません。
母がこの曲を知ったのは、「みんなのうた」で森山良子さんが再びこの曲をヒットさせた1997年のことでした。毎晩聴いていたAMの名物番組「ラジオ深夜便」で、鮫島有美子さんが歌う「さとうきび畑」を聴き、それはいたく感動したのだそうです。何であれ一度気に入ると、とことん好きになる母は、私がCDからダビングした鮫島さんのアルバム「夜明けの歌」のカセットを、毎日毎日それこそテープが切れるまで聴いていました。
どうしてそんなに好きになったのかと聞くと、沖縄での凄絶な地上戦の悲劇を、淡々とした語り口で綴る歌詞が好きだったのと、素人でも歌いやすいシンプルで穏やかなメロディーが気に入ったからなのだと言っていました。そして、物心つく前に父親を戦争で亡くしたこの歌の主人公と母とは同世代の女性であり、母自身も6歳の時に父親(私の祖父)を亡くし、父親の記憶がほとんどないことに共感したとも。
鮫島さんの歌う「さとうきび畑」を知ったのと時を同じくして、母は、定期健診で癌が見つかり、治療のために入院しました。その時も愛用のラジカセを病院に持ち込み、毎日のように鮫島さんの歌、とりわけ「さとうきび畑」に勇気づけられながら、辛い抗がん剤治療や放射線治療に耐えていました。
半年近い入院生活の後に退院してからも、母は毎日のようにこの「さとうきび畑」を聴いていました。私が実家に帰省して泊まると、母は寝る前には日課のようにして鮫島さんのテープを聴き、私自身も耳にタコができるくらいでしたが、抗がん剤の副作用で頭髪のまったくなくなってしまった母がテープを子守歌のようにして聴いているのを見ていると、母がこの歌を一体どんな気持ちで聴き、何を考えているのだろうと、とても切なくて胸が痛くなる思いがしました。
それからほぼ12年、母は癌の治療を継続しながら、医者からも「奇跡」と言われるくらいに元気に生活してきました。昨年から生活全般で介護が必要になり、長年住み慣れた神戸を離れて私の自宅近くの老人ホームに入居した後も、医療・介護ケアを受けながら何とか日常生活には支障ない程度には癌と共存できていました。
しかし、その母も、先週、癌の再発・転移のために亡くなりました。私はその最期を看取ることはできませんでしたが、眠っている間に、苦しむことなく安らかに息を引き取りました。早朝、電話で報せを受け、施設にかけつけた時には、母は、まるでただ眠っているだけのような、声をかければ答えてくれそうな穏やかな顔で横たわっていました。組まれた手にはまだぬくもりがありました。その何時間か前に「また明日も来るね」と握ったその手のぬくもりそのままでした。
それから一週間余りが経ち、身内だけで密葬を終え、いろいろな手続きもひと段落して、今日は、「母の好きな歌」ではなくて、「母の好きだった歌」になってしまった「さとうきび畑」を聴きました。もちろん、鮫島有美子さんの歌です。
母の遺影を前に、鮫島さんの歌う「さとうきび畑」を聴いていると、胸をかきむしられるような強い強い思いがこみあげてきました。そして、聴く前からきっとそうなるだろうと予想していましたが、10分間にもわたって同じメロディが繰り返される間、案の定、涙が止まりませんでした。
その私の思いを、ごく一般的な意味で「感動」と呼んで良いとは思えません。一体、この曲のどこが良いのか、鮫島さんの歌の何が胸を打つのかなど、私にはまったく見当もつきません。しかも、沖縄に行ったこともない私には、さとうきび畑のイメージも湧かない。そして、これは意外なのですが、12年前に母がこの曲を愛聴していた頃のことも、ここしばらくの母との具体的な思い出もなぜか浮かんでこない。
ただあるのは、母への思いだけなのです。言葉にはできない、たくさんの感情が入り混じった強い思い。どれだけ言葉を費やしてもきっと表現できない母への思い。微笑む母の写真を見ながら、自分の心に湧き起る思いの強さに圧倒され、持て余してしまいます。
そんな時、この歌の「ざわわ ざわわ ざわわ」という言葉が、まるで私の心を優しい手つきで愛撫してくれているように思えます。特に「ざ」という濁音を聴くと、風の音や波の音を想起したり、こぼれた涙が砂浜の砂にしみこんでいく時の響きが心に広がっていくように感じたりして、何となく悲しい気持ちが和らぎ、救われるような気がするのです。

勿論、それは母が他界した今の私だけの感覚なのでしょう。でも、私は、これから鮫島さんの「さとうきび畑」を聴く時は、きっとこの感覚をリアルに感じながら聴くことでしょう。そして、私の母への思いは、「さとうきび畑」と分かちがたく結び付けられるのでしょう。
この歌の結びは、明るい曲調の割にはとても哀しい詞になっています。
ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる

風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない

「さとうきび畑」より 作詞/作曲:寺島尚彦
愛する人を永遠に喪った悲しみは、どんなに時間が経っても消えることはないのでしょう。時には悲しみに耐えかねて、「悲しみの歌を海に返してほしい」と風に願うこともあるのかもしれません。でも、この今の私の悲しみが、母がこよなく愛したこの歌の中で、こんなにシンプルな言葉で、鮮烈に表現されているのを知っているのは、せめてもの救いです。
音楽を聴くというのは、ただ音を聴くという行為だけなのではなくて、こうして「体験する」あるいは「共に生きる」ものであるということを、「さとうきび畑」を通して教えてもらったような気がします。

明日から忌引き明けで仕事に復帰しますが、今日、音楽を聴いて思い切り泣けて良かったと思います。音楽が私のそばにあることに、心から感謝します。

母が亡くなって4年以上経った今、改めて読んでみると、言葉や表現が強い思いに追いつけていないポエムなのだと実感すると同時に、結局、母も私もこの鮫島さんの「さとうきび畑」の音楽そのものではなく、それにまつわる「自分の物語」に感動しているだけなのではないか?と自問せずにはいられません。
きっとそうなのでしょう。しかし、私にとって、音楽とは、それを聴いている時の自分とは絶対に切り離すことのできないものです。一つ一つの音の振る舞いに胸を躍らせ、音と音のつながりに心を奪われた時の感覚をそのまま保存し続けるのはとても難しいですが、その音楽を聴いて感じたこと、考えたことは、それが深いものであればあるほど、痛切なものであればあるほど、自分の体や心に深く刻み込まれる。だから、いつまでも忘れないし、忘れられない。
私が母が亡くなった直後に聴いた鮫島さんの「さとうきび畑」について言えば、一時期何度も繰り返して聴いた音ですから、その日に聴いた鮫島さんの声がどうとか、歌い方がどうという点については何の記憶も残っていません。それよりも、母との具体的な思い出などはまったく頭に浮かばず、ただ持て余してしまうような強烈な感情に圧倒されたということ、そして、「音楽を聴くというのは、ただ音を聴くという行為だけなのではなくて、こうして『体験する』あるいは『共に生きる』ものであるということを、『さとうきび畑』を通して教えてもらった」という感覚は、あの日と同じものとして蘇ってきます。音楽を聴いた体験が、まさに私の中に刻み込まれているのです。
私の母も同じだっただろうと思います。鮫島さんの歌う「さとうきび畑」を聴いていると、深夜ラジオで初めて聴いた時に得た感情の高揚を思い出し、抗がん剤治療の辛さや将来への不安と何とか折り合いをつけ、明日を生きる希望を得ていたのでしょう。母は特に熱心な音楽ファンではありませんでしたが、母は純粋に音楽を愛していたのだし、音楽は生きる糧として常にそばにあり、音楽と能動的に関わり合ったのだと言いたい。
私は母のそんな音楽への素朴な愛情に心の底から共感しますし、あの日、鮫島さんの「さとうきび畑」を聴いた時の私の音楽との向き合い方にも、自分で言うのは変なのですが共感します。母が明日を生きていくために鮫島有美子さんの「さとうきび畑」を聴き続けていた純粋な「私と音楽との関わり」を、そして、あの日、言葉にもならない母への思いに圧倒されながら聴いた「さとうきび畑」のことをいつまでも忘れないようにしたいと思います。
私語りが過ぎました。ここは「ディスク案内」ですので、肝心の鮫島さんの歌について触れておきます。
生前の母は、「さとうきび畑」は鮫島さんの歌でないと聴けないと言っていました。淡々としていて、聴いていて感情移入しやすいからだということでしたが、母の意見に私は全面的に賛成です。一つ一つの言葉に思いを込めすぎることもなく、かといって冷淡になることもなく、曲のもつ原風景ともいうべきイメージの中に、歌い手自身が完全に溶け込んでしまったような歌。だからこそ、あの「ざわわ ざわわ」という特徴的な擬音をきっかけに、聴き手自身が自分の中に自由なイメージを広げることができる。だからこそ、この曲の最も奥深くに秘められたもの、つまり、かつてそこでおこなわれた凄絶な戦いと、多くの人たちの悲しみ、歌の主人公が会うことのできなかった亡き父への思慕といった様々な情景や感情へと、聴き手としての私がそのまますっと入り込んでいける。それこそがこの「さとうきび畑」という歌のもつ力だし、鮫島さん以上にそれを強く感じさせてくれる人は誰もいない、と思います。
現在、鮫島さんの「さとうきび畑」は、「鮫島有美子がうたう 日本のうた・世界のうた100」と題された5枚組BOX(DVD付)で聴くことができるのですが、肝心のオリジナルアルバム「夜明けのうた」は何ということか廃盤になっているようです。昭和40~50年代の質の高い歌謡曲を中心に編まれた素敵なアルバム(特に五輪真弓の「恋人よ」は胸を締め付けられるような歌です)は、特に「さとうきび畑」を聴いたことのない若いファンがいつでも容易に購入できるようにして頂きたいという希望を強く述べ、長いポエムを閉じることにします。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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