音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.18

クラシックメールマガジン 2014年10月付

~サウダーヂの正体~

朴葵姫(パク・キュヒ)のニューアルバム「サウダーヂ」が発売されました。発売以来、上々の売れ行きとのこと、既にお聴きになった方も多いのではないでしょうか。そして、聴く人それぞれの方法で、この魅力的なアルバムを楽しんでおられることと思います。
私にとってはまさに待望のアルバムでした。偏愛してやまないエグベルト・ジスモンチの「水とワイン」が収録されることが予告されていたからです。
「水とワイン」は、時折ピアノで遊んで弾いて(作曲者ジスモンチの「アルマ」というアルバムにピアノ譜がついている)悦に入ってしまうくらいに好きな曲なのですが、朴の前作「最後のトレモロ」でブローウェルの「11月のある日」の素晴らしい演奏を聴き、ああ、彼女なら「水とワイン」をどんなに美しく弾いてくれるだろうかと想像していたのです。淡々としすぎても、感情移入しすぎても、その音楽の一番美しい部分が壊れてしまう、そんな繊細さをもった音楽を、彼女の「レガーティッシモ(彼女の師である福田進一氏の言葉)」で聴けたらどんなに幸せだろうかと。
ですから、CDを最初に聴く時、「水とワイン」から聴こうか、それとも、アルバムを最初から順番に全部聴こうか、かなり真剣に悩みました。さしずめ「ショートケーキの苺はいつ食べるか」など、自分の好きな食べ物をどう食べるかという問いに直面したような気分。
例えば、「水とワイン」という楽曲を苺だとして、アルバム全体をショートケーキだと仮定します。私はショートケーキは大好物なのだけれど、苺もたまらなく好き。パティシエの人は「ケーキは上から下までの層を一口で味わってほしい」という願いを込めてケーキを作るし、実際にそうやって食べる。「通」と呼ばれる人たちも当然のように同じ食べ方をする。それと同様に、「サウダーヂ」の制作者は恐らくトータルのアルバムとして聴いてほしいだろうから、アルバム全体を聴くべきかもしれない。
でも、その一方で、好きな食べ物は自分の好きなように食べればいいし、音楽も自分の好きなように聴けばいいという考え方も可能です。苺がたまらなく好きなら、ちょっとクリームのついた苺をケーキから分け、最初か最後に苺だけを味わうようにしてケーキを食べたっていい。ならば、好きでたまらない「水とワイン」だけをまず取り出して聴いてから全体を聴いても、スキップして最後に聴いても構わないじゃないか。
たかが一枚のアルバムを聴くくらいで何を悩んでいるのかと笑われてしまうかもしれませんが、私にとっては実に哲学的で深遠な問題でした。
さあどうしよう。どう聴けばいいのか。頭が混乱してショートしそうになった時、改めてアルバムの曲目を見直してみました。すると、「水とワイン」以外にも私の好きな曲が多く入っていることに改めて気づきました。3曲収録されているジスモンチも、4曲が取り上げられているヴィラ=ロボスも、私の大好きな作曲家ですし、先月取り上げた濱口祐自も演奏していたボンファの「黒いオルフェ」もある。それにアルバム最後はカルロス・ジョビンの「デサフィナード」。これも私の大好きな曲。ペルナンブーコの2曲も私にはネットラジオOttavaを通してなじみ深い。それに、何と言っても私は朴葵姫のファンで、彼女の演奏を聴くことを第一の目的としているのですから、四の五の言わずにアルバム全体を味わうことにしました。長い逡巡の末に。
アルバム1曲目のジスモンチの「パリャーソ」冒頭の、ひそやかで繊細な音からして、すっかり引き込まれてしまいました。ゆりかごを揺らしながら歌う子守歌(実際、ジスモンチが子供のために書いた曲だそうです)とか、寄せては返す静かな波とか、そよ風に揺れるハンモックとか、そんなものをイメージさせる心地良い6拍子のリズムに乗って、何と優しく、何といたわりにみちた歌が聴こえてくることでしょうか。時折聴こえる少し感傷的なハーモニーが胸に響く。とても魅力的なアルバムの幕開け。
2曲目は、お目当ての「水とワイン」。朴葵姫の最大の武器である極上のカンタービレが聴けたのは確かに期待通りなのですが、しかし、これほどまでに胸に響く演奏が聴けるとは正直思っていませんでした。
フレーズごとに微妙にリズムを揺らしながら、濃厚な表現を聴かせてくれる自作自演のピアノ版と違って、朴の弾く「水とワイン」は淡々と進む音楽で、何一つ変わったことはやっていないようにも聴こえます。しかし、彼女の奏でる音色のグラデーションがぐっと深まったせいか、この曲のもつ切ない息遣いや打ち震えるような鼓動、哀しげで何かに憧れずにいられないようなまなざしが、ごく自然なものとして表現されていることは容易に聴き取れます。ああ、よくぞこの曲を録音してくれたと感謝したくなるくらいに素晴らしい演奏。
と、この調子ですべての曲についての感想を事細かに書く訳にはいきませんが、そくそくと胸に迫るような哀しげな調子をもった曲であれ、浮き立つようなリズムの楽しい曲であれ、熱すぎず、冷たすぎず、激しすぎず、静かすぎず、ちょうどよい塩梅の音楽を聴くことができます。夜、一日の疲れを癒すために聴くもよし、昼下がりに気分をリフレッシュするために聴くもよし、あるいは移動中のBGMに聴くもよし、いつどこで聴いても、私の心をやわらかくしてくれます。
そんな彼女の演奏の魅力の源泉は何なのか、コロムビアのHPにUPされている動画で彼女の演奏姿を見て考えてみました。しかし、彼女は拍子抜けするほどに、自然に、そしてまったくもって涼しい顔をしてギターを弾いている。一体、このどこに秘密があるのかは正直よく分かりませんでした。ただ、左手の動きが実に滑らかで、弦にぴったり吸い付いていることに目を瞠ってしまいました。これが誰よりも弦をスライドする際のノイズの少ない音の秘密であり、あの美しいレガートを可能にしているのかもしれません。
以前、彼女がテレビに出演した時に言っていましたが、彼女が演奏する上で最も注意をしているのは、弦を押さえるために硬さが必要な指先以外は、完全に力が抜けるようにすることなのだそうです。レガートやカンタービレを作るには不向きなギターを使いこなすための高い技術を、自分のものとして完全に消化し、しなやかに楽器に触れることができるからこそ、彼女はギターという楽器に従属することなく、自らの内面にある音楽を、なめらかな手触りをもつ極上の「歌」として直接聴き手に伝えることができるのでしょう。
彼女が聴かせてくれる「歌」からは、私は、人間のぬくもり、体温が感じます。心地良い「人肌のぬくもり」を感じさせる音楽。作曲者の心の動き、演奏者の息遣いに接しているうち、あたかも目の前に親しい人がいて、握手したり、抱き合ったりして、お互いの親愛の情を確かめたくなる。そう考えてみると、このアルバムのタイトルである「サウダーヂ」というポルトガル語は、日本語では「郷愁」と訳されることが多いものの、本当はぴったりくる訳語が存在しないそうなのですが、日本語では「人肌恋しさ」という言葉に訳すことも可能なのでは?と思えます。
「人肌恋しい」という言葉は秋の季語のようにして使われる言葉ですが、普遍的な人間の感情を表した言葉です。人間は他者の存在なくして生きてはいけない生き物ですから、他者との関わりを常に求めている。しかし、他者と自分とは完全に同じになることもできませんし、いつもそばにかけがえのない他者がいるとも限らない。だから、他者を求め、憧れる。以前読んだ本に、他者への憧れというのは「到達できないにも関わらず自分が他者の方に無限に近づこうとする運動」なのだと書いてありましたが、その人間の心の運動は「人肌恋しさ」へとまっすぐにつながる。届かないからこそ思いは深まる。「人肌恋しさ」こそが「サウダーヂ」という言葉の正体なのではないかと思うのです。
何だか大袈裟な話になってきましたが、朴葵姫の弾くブラジル音楽からは、そんな風に人間の根源的な感情について思いを馳せずにいられないほどに、深くてあたたかい「力」を感じます。自らの内にある他者への憧れをはっきり自覚した人たちが増え、皆が、性別も、年齢も、国籍も何もかも超越して、互いに無限に近づきたいと祈り、人肌のあたたかさに触れた喜びを分かち合うことができたなら、この世の中はどんなに素晴らしいものになるでしょうか。
というようなことを考えながら、朴葵姫の「サウダーヂ」を聴くのが、今の私の最高の楽しみの一つです。朴さんや制作者の方々の思いとは全くそぐわない聴き方かもしれませんし、一般的・平均的な楽しみ方だとも思っていません。しかし、彼女の演奏が、私たち聴き手のイメージをどんどん広げ、豊かにしてくれるものだという点については、多くの方の賛同を得られるのではないかとひそかに確信しています。
これからも、朴さんが私たちの「サウダーヂ」を刺激するような魅力的な音楽を聴かせて下さることを、心から期待しています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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