ある日、CDショップで、何気なく、ふと手にした音盤。ジャケットのイラストは、夕陽の射し込む、誰もいなくなった放課後の教室。黒板には「合唱コン ぜったい優勝!!朝レン来ること!」の文字と、その左下に相合傘の落書き。オビにはこんなコピーが。
みんなで、放課後の教室で練習したね。
いつも指揮者だったボク、ピアノ伴奏だった私。
男子が歌ってくれなくて、女子はいつもしかめっ面。
まとまらなくて大変だったけど、最後はみんな頑張ったよね!
…誰の心にもある、懐かしい青春の1ページ。
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苦笑しつつ、ぽっと頬を赤らめずにいられないポエムチックな言葉に射抜かれ、気がついたらCDを片手にレジに並んでいました。いや、よくある「衝動買い」なのですが。
購入したCDのタイトルは「あの日教室で歌った 思い出の合唱曲」。収録曲は「あの素晴らしい愛をもう一度」「翼をください」「ふれあい」「太陽がくれた季節」「気球に乗ってどこまでも」「野生の馬」「山のいぶき」「大地讃頌」「河口(組曲「筑後川」)」「エトピリカ」など、70~80年代に学生時代を過ごしたアラフォー、アラフィフの人たちにとっては涙が出そうなくらいに懐かしい曲ばかり。収められているのは、主にプロの団体による「模範演奏」(録音は80年代が主体)。
私は、これまでこの種のCDは買ったことがありませんでした。小中学校の頃に「習った」「歌った」曲を、改めて聴こうとは思わないからです。嫌な思い出がこびりついているから二度と聴きたくないという訳ではありません。学校で歌う曲は、基本的に「歌わされる」曲であって、自分の楽しみとして能動的に聴く曲などではないという先入観が根底にあるのかもしれません。
では、どうして私が「思い出の合唱曲」を購入したかというと、前述の通り、CDのオビのとてもベタな宣伝文句と、何らかの形で歌った経験があるものばかりという、これまたベタな選曲にノスタルジーを激しく掻き立てられたからですが、つい先日、長女の通う中学校のクラス対抗合唱コンクールを聴いたところで、気持ちが盛り上がっていたというのも購入理由の一つです。ちょうど音楽会シーズンで、ショップでも需要があるという判断の下、店員さんが見えやすいところにこのCDを置いたのでしょう。要するに、レコード会社とCDショップの「戦略」にまんまと引っかかってしまったという訳です。流行の言葉を使えば、「おっさんホイホイ」ですね。
ほとんどがよく知っている曲なのに、一体どんな音楽が聴けるのかまったく想像もできないという不思議な状況で「思い出の合唱曲」を聴いてみましたが、これがとても面白かった。
何が面白かったと言って、ジャケットや選曲で、あれだけノスタルジーを刺激されたディスクでありながら、聴いていて全然懐かしくなくて、まったく知らない曲を聴いているみたいに新鮮な気持ちで聴きたことが驚きでした。自分の小中学生の頃のことを思い出すこともほとんどなかったし、中村雅俊や村野武憲の演じた熱血高校教師の姿も、トワエモワや赤い鳥、加藤和彦らの歌声も脳裡に浮かびませんでした。
なぜだろうかと考えてみたら、理由は一つ。収められた歌唱がどれも「うまい」からです。
プロによる模範演奏なのですから、発声もしっかりしているし、一つ一つのことばの表現もいちいち納得のいくもので、真面目できれいな歌。本当にうまい。一方で、私の子供の頃の記憶の彼方にあるこれらの歌は、鑑賞に堪えない素人の歌です。特に、中学生の合唱コンクールで歌った曲は、思春期の男子特有の羞恥心が滲み出た、中途半端に低い歌声と共に記憶に残っています。ですから、全般的に、私がかつて歌った曲は「ああ、これって本当はこういう曲だったのか」という驚きをもって聴き、昔のヒット曲は完全に新しいアレンジものとして聴くことができました。
ノスタルジーに浸ることなく、白紙に近い状態でじっくり聴いてみると、どれも独特の魅力を持った曲ばかりであることに気づかされます。特に、私が子供の頃から大好きだった「翼をください」には改めて惹かれました。少し前、若手のライターが、ツイッターで、昔、学校で歌わされた音楽は醜悪で大嫌いだと、この曲を実例に挙げて呟いていて話題になりましたが、私はその意見にまったく賛同できません。確かに歌詞には時代を感じさせるところがあるかもしれませんが、巾の広い跳躍の使い方がとりわけ魅力的な旋律には、歌う人自身の気持ちを高揚させ、聴く人の心に訴えかけてくる強い力があると思います。オリジナルの「赤い鳥」の山本潤子さんの歌も、最近ヒットしたヘイリーのカバーも良いのですが、こうしてレベルの高い合唱で聴くと、ハーモニーを作る喜びや一体感がストレートに伝わってきて心地良い。以前、この曲を幼稚園で習っていた二女が「ここの部分歌ってると、ツブツブができる(=鳥肌が立つ)の」と言うので、ああ、私も子供の頃そうだったよと深く頷き合ったのを思い出しました
その他、いかにも70年代の青春ドラマの主題歌としか言いようのない「太陽がくれた季節」「ふれあい」、札幌オリンピックのテーマ曲となった「虹と雪のバラード」も掛け値なしの名曲だと思いますが、それ以上に、教科書で合唱の教材として載っているような「真面目な」曲が強く印象に残りました。
かつて私も合唱コンクールで取り組んだ「山のいぶき」の流れるような美しい旋律、手拍子を交えて歌われる「気球に乗ってどこまでも」の弾むようなリズムの楽しさ、コンクールの定番である「エトピリカ」「河口」「大地讃頌」の圧倒的な高揚。これらは、聴く者を魅了せずにはいられない親しみやすい旋律と、ドラマチックな構成をもった本格的な音楽であり、鑑賞するための音楽としても十分に魅力のあるものだということを痛感しました。何と言っても、広瀬量平(「エトピリカ」)、團伊玖磨(「河口」「)、岩河三郎(「野生の馬」「巣立ちの歌」)、平吉毅州(「気球に乗ってどこまでも」「若い翼は」 )と、日本を代表する錚々たる作曲家たちが書いたのですから、当然のことかもしれません。また、「ともしびを高くかかげて」は、あの冨田勲さんの曲で、歌詞は先日亡くなった岩谷時子さん。これがまた冨田さんらしいユニークな味わいのある曲で、聴いていて楽しい。
こんなにも素晴らしい曲がたくさんあって、いつでも聴ける状況にあるというのに、私たち大人は、どうして学校で歌った曲を聴かなくなってしまうのでしょうか。CDで聴くことも、クラシックの演奏会で聴くことも皆無、せいぜい子供の学校の音楽会や、アマチュア合唱団の演奏会で聴くことがあるかも、というくらいでしょうか。
それが良いことなのか悪いことなのかは一概には言えませんが、私は残念に思います。こうした曲たちが、いろいろな世代の人たちを「つなげる」ものでもあるように思えるからです。
前述のように、少し前に長女の中学校の合唱コンクールを聴いたのですが、このCDにも収められている「野生の馬」「怪獣のバラード」が歌われていましたし、これまでにも「エトピリカ」「山のいぶき」「大地讃頌」を聴いたことがあります。また、二女の通う小学校の音楽会でも、いつだったか「気球に乗ってどこまでも」を歌う小学生たちを見ました。勿論、ほとんどの曲が音楽の教科書に載っている。つまり、私たち大人がかつて学校で歌ったり習ったりした音楽は、今も教材として使われていて、子供達が歌っているのです。
昨日も、原稿を書くためにこのCDを聴き直していると、家族が興味深げに近寄ってきました。二人の娘は「あ、この歌知ってる!」「これ、今授業でやってるよ」と嬉しそうに話し、妻も「私もこの曲のピアノ伴奏やった」と懐かしそうに言い、家族でワイワイとはしゃぎながらCDを聴いて楽しみました。今も続く給食の定番メニュー、例えば揚げパンを一緒に食べて学校談義に花が咲くというのと似た状況と言って良いかもしれません。
思うのですが、「思い出の合唱曲」のようなCDがもっと聴かれれば、家庭で、学校で、地域で、親世代と子世代が、それぞれの体験を通して、音楽について実感を込めて話し合う機会が増えるんじゃないでしょうか?それは余りにも楽天的な考えでしょうか?とても楽しいことだと思うのですけれど。
「思い出の合唱曲」には、「流浪の民」以外にも、スメタナの「モルダウ」、ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」という、押しも押されぬクラシックの王道の名曲が収録されています。前者は例の有名な主題に歌詞をつけたものですが、後者は原曲の演奏が収録されています。
例えば、子供たちが「思い出の合唱曲」のディスクを気に入って愛聴するようなことになれば、「流浪の民」、「モルダウ」、「ハレルヤ・コーラス」を何度も聴いて、これらの曲そのものや作曲家に興味を持つかもしれない。
CDを聴き終わって、家族に改めて感想を聞いてみると、長女が「流浪の民」がかっこいい、ピアノ伴奏を弾いてみたいと言いました。思えば、彼女にとって、シューマンの曲をちゃんと聴くというのは、これが最初の経験だったかもしれません。確かに、仄暗いロマンを帯びた短調の響きには、「かっこいい」という感想はとても似つかわしいものです。もしかすると、「流浪の民」をきっかけにして、娘はシューマンのピアノ曲に興味を持って、「子供の情景」を弾いてみたいと思うかもしれません。
あるいは、「モルダウ」に興味を持つ子供もいるでしょう。そうなれば、クラシック音楽ファンの大人の出番です。スメタナっていう人はね、モルダウ川っていうのはチェコにあってね、というところから関心を広げてやることができれば、子供たちは、いつの日か、クーベリックやノイマンが指揮するチェコ・フィルの「わが祖国」の歴史的名盤に手を伸ばすかもしれない。あるいは、今を時めくチェコの若手指揮者ヤクブ・フルシャが「わが祖国」を振る来日演奏会のチラシを見て、聴きに行きたいと思うかもしれません。
そんなCDを通じてのクラシック音楽との小さな出会いが、次の世代の人たちを、教室からコンサートホールへ、あるいはCDショップの店頭へと導くきっかけになるかもしれない。そう考えると、「思い出の合唱曲」というディスクには、思いもかけないほどに大きな力を秘めているのではないかと思います。
子供に限らず、私自身も、このアルバムからいろいろと刺激を受けました。考えたいこと、想像したいこと、もし私がプロのライターなら取材して本を書いてみたいようなことがいくらでも広がって面白いのです。
どうしてシューマンの「流浪の民」は最近聴かれなくなったのか?團伊玖磨の「筑後川」や広瀬量平の「海鳥の詩」以外の合唱曲にはどんな曲がある?多くの曲で演奏している辻正行指揮クロスロード・ツインズ・ハーモニーってどういう団体?(筆者注:辻氏は日本を代表する合唱指揮者(1932-2003)で、クロスロードは氏が組織したプロの合唱団、クロスロードは「辻」の英語に由来)80年代録音当時の中学生の歌唱が何曲か収められていますが、私と同世代の彼ら彼女らは今、どんな大人になっていて、クラシック音楽ファンになっているだろうか?…等々。
こんな風に、考えたいことが次から次へと出てくるのが楽しくて、つい繰り返して聴いてしまいます。もっとも、最終的には音楽の方を楽しんでしまうので、考えはまったく深まらないのですけれども。とにかく、聴く前にはまったく想像すらしていませんでしたが、この「思い出の合唱曲」は、私にとって、私の音楽との関わりをより深めるような材料を与えてくれる、実に味わい深いアルバムでした。衝動買いした自分の直観を褒めてやりたいくらいです。
この「思い出の合唱曲」のようないわゆる学芸分野の音盤制作や販売は、コロムビアが昔からずっと重要な事業として継続してきたものです。安定した売上を見積もれるという側面もあるで反面、ヒットチャートを賑わすようなこともなければ、レコード芸術で真正面から論評されることもない地味なものですから、我々サラリーマンには耳の痛い「費用対効果」「効率」といった言葉を当てはめてしまうと、正直厳しいビジネスなのではないでしょうか。
しかし、こうした音盤を通じて、子供たちが幅広いジャンルの素晴らしい音楽に出会う機会を、押しつけにならないような形で提供することは、将来、音楽を大切な伴侶として一生愛していくファンが生まれる下地となる可能性がある訳で、長い目で見て、それが必ず豊かな社会を生み出すことにつながると信じています。その意味で、こうしたコロムビアの取り組みは、とても尊いものだと私は思います。
ですから、コロムビアが、こうした音盤のリリースを継続的におこなってきたことに心から敬意を表するとともに、今後も、幅広い層の音楽への好奇心を掻き立てるような「面白い」CDを作り続けて頂きたいと切に願ってやみません。同時に、一人の聴き手として、自分の愛する音楽、前の世代から大切に受け継いできた音楽を、次の世代につないでいけるように、ますます音楽を大切に愛していきたいと思います。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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