音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.22

クラシックメールマガジン 2015年2月付

~虹色の音 ~ イタリア・オペラ管弦楽・合唱名曲集~

昨年、レスピーギの「ローマ三部作」で鮮烈なCDデビューを果たし、第二作のマーラーの「巨人」と併せて評論家からもファンからも大絶賛を浴びた、イタリアの若手指揮者アンドレア・バッティストーニの通算3作目となるアルバムが発売されました。
今回は、彼が首席客演指揮者を務めるイタリアのジェノヴァにあるカルロ・フェリーチェ歌劇場の座付のオーケストラとコーラスを指揮してのイタリア・オペラの管弦楽・合唱名曲集。ヴェルディ、ロッシーニ、プッチーニ、マスカーニらの代表的な歌劇の序曲・前奏曲や間奏曲、バレエ音楽、そして合唱曲が計10トラック、アリアや重唱のナンバー以外のあらゆるスタイルの名曲がたっぷり70分収録されたもので、いわばイタリア・オペラの「特上盛り合わせ」的なアルバムと言って良いでしょうか。
1月の発売以来、CDショップのランキングでもウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのライヴ盤と熾烈なトップ争いを演じていますし、バッティストーニは二期会で「リゴレット」を指揮するため来日中とあって巷ではかなりの話題盤になっていますから、もうお聴きになった方もたくさんおられることと思います。
私もこのアルバムは発売と同時に購入し、すっかり魅了されて毎日のように聴いていますが、聴くたびに新鮮な驚きと大きな喜びを感じるので、まったく聴き飽きるということがありません。絶好調の野球やサッカーチームが、毎試合違うヒーローを生みながら連勝するかのように、毎日新しい聴きどころが見つかるのです。そのおかげで私のイタリア・オペラ熱が再燃し、手持ちのディスクをいろいろ引っ張り出してきては聴き比べをしてみたり、お気に入りの名歌手の愛聴盤に聴き入ってしまったりして、私の頭の中はすっかりイタオペ・モードになってしまいました。
収録された曲のどれもが本当に素晴らしいのですが、特にご紹介したいのがトラック2に収録されたヴェルディの歌劇「ナブッコ」の有名な合唱曲「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」です。何しろイタリア第二の国歌とまで呼ばれるほどの名曲ですから聴く機会も多く、耳にタコができてしまった音楽と言って良いほどですが、バッティストーニ指揮の演奏は私にとっては大きな驚きでした。
この曲の最後の響きに注目して聴いて頂きたいと思います。バビロニアに囚われたヘブライ人捕虜たちの故郷への思いが、最初はひそやかに、そして徐々に力を増して高らかに謳い上げられた後、次第に静けさの中へと消えていくところ。「主が、おまえ(筆者註:預言者たちの黄金の竪琴)の音色を通して、苦悩に耐える勇気を我らに与えて下さるように(ライナーノート歌詞対訳より 井内百合子訳)」という歌詞の「勇気(徳、力などと訳すこともあります)」に相当する単語"virtù "の最後の母音を、オーケストラの音が消えた後も合唱だけが残ってディミヌエンド(だんだん弱く)していくのですが、この部分がかつて聴いたことがないほどに長いのです。
まったく大袈裟ではなく、永遠に続くかと思うほどの長さです。まだ延ばすのか、まだか、まだか、と驚嘆しながら耳を澄ましているうち、ようやく音がすべて消え去ると、今まで聴こえていたコーラスの混じりけのない透明な響きが残像のように谺(こだま)します。弱音指定にこだわりすぎず、血の通ったあたたかい響きを作ることに魂を傾けた声の記憶から、この合唱曲を歌う(役の上での)ヘブライ人たちの、故郷の懐かしい景色の回想からいつまでも立ち去りたくない、ずっとここにいたい、いや、故郷に帰りたいという、揺れを含みつつ静かな祈りへと収斂していく深い感情が音楽から伝わって来ます。告白すると、初めて聴いた時は、感極まって思わず落涙してしまいました。
前代未聞の表現に遭遇して驚き、慌てて手持ちのいくつかのCDを引っ張り出してきて聴き比べてみました。しかし、トスカニーニ、ムーティ、ショルティのように素っ気ないくらいに短く伸ばして終わらせてしまう指揮者がほとんどで、有名なシノーポリの全曲盤も少し長めという程度。一番長いアバド指揮スカラ座の演奏でさえも、バッティストーニほどには長く伸ばしていません。実際に、弦の最後のピツイカートが鳴ってから合唱だけが最後まで音を伸ばしている時間を測って比べてみると、アバド盤の5秒に対して、バッティストーニ盤は何と11秒(!)でした。
単に時間が物理的に長いのではありません。前述のように、その音に込められた想いが、前述のように祈りの領域に達したような深いものである点でも、他の名演奏をも遥かに凌駕していて、まさに万感胸に迫る音楽になっています。以前、日下紗矢子のCDについてご紹介した際に引用した開高健の「鮮烈な半言半句」という言葉をそのまま当てはめたくなるような表現です。
決して声高に何かを訴えている訳ではないのに、何と雄弁で、何と切実な音楽でしょうか。しかも、強い印象を与える表現をとりながら、それを奇を衒ったものとは一切感じさせず、むしろ心の底から必然として生まれ出たものであるかのように響かせてしまうバッティストーニの冴えた感性と、天与の才能に驚嘆せずにはいられません。
勿論、最後の部分だけが印象的なのではありません。オーケストラとコーラスの、常に豊かな表情を保った柔らかな響きは惚れ惚れするほどに美しく、感情が高まっても決してヒステリックに絶叫することもなく美感を決して損なわないあたり、まさにベルカントの国の人たちの歌です。また、過剰なレガートを排し、時にはっきりと音を切って子音を美しく発音し、一つ一つの言葉の重みを伝える歌には凛とした気品さえ感じます。音楽的にとても優れた演奏であるのは間違いないのではないでしょうか。
とは言え、私はやはり、あのラスト11秒の響きに猛烈に惹かれます。それは、音楽の作り手の「想い」に直接触れる思いがするからです。イタリア語を解しない私にも、音楽の背後から何かがはっきりと伝わってくるようなリアルな感覚があるのです。
私が音楽から受け取ったと感じる「想い」と言っても、それは私の都合の良い妄想なのであって、音楽の本質とは関係のない物語を私の中で作り上げてしまっているだけもしれません。そもそも、このイタリアの音楽家たちは、ただひたすらに目の前にある音楽を、誠実に、美しく響かせることに専心しているに違いありません。しかし、それでもなお、これは言葉では言い表せないほどに深くて強い想いが込められた音楽だという気がしてならないのです。
そのことは「ナブッコ」だけでなく、他の曲すべてについても同じことが言えます。バッティストーニのレパートリーの中心であるヴェルディの音楽は言うまでもなく(特に「マクベス」からの2曲の素晴らしさ!)、軽やかで颯爽とした音の運びが心地良いロッシーニの序曲も、運命に翻弄される登場人物の感情がそのままに表現されたかのような「カヴァレリア・ルスティカーナ」や「マノン・レスコー」の間奏曲も、いずれも人間味あふれる魅力的な音楽になっていて、オペラの登場人物たちの想い、作曲家や演奏家の想いが、まさに黄金の翼に乗って聴き手である私の心へとまっすぐに飛びこんで来ます。その想いが何なのかを具体的に述べることは不可能ですが、それがどれほど強く切実なものかは誰が聴いてもたちどころに感じられるものだと思います。
一体、どうしてこんな音が、どうしてこんな歌が生まれるのでしょうか。
ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ歌劇場と言えば、2010年9月に閉鎖されたというニュースをご記憶の方も多いかもしれません。かねてから経営が悪化していた中、当時のベルルスコーニ政権が文化予算を大幅に削減したダメージもあって事実上破産したのです。しかし、そこはさすがにイタリア。その後、多くの音楽家たち、特にジェノヴァ出身の指揮者ファビオ・ルイージが歌劇場再開のために尽力し、今では毎月のオペラ上演とシンフォニー・コンサート開催が可能な状況にまで再建が進んでいます。HPを見ると音楽監督は不在のようですが、ルイージは今も名誉指揮者の座にあり、バッティストーニが最も関係の深い指揮者として多くのプログラムを担当しています。オペラではヌッチやデッシー、アルバレスなど超一流の歌手が常時出演していますし、オーケストラ・コンサートでも豪華な顔ぶれの音楽家が登場しています。
フェリーチェ劇場の音楽家にしてみれば、辛く苦しい時代をようやく脱して上昇気流に乗っている今、多くのジェノヴァ市民を巻き込みながらオペラハウスを強力なリーダーシップで引っ張る我らが若きマエストロと、演奏会のライヴではなく、わざわざセッションを組んでディスクを録音するのですから、相当な意気込みを持って演奏に臨んだに違いありません。自分たちが愛し誇りとする音楽を世界に届けたい、そして、自分たちの復活を高らかに宣言したい、そんな想いが、これほどまでに雄弁に語りかけてくる演奏を可能にしているのではないでしょうか。
しかし、この人たちの演奏は、たくさんの人たちの深い想いが込められたものでありながら、悲壮感漂う力演・熱演といった類のものにはなっていません。おいしいものを食べ、飲み、しっかり寝て、日の光をたっぷりと浴び、人生を謳歌している人たちから生まれてきたような音楽です。あるいは、他者と無理やり合わせてアンサンブルを外側から作ったのではなく、一人一人が自らの内側にある「想い」を存分に歌い上げていたら、知らず知らずのうちに自然に音楽が出来上がったとでもいうような、どこまでものびやかで、親しげで、純粋な喜びに溢れた音楽です。
誤解を恐れずに言えば、彼らの大先輩であるイタリアの往年の名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニが言った「高邁なる怠惰」という精神の中から生まれてきた音楽なのかもしれません。ただし、言うまでもありませんが、この生き生きとした音楽の裏には、音楽家としての厳しい鍛錬や、粘り強いリハーサルの積み重ねがあるはずで、真のプロフェッショナルである彼らの演奏が、それを聴き手にまったく意識させないだけなのだと思います。
こんなに魅力的な音楽を聴かせてくれるバッティストーニとフェリーチェ歌劇場のことを、もっと知りたいと思いました。ネットで検索してみると、いくつもの動画が投稿されているのを見つけました。
2013年に大評判をとったというグレゴリー・クンデ主演のヴェルディの「オテロ」のリハーサルでの動画(本当に素晴らしい演奏でした!)や、オーケストラ・コンサートのアンコールで演奏された「ラデツキー行進曲」での、客席とあたたかい交流の様子を収めた動画(途中で微笑ましいサプライズがあります!)、彼が結成したB-Sideトリオでチェロを弾きつつコント仕立ての音楽をやって客席から爆笑の渦を巻き起こしている動画(彼のチェロ、巧いです!)などを通して、この音楽家たちがジェノヴァの人たちから本当に愛されていることを知りました。バッティストーニのインタビュー動画も数多く投稿されていますから、きっと彼の話を聞きたいというファンがたくさんいるのでしょう。
芸術家然としてお高く止まることなく、愛する音楽のためなら「何でも屋」になるよ!とばかり、心をこめて演奏し、にこやかに聴衆に語りかけ、縦横無尽に活躍するバッティストーニの姿は、ララララと歌いながら時代を駆け抜ける「セビリアの理髪師」の風雲児フィガロの姿に重なります。
バッティストーニとフェリーチェ歌劇場の音楽家たちの想いに溢れた音は、まさに黄金の翼に乗ってジェノヴァの街を飛び、多くの人たちを幸せにしていると知り、胸が熱くなりました。
勿論、彼らの音は、音盤を通して、遠く離れた日本の私にもちゃんと届いています。そして、聴き手である私の「想い」もまた、彼らの音楽に触れ、翼に乗って羽ばたいていきます。聴くたびごとに私自身の状態が異なり、風向きも違う訳ですから、想いの向かう先も変わっていきます。
例えば、先日のシリアでの哀しい事件があった日にこのアルバムを聴いた時には、トラック9のヴェルディの歌劇「マクベス」のスコットランドの亡命者たちの合唱曲「虐げられた祖国よ!」の中の「親を失った孤児たちの叫び、夫や子を失い嘆き悲しむ者たちの叫びが、新たな夜明けの度に立ち昇り天を揺るがす(井内百合子訳)」という歌詞に触れ、亡くなったジャーナリストが生前撮影した映像に映っていたシリアの普通の市民、特に子供達の姿を思い起こして胸を締め付けられました。ヴェルディのオペラに描かれた世界が(それはシェークスピアが創造したものですが)、21世紀の今もまだ過去のものにはなっていないという現実を前にして愕然としました。
あるいは、何気なくライナーノートを見ながら聴いていた時、このアルバムが昨年の例の騒動のさなかに録音されたものだと知りました。そのことを殊更に意識して聴くのは、音楽を楽しむ上で弊害にしかならないでしょうが、舞台上の音楽家たちの気配さえ感じられるほどに鮮明で、潤いに満ちた響きの美しい録音、今やバッティストーニと言えばこの方と言うべき加藤浩子さんの愛情に溢れたライナーノートに触れ、この音盤が、何があろうと素晴らしい音楽を世に問い続けるのだという制作者の強い「想い」を、丁寧にかたちにしたものなのだということを実感しました。
そんな聴体験を通して、音楽というのは、聴き手を含め、そこに関わる人たちの想いが交差して鳴り響くものなのだという、ごく当たり前のことに改めて気づきました。
CDの盤面に光を当てると光の回折と干渉が起こって虹色に見えますが、それと同じように、音盤を再生すると、そこに関わる人たちの想いの数だけの色でできた「虹」が鳴り響いているのかもしれません。繰り返して聴けば、その時どきの光の当たり具合によって虹の見え方も随分変わり、私たち聴き手は音楽の持っている新たな魅力に気づくこともできるのでしょう。
こよなく愛する曲たちの素晴らしい演奏を聴いて、私だけではなく、この音盤を聴いた多くの方々がバッティストーニとフェリーチェ歌劇場の想いを受け取り、それが聴き手の想いと交差してできる「虹色の音」を楽しみ、幸せを噛みしめておられることと深く確信します。まだこの音に触れたことのない方々には、是非一度は聴いて頂きたいと思います。きっと素晴らしい体験をすることができるはずです。
バッティストーニの次の録音は何になるのでしょうか。フェリーチェ歌劇場との録音はまた実現するのでしょうか。日本で予定されている二期会(リゴレット)や東京フィル(トゥーランドット)とのライヴ収録も含めて、オペラ全曲録音のリリースはあるのでしょうか。たくさんの可能性を秘めた人たちの音楽に、これからも触れることができるよう心から願っています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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