ある日の仕事帰り、職場の最寄駅につながる連絡橋のたもとに、一人の女性が立っていました。スマホを見ているのかと思いましたが、どうやらそうではないらしい。時折目のあたりを手で拭きながら、橋の下の絶え間ない車の流れをじっと見つめているようでした。
既に夜9時を回っていましたが、眠らない街の駅は、まだ宵の口とばかり、うつむき加減に黙々と家路を急ぐ人たちや、次の呑み屋へ繰り出そうと気勢を上げる人たちでごった返していました。少し脇にそれた目立たない場所ではありましたが、賑やかな場所で人目を憚らずにさめざめと泣いていた女性は、一体何があったんでしょうか?仕事先で何か辛いこと、悔しいことがあったのでしょうか?あるいは、ずっと抱えてきたやりきれない思いがこみ上げてきて、ただ涙が流れるのに身を任せていたのでしょうか?
私は、泣いている女性の横を何も気づいていないふりをして通り過ぎながら、「ああ、わかる、わかる」と心の中で思わずつぶやいてしまいました。自分がくぐり抜けてきた「泣きたかった、でも泣けなかった」場面の記憶が次々とよみがえって来て、もらい泣きしそうになりました。
同時に、その時々によく聴いていた音楽の、忘れられない音、既に私の身体の一部になっている音が、一度に脳内再生されて眩暈しそうになりました。裏を返して言えば、私という人間は、それだけ音楽を支えにして生きてきたということなのでしょう。
これまで私を支えてくれた音楽と、それを生みだした音楽家への感謝の念をあたためていると、馴染み深い音盤のジャケットの数々が目に浮かびました。いろいろな形態(LP/CD)、年代、ジャンルの音盤のジャケットの記憶とともに、それを聴いていた頃に私の心を満たしていた思いや、音楽を聴いて得られていたものの記憶が生々しく甦ってきました。
私の人生とは、寺山修司の詩をもじって言えば「泣きたくなったときは 音盤を聴く」なのだなと思いました。「流した涙の数だけ、忘れられない音盤がある」とでも言えば良いでしょうか。
幸か不幸か、最近は、辛いことがあっても泣きたいとまで思うようなことはほとんどなくなりました。歳をとったということなのでしょう。けれども、人間ですから、心がどんよりするような出来事に疲れ果て、負の感情が渦巻いて収拾がつかなくなることは日常的にあります。修行が足りないと言われればそれまでですが、かと言って、すぐに悟りを開けるはずもありませんから、そんな時には「ああ、今日は家に帰ってあれを聴こう」と、心が欲している音盤のことを思い起こすようにしています。服用すべき薬の処方箋を自分で作っているようなものですが、それだけでも何となく元気が出て来る(ような気がする)。
一日の終わり、就寝前に自分だけの時間を見つけ、聴こうと心に決めていた音盤をジャケットから取り出してプレーヤーのターンテーブルに載せ、再生ボタンを押し、流れてくる音楽にどっぷりと身を浸す。毎回同じ効果が得られるとは限りませんが、心が欲していた音楽の響きが私の心に力を与えてくれる。
こうやって書くと、ルーティン化した所作をとって自己暗示をかけているだけのようにも思えます。しかし、心が求めている音盤を聴く時の喜びの深さ、そして効能の大きさは、私同様、あるいはそれ以上に音盤を聴くことを心から愛しておられる方なら、よくご存知なのではないでしょうか。
私が最近聴いた音盤で、最も大きな「喜び」と「効能」を得られたのは、ヴァイオリニストの加藤知子が、江口玲のピアノと共演して録音したエルガーのヴァイオリン曲集「朝の歌」です。タイトル曲や「愛の挨拶」「ため息」「気まぐれ女」「夜の歌」などのよく知られた小品と、ヴァイオリン・ソナタを収めた1997年11月録音のアルバムで、今はクレストシリーズから発売されているものです。加藤知子のバッハやイザイの無伴奏作品の記念碑的な録音と並び、この名ヴァイオリニストの代表盤としてよく知られた名盤ですが、私は最近になって初めて聴きました。
アルバムをプレーヤーにセットして再生スイッチを押すと、まず「夜の歌」のピアノの和音の柔らかくひそやかな連打による前奏に導かれ、ヴァイオリンが奏でる低い音域のゆったりとした旋律が流れてきます。
しみじみと心に沁みてくる音楽です。平易で親しげな表情をもった音楽の冒頭、ほんの数小節の一瞬のことで、ただ素っ気なく弾いているという風情の音楽にしか聴こえないかもしれませんが、加藤のヴァイオリンの節約された簡潔な音の動きからは、何と豊かなニュアンスが伝わってくることでしょうか。
表面的には人懐っこい表情を持った音楽でありながら、エルガーという作曲家が、自身の楽譜にはしばしば「ノビルメンテ(高貴に)」という発想記号を書き記した人であることを思い起こさずにはいられない気品ある音楽。厳しさの中の優しさ、甘さの中の苦み、翳りの中の光が感じられる音楽。
「夜の歌」の冒頭で静かに提示された主題は、次第に音域を上げ、ヴァイオリンとピアノが有機的に絡み合いながら、幅広くて大きな歌へとヴォルテージを高めていきます。その音楽の昂揚からは、自分の心の奥底から湧き起こって来た思いにじっくりと向き合い、時が熟した瞬間に翼を与えて解き放ち、自分自身も高みへと羽ばたきたい、そんな切実な祈りが聴こえてくるような気がします。
このアルバムを聴くたび、一曲目が「夜の歌」であってくれて良かったと心から思います。もしも「愛の挨拶」や「朝の歌」だったとしても、それはそれで悪い訳ではまったくないのですが、私の心を一瞬にして柔らかくしてくれる「夜の歌」を聴いていると、音盤の制作時、よくぞこの曲を冒頭に持って来ることを決めてくれたと、勝手に感謝したくなります。
「夜の歌」で心の凝りがほぐれた後は、約50分間、エルガーの音楽に包まれ、心の中にたまったさまざまなものを外に吐き出し心を軽くすることができます。私の心の中を占めていたものをじっくりと手にとり、まっすぐに向き合いながら自分自身の内側と対話する。すると、自分の頭を占領して悩ませていたことは、視点を変えて客観的に見てみると大したことはなくて、解決する方法はちゃんとあるのだと気づいたり、今自分が抱えている問題は冷静に考えれば私には制御不可能なのだから、「明日は明日の風が吹く」と問題を先送りして構わないと割り切れたりします。
とは言え、実際のところは、何一つ事態は解決したりはしていません。音楽を逃げ場にして現実逃避しているだけです。音楽を聴くだけで問題が解決したり、痛みや苦しみがスッキリしたりしてくれていれば良いのですが、そうは問屋が卸さない。ただ、音楽を聴くプロセスを実践する中で自分を客体化できるからでしょうか、私自身の心の持ちようが変わって随分と気が楽になることは確かです。そして、この音楽に向き合っている間は、背中に背負っている荷物も、顔につけていた仮面も、とりあえずはいっぺん横に置いて、素(す)のままの自分でいていいんだ、私はここにいていいんだという安堵が広がっていきます。
その感覚を何かにたとえるとするならば、心から信頼している人に、思い切って悩みごとを相談した時に得られるものに近い気がします。
これは私だけのことかもしれませんが、人に悩みを打ち明けて相談する時というのは、抱えている問題を解決するにはどうすればよいかという「答え」を求める一方で、相談相手に自分の辛い気持ちを分かってほしい、優しい言葉をかけて慰めてほしい、もっと言うと、自分という存在を認めてほしいという一種の甘えが心のどこかにあります。冷静で客観的な失敗分析や叱責、あるいは建設的で前向きなアドバイスをもらいたいから相談する訳ですが、実はそれ以上に「あなたがどれだけ頑張って来たか、どれだけ辛いか、よく分かってるよ」という承認の言葉をもらいたいという思いがある。この人は自分の気持ちを理解してくれているというたしかな実感を得た上でなら、相談相手の言葉は、素直に聞くことができるし、もらったアドバイスから前向きに次の一歩を踏み出せる気がするからです。
加藤知子と江口玲のエルガーを聴いて得ることのできる感覚は、まさに「分かってるよ」の言葉に続いて、自分にとって価値のある良きアドバイスをもらったときのそれに近い気がしてならないのです。
それはとりもなおさず、この音楽の作り手と紡ぎ手が、智に働くのも、情に竿さすのも、どちらかに偏ってしまうと失敗する、とかくこの世は生きにくいと身に沁みて知っている人たちであり、他人の痛みを我がこととして感じ、相手に一対一で向き合って一言共感の言葉を贈ることのできる人たちでもある、だから、私のことも理解してくれるのではないかと思えるからです。
勿論、そんなのは私の勝手な印象論です。彼女らの演奏の何が、私のどこに、どのように作用したからそのような感覚が生まれたのかを、科学的、音楽学的観点からはまったく説明できないからです。しかし、一介のファンでしかない私にはそんな作業は手に余りますから、死ぬまでに答えらしきものに近づければいいやとのんびり構え、今はただ、私に力を与えてくれる音楽に感謝しながら、そのありがたさ、素晴らしさを無心に味わいたいと思います。
ところで、エルガーのヴァイオリン曲は、最近人気の高い協奏曲やソナタを始め、個別の曲を見れば古今東西かなりの数の録音がありますが、このように一枚に網羅的にまとめられたアルバムは、イギリス音楽に造詣の深い藤野竣介氏が、初発当時のライナーノートで書かれていたようにさほど多くはなく、発売後20年近くを経た今も状況はさほど変わっていません。
こんなに素敵な曲ばかりなのにと不思議な気もするのですが、エルガーのヴァイオリンの作品集だけのアルバムとなると、余りに地味過ぎて数字が見込めないのかもしれません。そう考えると、コロムビアが、リスキーな企画のディスクを制作して世に送り出したのは勇気が要ったのではとも思えるのですが、演奏者も制作サイドも、内容に自信があったゆえの決断に違いないと確信したくなるほどに素晴らしいアルバムです、ありません。
前述の「夜の歌」に限らず、25分を要する堂々たる内容をもったヴァイオリン・ソナタの味わい深い演奏(特に第2楽章のロマンス!)、有名曲ということに甘えず自らの音楽を貫き通した「愛の挨拶」、気品溢れる表現が心に残る「朝の歌」「気まぐれ女」「マズルカ」、どれもこれもこれらの曲の魅力を存分に楽しむことができます。
中でも特に気に入っているのが、トラック12の「ため息(ソスピーリ)」です。弦楽合奏版が有名なこの珠玉の小品、私はヴァイオリンとピアノによるバージョンは初めて聴きます。弦楽合奏だと、聴いていると沈鬱な表情の中に沈み込んでしまう曲で、それはそれでたまらない魅力なのですが、この加藤知子の演奏は暗いながらもどこかに希望のようなものを見出せる音楽として響きます。そして、聴き終った時には、このアルバムは私のために制作されたのではないか、演奏者もただ私だけに向かって演奏してくれているのではないかという牧歌的な思い込みに身を浸してしまいます。
本来、こうした地味なアルバムは、どちらかと言えばマイナーなレーベルが得意とする分野です。例えば、先日、創設者にして名プロデューサーのブライアン・カズンズが亡くなった、イギリスの独立系レーベルのシャンドスのような。クラシックに限らず、ポップス、ジャズから、落語や学校教材など、ありとあらゆるジャンルの音盤を発売する大きなレーベルであるコロムビアとは、レーベルとしてのあり方が随分と違う。
しかし、リリースから時が過ぎ、我々を取り巻く環境も随分と変わりました。今は、何でも一つの場所で揃う百貨店やショッピングモールよりも、街の中心から離れていても、拘りのある商品やメニューで勝負する個性的な専門店の方へと関心が移っているような時代です。大きなレーベルも従来の名曲名盤路線、あるいは知名度の高いアーティストの売れ筋路線だけではやっていけなくなりました。そして、まさかというくらいに大きなレーベルが、そのロゴマークもろとも市場から消えていきました。
代わりに、この加藤知子のエルガーの曲集のように、音楽の作り手と聴き手が対話できる親密な雰囲気をもった音盤が求められ、愛されるようになりました。そう考えると、このアルバムは、20年近くも前に今の状況を先取りした名盤の一つとして挙げられるのではないでしょうか。
このアルバムの持つ意味は、それだけにはとどまりません。
世知辛く、生きづらさが満ち溢れ、心に傷を抱えながら生きている人の多い今、このアルバムを聴いて、音楽の「効能」を身をもって実感できる聴き手は、発売当時よりも随分と増えているのではないかと思うのです。
例えば、ポジティブな言葉に埋め尽くされた日めくりカレンダーを思わず裏返したくなるような時。
例えば、自分はこのままビリ○○○として一生を終えるんだろうかと言い知れない不安に襲われる時。
例えば、置かれた場所で咲いている自分がまったく想像できない時。
そんな時に、私と同じように、加藤知子と江口玲のエルガーを聴きたくなる人はきっとおられるはずと確信しています。もしそれが本当にそうだとして、果たしてそれは喜ぶべきことなのかどうかは微妙ですが、音楽のセラピストという視点から見ても、この素晴らしい名盤の存在意義は改めて見直されるべきなのではないかと個人的に思っています。
そう、あの日、橋のたもとで泣いていた女性に、そっとこのCDを手渡したら、彼女も加藤と江口の奏でエルガーの音楽から「分かってるよ」という言葉を聴き取り、涙を拭うこともできるのかもしません。妄想ですけれども。