音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.29

クラシックメールマガジン 2015年10月付

~夏休みの宿題 ~ 美空ひばり「一本の鉛筆」、石川セリ「死んだ男の残したものは」~

戦後70年を迎えた今年(2015年)の夏、巷ではたくさんの言葉が飛び交いました。
集団的自衛権、憲法、立憲主義、民主主義、デモ、そして戦争。
毎日のように耳に飛び込んでくる言葉たちに向き合っているうち、多くの人たちが同じことを口にしているのに気づきました。
戦争を望んでいる人なんていない
どんなに主張や立場が異なる人たちも、異口同音にそう言います。もっとも、その言葉の次に続く接続詞が「だから」なのか「だけど」なのかでまったく議論が噛み合わなくなってしまうのですが、ともかく、単刀直入に言えば、「戦争はいやだ」と誰もが思っているのは間違いありません。
この夏、とある女性歌手のライヴに足を運び、「一本の鉛筆」という曲を聴きました。「戦争はいやだ」という言葉が歌われる曲を。
その日は8月9日でした。女性歌手は「平和の意味を考えながら歌います」と短く前置きし、ライヴの締めくくりの曲として「一本の鉛筆」を歌いました。ギター一本の伴奏で、静かに、そして、しみじみと。
「一本の鉛筆」は、1974年8月9日に開かれた第1回広島平和音楽祭で美空ひばりが歌うために書き下ろされた(松山善三作詞、佐藤勝作曲)曲で、同じ年にシングル盤としてコロムビアから発売されました。
長崎の「原爆の日」に、広島の原爆をテーマにした、しかも、41年前のちょうど同じ日に初めて歌われた歌を聴くことの意味をかみしめながら聴きました。
歌の主人公である「私」が一本の鉛筆で紙に書く「戦争はいやだ」「子どもがほしい」「あなたを返して」「8月6日の朝」「人間の命」という言葉が胸に刺さるように響き、リアルな文字として目の前に浮かんでくるような思いがしました。
ライヴが終わってからも暫くは、「一本の鉛筆」の旋律と歌詞が、私の心に余韻としてずっと残っていました。
美空ひばりの歌うオリジナルを聴きたいと思いました。早速、コロムビアからリリースされている「美空ひばりベスト1964~1989」(COCP-36980)を購入して聴いてみました。
ゴージャスなストリングスのサウンドに乗って、朗々と、まるでカンツォーネのように「ひばり節」全開で歌い上げる歌。女性歌手が小さなライヴスペースで親密な雰囲気の中で歌った「一本の鉛筆」に深い感銘を受けた私は、オリジナルの壮大な広がりをもった歌とアレンジに一瞬たじろぎましたが、それでもやはり、一つ一つの言葉の重さが胸に沁みてくるような歌に聴き入ってしまいました。
美空ひばりの歌う「一本の鉛筆」を聴いていると、これは、一般的によく言われるように「反戦歌」であるというよりも、美空ひばりという歌手から、戦争で深い痛手を負った人たちへ向けての「応援歌」であるという気がしてなりませんでした。
戦争で愛しい人を失い、ささやかな幸せへの望みを断たれた「あなた」は、声を上げることもなく静かに、懸命に日々を過ごしている。でも、「あなた」の心の奥底にある戦争への憎しみと平和への願いは、二度と戦争を起こさないために、誰かが表現しなければならない。「私」は、一本の鉛筆と一枚の紙を手にして、「あなた」の心の言葉と平和の祈りの言葉を書き、音楽に乗せて歌い、世界へと伝えていく。だから、「あなた」は、「私」を信じ、希望を捨てず、頑張って生きてほしい・・・。
そんな風にマイクの向こうにいる不特定多数の「あなた」に直接語りかけ、両手を広げて聴き手を包み込んでしまうような、大きくて力強い歌に接していると、「一本の鉛筆」は、一人一人の聴き手の人生の何がしかを引き受けて生きようとする、美空ひばりの表現者としての強い意志表明、誓いであるように感じました。
1974年というと、高度経済成長の真っ只中。体制批判や社会風刺を取り入れたようなメッセージソングは余り作られなかったようです。しかし、そんな平和な時代だからこそ、臆せずに歌われた「戦争はいやだ」というまっすぐな言葉が、多くの人に新鮮な驚きと共感を与え、「いばらの道が続こうと 平和のために我歌う(出典:第1回広島平和音楽祭での美空ひばりの口上)」と「一本の鉛筆」を歌い上げる美空ひばりの姿が感動を呼び起こしたからこそ、この曲が広く受け容れられたのかもしれません。
では、今、2015年の夏を過ごした私たちは、この「一本の鉛筆」から何を聴きとり、何を感じ、考えるべきなのでしょうか。戦後70年を経て、戦争の記憶が急激に薄れつつある社会を生きている私たちは、美空ひばりの表現者としての決意にどう応えるのが良いのでしょうか。美空ひばりという歌手から、大きな夏休みの宿題をもらったような気になりました。
この夏に聴いた別のコンサートでは、谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけた「死んだ男の残したものは」を聴きました。
「政治的歌曲の夕べ」と銘打たれたレクチャーコンサートで、ベルトルト・ブレヒトの反戦的な意味合いの濃い詩をテキストにした旧東独の作曲家ハンス・アイスラーとパウル・デッサウ、そして林光らの曲がずらりと並んだ硬派なプログラムでしたが、特別枠のような扱いで武満の歌も取り上げられました。
20世紀を代表する現代作曲家の一人である武満徹が、美しく親しみやすい旋律をもった「うた」をいくつか残したことはよく知られています。「○と△の歌」「明日ハ晴レカナ曇リカナ」「翼」「小さな空」「うたうだけ」「三月のうた」など、ジャンルを超えた様々な歌手が思い思いのアレンジで歌っていますし、彼自身も何曲かを無伴奏の合唱に編曲して、これらの曲への強い愛着を明らかにしていました。
そんな武満の「うた」の中でも、この「死んだ男の残したものは」は、1965年にベトナム戦争に反対する集会で歌われたことで有名になった曲で、鮮烈な詩と、哀しげで切ないシンプルなメロディゆえに、多くの歌手によって歌い継がれ、多くの聴き手に愛されてきました。
この歌には、「一本の鉛筆」とは異なり、「戦争はいやだ」「8月6日の朝」などといった具体的な言葉は出てきません。まるで民謡か何かのように、「男」「女」「子ども」「兵士」「かれら」「歴史」が死んで何を残したかを淡々と歌っていくだけです。
しかし、「死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球/他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった」という言葉が歌われるのを聴いた時、これが戦争を強く意識した歌であると誰もが気づくはずです。事実、この歌は、ずっと「反戦歌」として知られてきました。
コンサートでこの曲を歌った新進気鋭のソプラノ歌手は、一つ一つの言葉に豊かな情感を込めて歌っていましたが、透明な声質とヴィブラートを抑制したピュアな歌い口のおかげで、この曲が本来持っている素朴な味わいは存分に生かされていて、しみじみと心からの共感をもって聴くことができました。
演奏会が終わってからも暫くは、「死んだ男の残したものは」で始まる歌詞とメロディが私の頭の中でグルグルと渦巻いていました。
手持ちのCDを改めて聴き直してみました。武満自身が編曲した無伴奏合唱版を数点、ポピュラー歌手が歌ったバージョンをいくつか。どれもそれぞれの良さがあって甲乙つけがたいのですが、長年愛聴してきて耳に馴染んでいるせいもあって、石川セリの歌が私の心に一番響きました。
石川セリが歌った武満徹のポップ・ソング集「翼」は、コロムビアから1995年11月にリリースされました(COCY-78624)。武満徹は石川セリの歌を好んで聴いており、いつか彼女に自分の歌を歌ってもらって楽しいアルバムを作れないかと夢見ていたところ、コロムビアのプロデューサー、川口義晴氏の提案で長年の夢が実現したとのこと。武満自身も制作に深く関わったそのアルバムは、タイトル曲「翼」がテレビのニュース番組のエンディングテーマ曲に使われたこともあって、武満自身が「僕のCDの中で一番売れた」と言うほどの大ヒット作になりました。
このアルバムに収められた「死んだ男の残したものは」は、服部隆之の手でボサノバ調にアレンジされています。哀しげでウェットな弦楽の前奏に続き、ギターとパーカッションが刻むボサノバのリズムに乗って、ほとんど表情を変えず、鼻歌でも歌うかのようなクールな石川セリの歌がすべり込んできます。
私が初めてこのボサノバ調「死んだ男の残したものは」を聴いた時は、それまでこの曲に抱いていたシリアスな「反戦歌」というイメージを根底から覆されたような気がして、とても驚きました。しかし、不思議なことに違和感がまったくないどころか、何度も何度も繰り返して聴くうち、実はこのような淡々とした歌い口こそ、この曲の求めている姿なのではないかと思うようになりました。
そうした私の漠然とした感覚を裏付けてくれるような話を、件のレクチャーコンサートで聞くことができました。
「死んだ男の残したものは」は、前述のように、1965年4月22日(24日という説もある)、お茶の水の全電通会館ホールでおこなわれた「ベトナム平和を願う市民の集会」のために詩人の谷川俊太郎が詩を書き、谷川自身が武満に作曲を依頼した曲で、バリトンの友竹正則によって歌われたのが「初演」とされています。
集会の前日に依頼を受けてその日のうちにこの曲を書き上げた武満は、「メッセージソングのように気張って歌わず、『愛染かつら』を歌うような気持で歌って欲しい」と手紙に書いて演奏者に渡したと伝えられています。
また、その集会の後、武満は「音楽家が個人として社会的な発言をすることと、音楽を通して社会的な発言をすることとは別だ」というような意味のことを述べ、翌年に「べ平連」と呼ばれる団体へと発展する集まりから脱退したというエピソードも紹介されました。
これらの話を聞いて、武満としては、「死んだ男の残したものは」を、ただ「反戦歌」として聴かれることに危惧を抱いていたのではないかという気がしました。
つまり、激しい政治的主張や、重いメッセージをこめた「反戦歌」は、聴き手をある特定のイメージへと誘導してしまう点で、戦時中に日本に溢れていた勇ましくも空疎な言葉や音楽と変わらない。自分はそんな暴力的な音楽を書きたくないし、書けない。だから、「メッセージソング」として力を込めて歌うのではなく、流行歌のような調子で軽く歌ってほしいと願ったのではないでしょうか。そう、「厭戦歌」として。
また、武満がこの歌を発表した後、社会運動と少し距離を置いたのも、自分が特定の活動に関わることで、自分の音楽を聴いてくれる人たちに対して余分なバイアスを与えてしまうのではないかという恐れを抱いたからではないでしょうか(ただし、武満は政治や社会に関する発言はたくさん残してはいます)。
さらに、詩として独立して読んでも強烈な力を持った「死んだ男の残したものは」は、武満自身も大いに共鳴していたとしても、あくまで他人の言葉なのであって、それが武満自身の言葉として受け止められることも本意ではなかった、ということもあるのかもしれません。
とにかく、武満は、単一のイメージに塗りつぶされた「閉じた」音楽を聴き手に押し付けるのではなく、聴き手の一人一人がそれぞれのイマジネーションを豊かに広げ、味わい、親しんでもらえるような「開かれた」音楽を書きたかった。そうすることで、同時代の、あるいは未来の聴き手とあたたかく繋がっていたかったのかもしれない。
レクチャーコンサートでこの曲にまつわる解説と演奏を聴き、そして改めて石川セリの歌を聴き直してみて、武満徹という表現者としてのありよう、あるいは、彼の音楽家としての矜持に触れるような思いがして、この曲に対する新たなイメージを得ることができました。
ただ、この曲についていろいろ調べているうち、分からないことが出てきました。
前述のように、「死んだ男の残したものは」は、1965年4月のベトナム戦争反対の集会のために書かれたというのが定説のようですが、武満自身、岩城宏之指揮東京混声合唱団が録音した無伴奏合唱曲集のCD(ビクター)に寄せた解説の中で、この曲のことを「1960年の安保集会のために書いた」と述べているのです。あれ?と思って、石川セリの「翼」のライナーノートをよく見てみると、曲の由来に対する解説はありませんが、クレジットには確かに「1960年」と書かれています。
もしビクター盤と、石川セリ盤のライナーの通り、「死んだ男が残したものは」が1960年に安保集会のために作られたというのが本当だとすると、曲に対するイメージが少し変わります。
「死んだ兵士が残したものは こわれた銃とゆがんだ地球」という言葉が歌われるのは、ベトナム戦争という具体的な戦争への反対ではなく、アメリカとの同盟を強化する新しい安全保障条約の締結への反対の流れの中で出てきたものであって、終戦から日の浅い時期、日本が再び戦争に巻き込まれるのではないかという危惧と、「戦争はいやだ」という拒絶を表明したものであると捉えることも可能なのかもしれません。
であるならば、ボサノバのリズムに乗って、聴き手のあらゆる戦意を喪失させてしまうような気怠い「死んだ男の残したものは」は、「厭戦歌」としての意味合いを明らかにするという点で「正しい」ものであるような気がしてきます。
戦争の焼け跡の中で、たまたま生き残ってしまった「あなた」と「私」。すっかり疲れ果て、絶望と孤独の中でうつむくしかない。それでも、明日は間違いなく巡ってくる。何にも残ってはいないけれど、「戦争はいやだ」という思いだけを共有し、何とか生きていこうと手を差し伸べる。ひとりぼっちの作り手である「私」は、ひとりぼっちの聴き手である「あなた」とゆるやかな共感で結ぶことのできる歌を書く。
石川セリの歌を聴いていると、「一本の鉛筆」に聴きとることのできるものと相通じるような作曲家の肉声が聴こえてくるような気さえしてきます。
勿論、本当に武満がそんな思いで曲を書いたのかは知る由もありませんし、私の想像は間違っているのかもしれません。しかし、武満自身は、前掲のビクター盤のライナーで、自身の歌をアマチュア合唱団が楽しげに歌うのを聴き、「私の意図とは別の風景の中で、うたごえが谺する。作、編曲者としてはこれに勝る歓びはない」と書いています。ですから、今を生きる私は、心おきなく、それが正しいかどうかに拘泥することなく、自分自身のリアルな問題として、この歌から何を聴きとり、何を感じ、考えるべきなのかを自問し、答えを探していきたいと思います。ここでもまた、武満徹という作曲家から、大きな宿題をもらったような気がします。
ところで、「一本の鉛筆」も、「死んだ男の残したものは」も、特定の目的のために書かれた「機会音楽」でした。下手をすると使い捨てられたかもしれない音楽が、こうして今も生き残って聴くことができるのは、勿論、それらが音楽的に優れたものであるからには違いないのですが、忘れたくないのは、「残る」かどうか分からない音楽を、記録として「残す」ことに情熱を傾けた人たちがいたということです。
商業的に数字が見込めたから録音し発売したという側面はあるにせよ、価値のある音楽を残したい、時代の記憶の中に刻み込みたいという音盤制作者たちの愛情と熱意がなければ、私たちはこれらの歌を聴くことができたかどうか。後世の人たちが、自分たちにとっても価値のあるものとして探し出してくれるかどうか。
美空ひばりの歌も武満徹の曲も、ただのノスタルジーの対象ではなく、いつまでもアクティブな意味をもった音楽として聴き継がれるよう、誰もがアクセスしやすい形でアーカイヴするという大きな使命を、コロムビアを始めとする音盤制作者の方々がこれからも脈々と果たして下さることを心から願いますし、一人の聴き手としても折に触れてこれらの音楽に向き合い、たくさんの宿題をもらって答えを探していきたいと思っています。
私たちは、一本の鉛筆や一枚のザラ紙をスマホやタブレットPCに持ち替えました。たくさんの言葉や音を発信し、受信し、蓄積できるようになりました。でも、結局のところ、死んだ後にも「残る」ものなんて微々たるもの、いや、何もないのかもしれません。後の世代の人たちが2015年を振り返って見る時、やはり「戦争はいやだ」という言葉を噛みしめながら、「一本の鉛筆」や「死んだ男の残したものは」を聴くことになるのでしょうか。
いや、できることなら、戦争という言葉の意味が分からない、これらの曲が現実離れし過ぎていて何が良いのかさっぱり分からないと言ってもらえるような世の中になっていてほしいものです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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