山口百恵の「秋桜」の歌詞そのままのような、小春日和の穏やかな、とある日曜の午後のこと。自宅の居間でCDを聴いていたら、家族の熱い視線を感じました。
そうか、私もようやく家族から尊敬を得られる存在になれたのかと喜んだのも束の間。彼女らは、高校生の長女が紙に書いているものと私を見比べ、何やらニヤニヤと笑みを浮かべているではないですか。「君たちは一体何をしておるのだね?」とヘッドフォンを外し、サラサラと紙の上をすべる鉛筆の先をのぞきこむと、そこには、一見して私がモデルと分かる似顔絵がありました。
髪はボサボサ、無精髭は延び放題のむさ苦しいおっさんの絵。我が娘ながら巧い!と感心してしまうほどに、私の顔の輪郭や表情の特徴をよく捉えていて、思わず爆笑してしまいました。
でも、私の似顔絵の横に、こんな言葉が添えられていてギョッとしました。
哀愁。
これはどういう意味かと長女に尋ねずにはいられませんでした。すると、娘は、「前からお父さんの後ろ姿に哀愁あるなと思ってたし、時々、何でか分からないけど可哀想になって同情してしまう」とバツが悪そうに答えました。
私の心の中に木枯らしが吹き荒れるのを感じながら、高校生の頃から何人もの人に「背中に哀愁がある」とからかわれることが多かったのを思い出しました。本人としては、猫背で姿勢が悪いだけだろ?と思うのですが、自分の娘にまでも指摘されるということは、やっぱりそうなのかと愕然としました。
その時私が聴いていたCDは、荘村清志と福田進一という二人の名ギタリストが共演して録音した"Duo"でした。Hakuju Hallで彼らが中心となって毎夏開催している「ギターフェスタ」の10周年を記念して制作されたもので、今年(2015年)2月にそのHakuju Hallでの録音。
娘が私の似顔絵に一言書き添えたくなったのは、私が聴いていたこのCDの音が、私の表情にそのまま反映されていたからというのも大きいのではないかと思います。
例えば、冒頭のモリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」のテーマ曲。左チャンネルから聴こえてくる荘村清志が弾くメロディの、十分にヴィブラートのかかった、しかも、自己の内面に向けて発せられたようなひそやかな音色。右チャンネルで、荘村の歌を慎ましく、時折さざ波のように起伏を作りながら支える福田進一のギターの音。まさに「哀愁」に満ち溢れた音が常に溢れているのです。
同じことが、その他の曲にも当てはまります。マイヤーズの「カヴァティーナ」然り、プーランクの「エディット・ピアフを讃えて」然り、ファリャやグラナドスの曲然り。アルビノーニの「アダージョ」も、そして3人の作曲家への委嘱作もまた。
仄暗く、幾分、内向的な音色と、陰影に富んだ穏やかな語り口がぴったりと寄り添った荘村の音楽と、明るくて開放的な音色の裏に、繊細で研ぎ澄まされた感性が見え隠れする福田の音楽。もしかすると正反対なのではないかというくらいに異なった趣をもった二つの音楽ですが、実はその根本では、「哀愁」という共通項で結びついている、そう感じずにはいられない音楽です。
中でも、特に、映画「ディア・ハンター」で印象的に使われていた「カヴァティーナ」が気に入っています。
普段はギターのソロで聴くことの多い曲(原曲は歌なのだそうです)ですが、荘村や福田の後輩にあたる鈴木大介の編曲が実に美しい。前半は原曲の旋律と伴奏を二人で分担し、後半は一人が原曲を弾き、もう一人が旋律にハーモニーをかぶせて歌うのですが、かつて一世を風靡した「"人"という字は、人と人が支え合ってできている」という金八先生のセリフを口にしたくなるような、心からの優しさに溢れたデュエットなのです。
日常の些末な出来事に振り回され、重い足を引きずって家に帰り、疲れ切った体と心を休めようとこのアルバムを聴くと、特にこの「カヴァティーナ」が心に沁みます。
生きることの喜びも哀しみも熟知した人からしか生まれようのない、慈しみに満ちた音に触れ、私の心は共鳴する。心の中にどっかと根を張ってしまった重たいものは、決して私の中から消えはしないけれど、音楽と心の共振とともにちっぽけな欠片へ分解されていく。哀愁は哀愁によって解毒され、自分のものになっていく。私はこうやって哀愁を身にまとってきたのでしょうか。
このように、"DUO"は、私にとって、自分の内部にある「哀愁」と向き合うことのできる大切なアルバムですが、それとはまた違う幾通りもの楽しみ方が可能です。
その一つが、荘村清志、福田進一という音楽家と、ギターという楽器の「今」を感じること。彼らは何と言っても、現役バリバリのギタリストであり、新しい音楽の紹介にも常に力を注いできた、とんがった音楽家。そんな彼らの真骨頂は、ギターフェスタで産声を上げた新しい作品3曲から如実に感じとることができます。
まず、名作「タンゴ・アン・スカイ」で知られるチュニジア出身のギタリストで作曲家のローラン・ディアンスの「ハクジュ・パルス」。2014年の委嘱作。
無機質で乾いたリズムパターンをベースにして、仄かな甘美さを帯びたモチーフや、ピアソラを想起させるような官能的な匂いを漂わせたハーモニーが、断続的に立ち現れてはリズムに絡みつき、やがて消えていく。独特の疾走感の中で音楽は高まっていき、互いに別個に音楽を紡いでいた2人のギターの音がいつの間にか合流し、雪崩れ込むようにしてゴールへ到達する。
私はいつもこんなイメージをもって聴いています。
Hakuju Hallのある代々木公園近く(正確には富ヶ谷)の道を車で走り抜ける。車窓を流れる公園の景色や、遠くに見える大都会の風景、通り過ぎていく人たちの姿を見ながら、何となく自らの心の中にある感情のざわめきに気づく。そのうち、車は渋谷の交差点に到達し、そこを行き交うたくさんの人たちの姿が突然現れる・・・。それは余りにもタイトルから受けるイメージによってバイアスをかけ過ぎた聴き方でしょうか?
技術面でも、メンタル面でも、相当に高度なものが要求される音楽ですが、だからこそ、この二人の名手たちの腕の見せどころ満載の音楽であるとも言えます。鮮やかで切れ味の鋭い音楽の中から、時折、哀愁が立ち昇る、そのさまの何と美しいことか。彼らは持てる技を惜しみなく出し切って、この曲の魅力を私たち聴き手に十分に伝えてくれているのだと思います。
次は、トルコ出身のピアニスト、ファジル・サイの書いた「リキアの王女」。2009年の作品です。
全体を通じて使われているロクリア旋法の生み出す不思議な音空間が、何とも妖しく艶っぽい。静かに始まったアンニュイな雰囲気の音楽が、突如(3分24秒あたりから)ロックのようなタテノリのビートを刻んだ音楽に転じ、二人のギターの音が互いにヴォルテージを高めながら、なだらかにクライマックスを築いていく。理屈抜きにかっこいい音楽。
荘村と福田の二人は、どんな場面でも決して慌てず、騒がず、落ち着き払って淡々と音を奏でているのですが、目のすわった静かな迫力をもった音楽が聴こえてくる。
内藤陳とか北方謙三といった人たちの顔が思い浮かびます。「ハードボイルドだど」という言葉と一緒に。あるいは、80年代前半に流行った言葉を使うなら「渋い」、あるいは、数年前に流行った言葉なら「チョイワル」というような形容をしたくなるようなダンディな音楽です。ダンディでハードボイルドな音楽は、「哀愁」が必ずセットになっていなければなりません。その点、この二人の演奏は文句なし、です。
そして、久石譲の2012年委嘱作の「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」。
ジブリのアニメの作曲家として世界に名を轟かせている久石が、そのルーツであるミニマル・ミュージックの手法を駆使して書いた作品です。
ミニマルというデジタルな音楽のつくりの中に、時折顔を出す和風の音階の使い方からは、「となりのトトロ」に出てきた「まっくろくろすけ」や、小さなトトロがちょこちょこと動いているさまを思い浮かべずにはいられない。久石ワールドのエッセンスの詰まった音楽と言えるでしょうか。
でも、それ以上に、私にとって興味深いのは、民主主義的なプロセスのメタファーであるような、あるいは、もっと個人的な人と人との対話を音楽にしたような、私という聴き手の日常的な体験を具体的に想起させる音楽であるところ。
一小節たりとも同じ拍子になることがないというくらいに噛み合わない2つの音楽。互いの主張を別々に交わしながら、徐々に盛り上がって同調しそうになったかと思えば、急に立ち消えになって議論がしぼむ。それを何度か繰り返した末に、最終的な結論は保留にしたまま、暫定的な落としどころに落ち着く。
人という字は・・・というのとは違い、「孤独とは人と人の間にあるもの」という言葉を思い起こさずにいられない。人と人が完全に理解し合うことなど不可能。常に漸近線でしか折り合うことのできない存在。だけど、いや、だからこそ、分かりあえないと分かっていても、人と人は惹かれ合い、結びつく。そんな孤独のありようを孕んだ音楽には、やはり哀愁を感じずにはいられない。
この"DUO"は、私にとって、「哀愁がそこにあるから」、繰り返して聴いてしまうアルバムなのでした。
しかし、私が声を大にして言いたいのは、この荘村と福田という素晴らしい音楽家が聴かせてくれる哀愁には、否定的な意味合いはまったくないということです。私のように「同情したくなるような可哀想な人」としてのそれじゃなくて、人生のお手本としたくなるような素敵な哀愁。
哀愁とは誰しもが抱く普遍的な感情であり、人生を豊かにしてくれるかけがえのないもの。歳を重ねるごとにそんな哀愁を身につけることができるのなら、歳をとるということは何と美しいことなのでしょうか。アンチ・アンチ・エイジング。
ジャケット写真でにこやかに向き合う二人の音楽家の柔らかい表情を見ていると、このアルバムで聴くことのできる「哀愁」とは、実感のこもった、人生の肯定と同義なのかもしれないとさえ思います。
ならば、私は、友人たちに「背中に哀愁がある」と言われ、娘に私の似顔絵の横に「哀愁」と書かれるのも、なかなかいいことなんじゃないかと自分で自分を肯定してあげるべきなんでしょうか。
ところで、ギターのアルバムということでは、コロムビアからほぼ同時期にリリースされた2枚の音盤も素晴らしかったので、ご紹介したいと思います。
まず、朴葵姫の"フェイバリット・セレクション"。
彼女がデビュー以来、フォンテックに録音したものも含め、通算5枚のアルバムの中から彼女自身がセレクトした曲をコンピレーションしたベスト盤。ボーナストラックとして、武満徹編曲の「イェスタデイ」と、デイアンスの「タンゴ・アン・スカイ」が収められ、さらに彼女の演奏風景を収めたDVDが付き、ライナーノートには彼女自身が書いた楽曲紹介と、濱田滋郎さんとの対談が掲載されています。ファンとしてはたまらないディスクです。
誰もが驚嘆するトレモロ奏法とレガートの美しさ。楽器の存在を忘れてしまうような、心から生まれ出たものがそのまま音にまで昇華されてしまったような自然さ、さりげなさ。それらは技術的な課題をことごとく克服した末に生まれてくるものであって、ギターという楽器の新しい可能性を強く感じさせるもの。
でも、それ以上に、やはり彼女のギターには「哀愁」がある。私は、彼女の音楽のそこが好きなのです。それは勿論、荘村と福田という、彼女の師匠筋にあたる名手が聴かせてくれるそれとはまったく同じではないのですが、共通するところはたくさんあります。
恥ずかしさをこらえながらポエムじみたことを言いますが、この人たちの音楽にはいつも「愛」が満ち溢れていると思うのです。
かつてシューベルトはこう言ったそうです。「愛を歌えば哀しみになり、哀しみを歌えばそれは愛になる」と。"DUO"や"フェイバリット・セレクション"を聴いていると、そのシューベルトの言葉を想起せずにはいられません。
例えば、私が実演で聴いて思わず落涙してしまったスカルラッティのソナタと、ボーナストラックの「イェスタデイ」は特にそうですし、リョベートやバリオス、ジスモンチらの曲での凛とした抒情にも同質のものが聴きとれます。
愛と表裏一体の哀愁がそこにあるから、私は朴葵姫のギターを好んで聴くのでしょう。次回作はどんなものになるのか、リスナーからのリクエストに応えてどんな作品を弾いてくれるのか(私は不覚にも応募するのを忘れてしまいました!)、楽しみでなりません。
そしてもう一枚。クラシックではありませんが、昨年デビューした遅咲きのギタリスト、濱口祐自の二枚目のアルバム、"Going Home"にも触れずにはいられません。
国籍、ジャンル、すべてがごった煮のようなバラエティに富んだ内容のアルバムですが、どれも一貫して「哀愁」と「愛」を感じずにはいられない音楽ばかりです。人間は、大自然の悠久のリズムの中では、ほんのちっぽけな存在でしかない。だからこそ、人間は、自然を愛し、人を愛せずにはいられない。そんな思いの込められた音楽なのです。
極めつけは、アルバム最後に収められた彼の弾き語り「しあわせ」。日々繰り返される自然の営みの中で、私たち人間は、ただ日々を繰り返しているのか、それとも日々生まれ変わっているのか。そう問いかけずにいられない。でも、日の移り変わりと同じように、「しあわせ」もまた、必ずやってくる。そんなあたたかな肯定へとたどりつくさまを、濱口は、どことなく潮の香りのする嗄れ声で、ゆったりと、しみじみと、漂うように歌い、奏でる・・・。
沁みます。とにかく沁みる。濱口の口癖である「ええのう」という言葉が、腹の底から出てくる。
"DUO"、"フェイバリット・セレクション"、"Going Home"。立て続けに何と素晴らしい音盤と出会えたことでしょうか。まさにギター三昧の三枚、でした。
これらを聴いていると、これまで以上に「哀愁」を身にまとった人間として生きていきたいと心から思います。ただし、背筋はピンと伸ばして。