音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.32

クラシックメールマガジン 2016年2月付

~父性と母性の黄金比 ~ ブルックナー/交響曲第0番 スクロヴァチェフスキ指揮読売日響~

指揮者の仕事とは何でしょうか。
指揮する曲のスコアを読んで音楽の明確なイメージを持ち、それを手や体の動き、あるいは言葉や顔の表情を使ってオーケストラに伝え具体的な音にする。本番では、自分とオーケストラの両方をリアルタイムで臨機応変に制御して最良の結果を引き出す。少し考えただけでも超人的な質と量の仕事をこなさねばならないことが分かります。知力・体力・時の運、すべてが必要。
では、それらの仕事のうち一番重要なものは何かというと、「指揮台に立つ」ことではないでしょうか。指揮台なしで指揮をする人もいますし、椅子に腰かけて指揮する人もいるので、「オーケストラの前にいる」と言った方が正確かもしれません。
なぜそんなことを言うかというと、指揮者がただ「オーケストラの前にいる」ということそれだけで、その素晴らしい音楽が成り立っているとしか考えられないような演奏を経験したことがあるからです。
昨年発売されたスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日響によるブルックナーの交響曲第0番のディスクで聴ける演奏が、まさにそうです。

それは、事前に綿密に作り込んだ上でないと到達不可能なほどに練り上げられ、ライヴ録音(2014年10月、東京芸術劇場)とは信じがたいほどに高い完成度を誇る演奏なのですが、聴いていて作為というものが一瞬たりとも感じられません。指揮者がオーケストラの前で汗だくになってタクトを振り、楽器の入りを指示したりバランスを整えたりしている姿がほとんど想像できないのです。
スクロヴァチェフスキという指揮者が、ただオーケストラの前にいさえすれば、彼を心から信頼する音楽家たちが共に音楽を作り上げていく喜びを心の底から感じる。主従関係とか、年齢差とか、国籍の違いなどあらゆる壁を超え、この音楽の前ではすべての音楽家は平等だというような幸福な一体感に包まれる。そのあたたかな場の中から「無為自然」としか言いようのない音楽が、まるで泉から水が湧き出るかのように滔々と流れ出す。勿論、実際にはスクロヴァチェフスキは間違いなく「指揮」をしているはずなのですが、そんなさまがありありと目に浮かんできます。
録音の直前に91歳になったスクロヴァチェフスキという指揮者の到達した高みと、長年のパートナーシップによって築かれたオーケストラとの信頼関係があってこそ言えることかもしれませんが、このレベルの演奏になると、指揮者の最も重要な仕事はやはりオーケストラの前に立つことなのだと思わずにいられません。
しかし、この演奏の魅力は、ライナーノートで広瀬大介さんが書かれた「全曲中にちりばめられた、木訥ながらも力強いこの作曲家の音楽語法は、すでにこの時期からほぼ完成した形で登場し、後期の名作へと一本の道で繋がっていることに気付かせてくれる」という一文にほぼ集約されているように思います。
そう、この演奏は、ブルックナーの音楽の魅力を余すところなく感じさせてくれることにこそかけがえのない価値がある。そして、私にとっても、ブルックナーの音楽への新しい視点を与えてくれた演奏であって、そのことが最も意義深いのです。
ブルックナーの音楽への新しい視点とは、「父性と母性」です。
心理学者の河合隼雄によれば、すべてのものを主体と客体、善と悪、上と下などに「切断する」という機能は父性原理に基づく行為であり、一方、すべてのものを良しにつけ悪しきにつけ「包含する」機能を持つのは母性原理なのだそうです。
ブルックナーの音楽には、その河合が言う父性と母性の両方が存在しているということはこれまでも感じていました。
例えば、ブルックナーの交響曲には、オーケストラの全楽器が同じテーマをユニゾンで奏でる部分や、弦楽器が半音階の混じった激しいパッセージをやはりユニゾンで奏でる上で金管が荒々しく咆哮するパッセージが必ず出てきます。「最後の審判」を想起せずにはいられないような厳しく屹立する音楽を聴いていると、時折こっぴどく叱られているような気分になります。申し訳ありませんでした、私が悪うございました、と土下座して謝りたくなることもあります。
あるいは、ソナタ形式をもった両端楽章の第2主題や緩徐楽章などで、聴き手の心を優しく包み込んでしまうような美しい旋律や響きに触れていると、どんなに出来が悪くてダメな子供でも自分を無条件で愛してくれる存在をそこに感じて、ああここに自分の居場所があると慰めを得ることができる。
私がブルックナーの音楽を聴いて誰かに叱られているような心持ちになるのは、「良い子だけがわが子」という父性原理の厳しさに触れた時の反応なのかもしれませんし、ブルックナーの音楽に包み込まれて幸福感を味わうというのは、「わが子はみんな良い子」という母性原理に触れた心のありようそのものと言えそうです。

私はこれまで、ブルックナーの交響曲の中では、そうした父性と母性は排他的に存在していて交互に表れるというイメージを漠然と持っていました。一つの交響曲は、複数の部屋から成り立っていて、ドアを開けて進んでいくごとに「父性の部屋」と「母性の部屋」が入れ替わり立ち替わり現れる。そして、最後には父性に認められた「良い子」だけが、神様に天国へ引き上げてもらえる、というような。
ところが、このスクロヴァチェフスキの第0番では、ブルックナーの音楽にある父性と母性の両方が、いつも同時に感じ取れるのです。聴き手を突き放す決然とした音楽の中にもあたたかい包容を、あるいは、傷ついた心を慰撫する優しい音楽の中にも厳しい鼓舞を感じる。この演奏の景色にある複数の部屋は父性と母性の両方の特質をもっていて、常に互いに開かれた状態で繋がっている、とでも言えば良いでしょうか。
河合隼雄の本によれば、そもそも人間の心の中には父性と母性の両方が存在していて、ある程度融合しながらも、どちらかが優勢で片方が抑圧された状態にあって対立しているのだそうです。人間の心のありようからしてそうなのであれば、ブルックナーの交響曲の中に父性と母性が同時に存在しているのだとしても何の不思議もありません。
しかも、この演奏では、その父性と母性はどちらかが優位に立ってせめぎ合うのではなく、常に手を結び合って融合している。ブルックナーの音楽と、生きることの喜びと哀しみを隅々まで知り尽くした老巨匠なればこそ、彼自身の中で父性と母性が分かちがたく結びついていて、人間の美しい心のあり方をそのまま音楽として表現することができたのかもしれません。
そう考えると、これまでの私の漠然としたイメージは一度脇に置いて、ブルックナーの音楽は、第0番に限らず、どの交響曲のどの瞬間をとっても、そこには父性と母性が常に同時に存在して融合しているのだと捉えた方が自然である気がしてきました。
例えば、切断するという特質から破壊へと向かいかねない父性の激しさを母性が包み込み、包含という機能からすべてを呑み込みかねない母性の執着に父性がブレーキをかけながら、最終的に父性と母性が完全な融合へと向かっていく。そんなイメージをもって彼の交響曲を捉えてみれば、ブルックナーの音楽を私なりにもっと深く味わうことができるかもしれない。今一度、私のブルックナーの音楽に対する耳と感性を育て直してみたいという欲望がムクムクと湧き起こって来ているところです。
ブルックナーの音楽と「父性と母性」。この組み合わせ、私はとても気に入っています。音楽を聴いていない時も、いろいろと考えています。
例えば、ブルックナーの交響曲の演奏会では、どうして休憩の時に男子トイレにだけ行列ができるのか?河合隼雄によると日本は母性原理が優勢な社会なのだそうですが、ブルックナーの熱烈なファンに男性が多いということは「父性と母性」というキーワードからある程度説明がつくのではないか?
まだ生煮え状態なのですが、今、私の中に仮説があります。それは、どんな聴き手もブルックナーの交響曲の中にある父性と母性をごく自然に両方感じ取っているのだけれど、その融合の仕方に聴く人それぞれの「黄金比」のようなものがあるのではないかというものです。その黄金比は、聴き手がどんな生き方をしてきたのか、音楽に何を求めているのか、生きる上で何を大切にしているのかなどの要因で決まるのです。
一度ブルックナーの音楽に魅せられてしまった聴き手は、自分にとってかけがえのない黄金比にぴったりとはまる演奏を追い求める。また、黄金比を決める基準には男性と女性との間で有意な差があるから、ブルックナーの音楽がもっぱら男性に人気があるのかもしれない。
その仮説が正しいかどうかなんてまったく分かりませんが、自分自身のことを考えてみると満更間違ってもいないような気がします。
スクロヴァチェフスキと読売日響の第0番の演奏を聴いて父性と母性を同時に感じるような体験をした時、私の中に巻き起こった感情にどことなく覚えがあるように思えてなりませんでした。懸命に記憶を遡っていくと、少年の頃に見たドラマ「3年B組金八先生」第2シリーズの「卒業前の暴力」という回の一シーンへとたどり着きました。
金八先生のクラスにいた不良生徒の加藤が、生徒を押さえつけ管理しようとする先生たちに反抗するため放送室に立てこもり「俺たちを腐ったミカン扱いするな!謝れ!」と呼びかけます。そこに警察がやってきて放送室に突入し、加藤や、彼に賛同した生徒たちは補導されます。金八先生は、加藤が釈放されるといきなり彼を殴り(それは絶対にしてはならないことですが)、すぐさま抱きしめます。「お前らは俺の生徒だ。忘れんな!」と言いながら。
スクロヴァチェフスキが指揮する第0番を聴いた時に感じたものは、そのシーンで加藤を抱きしめる金八先生の姿をテレビで見て感じたものと同質のものなのかもしれないと思いました。あの金八先生の姿こそまさに父性と母性が同時に現れた人間の姿であり、その融合のあり方こそが私にとっての黄金比だったのかもしれません。
金八先生を演じた武田鉄矢や、金八先生のモデルとされる尾木ママ(尾木直樹氏)の顔を思い浮かべると、随分とブルックナーの音楽とは遠い話のようにも思えますが、どちらも私という人間の根幹に触れるような体験を与えてくれたものという意味では等価です。
ブルックナーの音楽について考えながら金八先生の一場面を思い起こすことで、分かったことがあります。
母子家庭で育った私にとって、父性と母性に同時に触れる経験はしたことがありませんでした。だから、あのドラマを見た時、「同時に立ち現れる父性と母性」というものに強い憧れや渇望を感じたのかもしれないということ。そして、少年の頃からブルックナーの音楽を聴くのが好きだったのも、そうとは気づかないままに、私のそうした憧れが満たされることに、大きな喜びを感じていたからかもしれないということ。
たとすると、私はブルックナーの音楽を、かなりウェットなやり方で愛してきたようです。それは歪んだ愛し方、聴き方かもしれず、ブルックナーの音楽を理解したとも到底言えませんが、それが私という人間なのだと開き直るしかありません。一人の聴き手として、これまで通りウェットにブルックナーの音楽にずぶずぶ浸りたいと思います。

このスクロヴァチェフスキ指揮の交響曲第0番は、たまたま河合隼雄の「母性社会日本の病理」という本を読んでいた時期に聴いたので、「父性と母性」という言葉が私の中で容易に結びついてしまったという面はあるかもしれませんが、いずれにせよ、このディスクを通して、ブルックナーの音楽と、自分という存在とに真正面から向き合い、いろいろと考えを巡らせる機会が得られたことはとても幸せでした。
今年1月、スクロヴァチェフスキは再び来日して読売日響とブルックナーの交響曲第8番を指揮しました。私はその演奏会には行けませんでしたが、コロムビアのスタッフの方々がフェイスブックで書きこんだコメントを拝見すると、それがいかに感動的なコンサートだったかがひしひしと伝わってきました。できることならその録音がいつか聴けることを願いたいし、それ以上に、巨匠には、これからも健康に気をつけて、ただオーケストラの前にいてくださいと心からお願いせずにはいられません。
そして、私は尾木ママのように父性と母性を両方同時に発揮できる人間になりたいし(来月から口調が変わるかもしれません)、PCの前に座るだけでデジタル家電製品の制御プログラムが書け、この「音盤中毒」の原稿も書けてしまうような、そんな人間になりたいです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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