音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.33/h2>

クラシックメールマガジン 2016年3月付

~惚れたものの強み ~ ショパン/ピアノ協奏曲第1、2番 仲道郁代(P) 有田正広指揮 CPT~

今月は、仲道郁代のピアノと、有田正広指揮クラシカル・プレイヤーズ東京(CPT)によるショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番が収められたアルバムについて書きます。
2010年8月に東京芸術劇場でセッションを組んで録音され、同年12月の発売以来、評論家からもファンからも高く評価されている名盤。優秀録音としても知られ、今はSACDのシングルレイヤー盤、ハイレゾ音源としても発売されています。
リリース後5年も経ち、既に広く知られた音盤をご紹介するのはかなりの今更感があり気後れしてしまいますが、どんなものにも出会うタイミングがあり、私はたまたま今このディスクに出会う運命だったのだと開き直って書くことにします。
さて、このディスクの最大の特徴は、ショパンの2曲のピアノ協奏曲を彼が愛用したのと同じプレイエル社1841年製のピアノ(複製ではなく現存するオリジナルの楽器!)と、本格的な古楽オーケストラで演奏した恐らく世界初の試みであること。そして、彼が直接編集に関与したと思われる楽譜を使用し、当時の演奏記録や楽器の演奏法など最新の研究成果を取り入れ、ショパンが思い描いたであろう音楽の「本来の姿」の再現を目指していること。
勿論、音楽の本来の姿が、本当に正しく再現されているかどうかは判断ができません。ショパンの頭の中で響いていた音楽がどんなものだったか、200年近くも前の初演の場で聴衆がどんな音楽を聴いたかなんて知る由もないからです。
しかし、仲道と有田/CPTの演奏の魅力は、時代考証的観点からこれが正しい、あるいは正しいと思えることではなくて(だって、正しいかなんて分からないのだから)、立ち昇ってくる音から「正しくあろう」とする演奏家の姿勢が感じられることにこそあると思います。
既にこの演奏をお聴きになった方は皆さん同意して下さると思うのですが、この演奏では、ピアニストもオーケストラのプレーヤーも、皆、ショパンの書いたすべての音を大切に大切に扱っていることが容易に見てとれます。どんなに細かいパッセージでも一点一画をおろそかにせず、きちんと鳴らすことに細心の注意を払っている。

特に、仲道郁代のピアノは、ショパンの書いた音を細大漏らさず音にして聴き手に伝えること、それこそが演奏家の使命と任じ、同時に最大の喜びでもあると感じて弾いている、そんな演奏ぶりです。
例えば、オーケストラの音の間を縫うようにして、ひたすら分散和音を弾き続けるような場面。ペダルを踏んで適当に流しても良さそうなところ、彼女はすべての音をごまかさずにクリアに弾いていて、その執念を感じさせるひたむきさは聴いていて胸が痛くなるほどです。しかも、その一つ一つの音に細かいニュアンスがつけられていて、ただの几帳面なだけの四角四面な演奏ではないこともはっきりと感じ取れます。
また、弱音でしっとりと歌われる抒情的な場面でも、決してテンポやリズムを崩すことなく淡々とした運びの中でくっきりと旋律線を描き、音楽のもつ「かたち」を明確に感知させてくれます。
そうした彼女の演奏の特質は、まず彼女が弾いたプレイエル製のピアノという楽器の制約への要請から生まれたものだと考えられます。
仲道の目下の最新盤であるショパンのワルツ集のライナーノートに書かれているのですが、彼女がプレイエルのピアノを初めて弾いた時に驚いたのは、フレーズの終わり、音の終わりが残らず、音がいとも簡単に消えてしまうことだったそうです。だからこそ、儚く消えていく音が手からすり落ちてしまわないようにという意志が強く働き、すべての音を慈しむような音楽が奏でられているのではないでしょうか。
しかし、私は、ただ楽器の特質に合わせたという以上に、演奏者自身の何かとても強い意志が働いた結果として、この演奏のかつてないほどの克明さが生まれているような気がしてなりません。
それは、ショパンの「音の言葉」を紡ぎ出そうという意志と言えば良いでしょうか。
少し前、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明の文章を読んだのですが、ドイツ語は子音が多く、それらを時間をかけてはっきりと発音し、母音と同じくらいの長さにすることで独特の美しいリズムが生まれると書いてありました。その考え方は、音楽を「歌う」よりも「語る」ことに重心を置いた古楽ではとても有効なのだとも。

その「時間をかけて子音を発音する」という原則が、このディスクの演奏でも徹底されているようです。つまり、音がすぐさま減衰して消えてしまう古楽器を前に、子音に当たる音たちがきちんと聴き取れるようにちゃんと時間をかけて発音するということ。その結果、私たち聴き手は、生き生きとしたリズムと言葉を持った「語る」音楽に触れられる。
何を語っているのかは分かりませんが(具体的には何も語っていないのですから)、少なくともその口調は、フレデリック・ショパンその人のものに違いない。彼の心の中から生まれ楽譜に封じ込められた言葉が、いまを生きる演奏家たちの手によって解放され、彼自身の息遣いや脈動となってよみがえる。時に情熱を込めて雄弁に、時に自らの内側に沈潜するように繊細に語る彼の姿が、実物を見たこともないのに目に浮かぶようです。
どうしてそこまでして?と思うほどにすべてをクリアに弾く仲道の演奏には、きっと彼の言葉にもっと触れたい、何を言っているのかをはっきりと知りたいという切実な願いが根底にあるのだろうと思います。素晴らしい音楽を書いた作曲家に対してほとんど恋をしているのではないかというほどに心底惚れ込む。惚れ込んだ以上は、作曲家の発した言葉にを、何一つ漏らさず、何一つ余分なものを足さず、語り尽くさずにはいられない。
ショパンは私たちに何を語りかけているのか、その言葉の意味するところを正しく表現するためには、音楽をいろいろな角度から複眼的に捉えて、使われているレトリックを読み解いて楽譜の背後にあるものをいったん言語化し、それを理解する必要があります。さらに、全体を俯瞰して曲の組み立てと輪郭を見定め、論理を組み上げてしっかりと筋の通ったシナリオへと仕上げる。演奏にあたっては、準備段階で作り込んだものを完全に血肉化した上で自らを解き放ち、作曲者と対話することに集中する。

どれも膨大な時間と労力、そして並外れた能力を必要とする作業に違いありませんが、彼女がそれらを強靭な意志をもって、しかし、嬉々としてこなせているのは、彼女がショパンの音楽と、その音楽に込められた言葉に、心の底から惚れ込んでいるからではないでしょうか。惚れた者の弱みなどということを言いますが、彼女の演奏の場合は、まさしく惚れたものの強みになっている、そこに私は激しく共感します。
しかも、彼女の演奏には、とびきりの「華」があります。
この音盤を聴いていると、ショパンの協奏曲におけるピアノは、まるでベルカントオペラのプリマドンナのように振る舞っていると思える時があります。例えば、第2番第1楽章でオーケストラだけの長い序奏が終わってピアノが初めて登場するところや、その第2楽章のクライマックスの後、弦楽器の弱音のトレモロを背景にピアノが旋律を歌うところ。超絶技巧を駆使して一定の枠組みをもった型の中で自由に振る舞い、人間の感情の高まりから深みまでさまざまな心のありようを語り、歌うさまは、まさにディーヴァ(女神)の立ち居振る舞いそのもの。
また、これら2曲の協奏曲には、ショパンの若書きゆえのある種の過剰さがあるように思うのですが、それを決して冗長と思わせない演奏者の手つきが優しく、美しい。例えば、両曲ともに、音楽がクライマックスに達した後、既に言いたいことは伝わっているのに、さらにダメ押しのようなパッセージが延々続くような部分があります。仲道のどこまでも明晰さを追い求める演奏によって、そうした長い踊り場の存在が可視化されているのですが、しかし、思わず冗舌になってしまった若い坊やの言い分にじっくりと耳を傾け、本当は何が言いたいのかを的確にキャッチしてきちんと音にして表現しようとする演奏者の心遣いにたまらなく打たれます。それが先ほど述べたような演奏者の「正しくあろうとする」姿勢として伝わってくるのかもしれません。
このように強みも弱みもすべて受け容れた上で心底惚れ込んだ人だからこそ生み出せた美しい「華」には、これまでも多くの聴き手が魅了されてきたに違いありません。
そう考えると、演奏家の資質というのは、楽譜をきちんと読めること、楽器を使いこなしてレベルの高い演奏ができることのほかに、いや、それ以上に、音楽に「惚れ込める」ことが大事なんじゃないかとさえ思えます。ならば、仲道郁代というピアニストの卓越性、魅力は、とことん音楽に惚れ込めることにあると言えるのかもしれません。
例えば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を取り上げるに当たって作曲家の諸井誠氏とディスカッションして徹底的に音楽を分析したり、フォルテピアノやチェンバロの音色に魅せられて自宅に何台も揃えてしまったり、子供たちに音楽の素晴らしさを伝えるため俳優や演出家と組んで本格的に演劇の勉強をして舞台仕立ての学校を演じてみたり、そうした彼女の行動のすべては、まるで恋する乙女のように対象に惚れ込んでしまう彼女のありようが色濃く反映されたものではないでしょうか。
我が身に目を転じ、私は彼女のように「惚れ込む」対象を持ち、情熱を傾けて仕事をできているだろうかと考えてみると、いや、全然できていないなとしょんぼりしてしまいました。私は音楽家ではありませんが、自分の職業のプロフェッショナルとして、彼女の音楽のプロとしての姿勢から学ばねばならないこと、学びたいことはたくさんあるなと思いました。そして、仲道郁代というピアニストへの敬愛の念がぐっと深まりました。
仲道のピアノだけでなく、有田/CPTの演奏も素晴らしい。コロムビアのHPのインフォメーションにある「『ショパンの管弦楽は貧弱』というのは、俗説に過ぎなかったのだと聴くものを納得させるに十分なもの」という言葉の通り、何と雄弁で何と豊かな響きをもったオーケストラ伴奏でしょうか。
私自身は、その「俗説」を覆すような魅力的なオーケストラ伴奏を、これまでもいくつか聴いてきたつもりでいましたが、繊細な味わいが際立つ弱音から、改装前の東京芸術劇場の豊かな響きを味方につけた充実したトゥッティの響きまで、これほどまでに耳が快く刺激される演奏を聴いたのは初めてです。
この響きでベートーヴェンやシューベルト、そしてシューマンの交響曲を聴いてみたいと強く思います。バロックフルート演奏を通してバロック音楽の真髄を極め、古典派からロマン派の音楽でも大きな成果を挙げた有田が、これらの偉大な交響曲でどんな演奏を聴かせてくれるのか私はとても大きな興味があります。
ネットで検索してみると、今彼らは、仲道郁代との共演で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を定期演奏会で連続して取り上げているそうです。是非演奏会に足を運び、この耳で実際に聴いてみたいと思っています。
ところで、このアルバムはコロムビアが立ち上げた古楽専門レーベル「アリアーレ」の一環として発売されています。ジャケット写真は、「アリアーレ」のアルバムでいつも使われている有元利夫の絵ではなく、仲道と有田がプレイエル製ピアノの前で微笑む写真が使われていますが、人気ピアニストの登場ということもあって特例だったのでしょう。しかし、このアルバム発売後、アリアーレとしては寺神戸亮のテレマンが出たほかはリリースがありません。かけがえのない価値のあるアルバムを多数リリースし、優れた古楽器奏者の充実した成果を音盤に刻んできたアリアーレが静まり返っているのは、最近の日本の古楽シーンのさらなる活況を目にしているファンとしては少しさみしい気がします。このシリーズに連なる新しい音盤の制作など、どんな形でもいいですから、老舗レーベルとして、日本の古楽を牽引するような心躍る企画を私たちファンに届けて頂けたらと希望を述べ、この一文を閉じます。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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