音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.34/h2>

クラシックメールマガジン 2016年5月付

~敷居は低く 思いは高く ~ プラハ室内管弦楽団「プラハの夕暮れ」~

随分前のことになりますが、自分の好きな曲をレコードからカセットテープにダビングして、「マイベスト」的な小品集を作るのに熱中していた時期があります。愛聴していた小品をレコードを交換せず続けて聴けるようにしたいと始めたのですが、やってみるとそのプロセスが面白くてハマッてしまったのです。
まず、46分や60分のテープの両面に収まるように曲と演奏を厳選する。雰囲気が単調にならないようストーリー的な流れを作りながら、全体の構成を組み立てて曲順を決める。
次はいよいよ録音。録音レベルを合わせ、曲間の長さが最適になるようテープを頭出しして準備が整ったら、針を下ろした時のノイズが入らないように、また、冒頭の音が欠けないように細心の注意を払って録音を開始する。テープの残量とレベルメーターとにらめっこして録音を見守り、曲の終わりに絶妙のタイミングを見計らってポーズボタンを押す。時には手動で録音レベルを下げてフェードアウトもやる。それを曲の数だけ繰り返す。
仕上げは、カセットテープのインデックスカード作り。テープ付属のカードに曲目と演奏家を書き、気に入った写真を切り抜いてケースに挿み込んだり、背表紙をレタリングしたりと、ひと手間をかける。
思い出すだけでワクワクする楽しい作業を経て、私のためだけの、世界で一つしかない小品集が出来上がる。擬似的なモノ作りを通して自分のなにがしかを表現できる喜びに味をしめ、そうしたテープを数本作った記憶があります。今思うと随分とめんどくさいことをやっていたものだと呆れますが、何しろ暇だけはたっぷりあったのです。

その頃、私がどんなマイベストを作っていたかと聞かれれば、コロムビアから発売されている「プラハの夕暮れ」というアルバムのようなもの、と答えるのが最も正確だろうと思います。
「プラハの夕暮れ」は、20年以上前に発売されたプラハ室内管弦楽団によるアンコール集。タイトルから想像されるようにチェコの音楽をメインとした小品集ではありますが、必ずしもそれに限定したものではなく、チャイコフスキーやボロディン、シベリウスら他の国の作曲家の音楽を交えた構成になっています。
旋律の美しい静かな曲を中心に、おなじみの名曲とマイナーな秘曲が程よくミックスされた選曲。抑えた語り口の中に豊かな情感を込めた味わい深い演奏。オビに書かれた宣伝文句の通り、夕暮れや夜の雰囲気に似合いそうなアルバム全体の落ち着いた雰囲気。ああ、本当はこういうのが作りたかったんだよなとため息が出るほどに、すべてが私の好みにぴったり合う理想の小品集なのです。
特に、私がこよなく愛する弦楽合奏のための小品が何曲か収録されているのですが、その演奏が格別に素晴らしい。
例えば、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」やボロディンの「ノクターン」での凛とした気品と、しみじみとした情趣を兼ね備えた歌の美しさには惚れ惚れと聴き入ってしまいます。
アルバムの最後を飾るヤナーチェクの組曲からのアダージョも絶品。この組曲は、プラハ室内管が何度か録音した十八番ですが、哀しみをたたえたまなざしから生み出される静かで奥行きのある抒情と余韻が胸を打ちます。
そして、ドヴォルザークの「ノットゥルノ(夜想曲)」の弦楽合奏版こそはアルバム中の白眉だと思います。
前半は、冒頭の低弦のユニゾンによるモノローグ(独白)に導かれ、想いに深く沈み込むような瞑想の音楽がたゆたうように流れていきます。ほのかに憂いを秘めて漂うロ長調の透明な響きに浸り、時折ヴァイオリンが弾くターン音型に満たされぬ憧れを感じていると、過ぎていった楽しい時間への追慕や感傷、成し遂げられなかった目標や、現実に立ちすくみ保留にしてしまった決意への悔いや反省が心に去来する。
すると突然、立ち込めていた霧がぱっと晴れたかのように、明朗な響きと躍動に満ちたパルスが現れ、ヴァイオリンが希望をいっぱいに孕んだみずみずしい歌を奏で始める。心の高まりはやがて冒頭の瞑想の回帰と合流し、あたたかで静かな安らぎの中に融けていく。
プラハ室内管の演奏は、この前半から後半への静から動への転換と、最後の肯定へとたどり着く道すじが、私の知っている他のどの演奏よりも自然で美しい。特に後半の、節度を保ちつつ音楽の温度の高まりを余さず映し出すカンタービレと、旋律と対旋律の親密な対話、伴奏の心湧き立つような足どりは、どれも何と美しいことでしょうか。
このとびきり魅力的なドヴォルザークを聴いていると、小学生みたいな感想ですが、「ああ、音楽っていいな、音楽が私のそばにあって嬉しいな」という思いに満たされ幸せな気分になります。慌ただしい日常に追われ疲れ果てた一日の終わりには、こういう音楽から力を得て明日への希望をつなぎたいと思います。
アルバムのもう一つのチャームポイントである秘曲たち、すなわち、ブロデグの歌劇「泉のほとりで」から「月の出」、マルティヌーのバレエ「シュパリーチェク」組曲第2番からの「魔法の袋」、ネドバルのバレエ「ホンザ物語」からの「悲しきワルツ」の3曲も、どうしてこれが無名なのか不思議に思えるほどに魅力的な音楽ばかりです。 ブロデグの自然をのびやかに歌いあげる純朴さ、マルティヌーのモダンな音響と可憐な旋律との乾いた共存、ネドバルの甘美な夢幻の中に潜むメランコリー。いずれの曲も、大作曲家たちの名曲の間にあっても独自の魅力と存在感を主張していますし、愛情溢れる優しい演奏もまた印象的です。
その他の曲の演奏もどれも胸を打つものばかりで、落ち着いた音の彩りの中に豊かなニュアンスが込められていて、聴き手の気分を一つの色に塗り潰さず、聴くたびに自由に音楽を感じるのを許容してくれる。それが嬉しい。
アルバムのジャケット写真もいい。そこには、プラハの街の象徴であるカレル橋から撮影されたと思しきプラハの夕景が映っている。柔らかなオレンジ色に染まった空をバックに、右側にはゴシック様式の橋塔、中央に聖アッシジ教会のドーム、左手に聖ヤン・ネポムツキー像のシルエットが見える(ブックレットを見開きにすればさらに景色が広がります)。
ライナーノートの関根日出男さんによる、フィビヒやネトバルの数奇な愛の人生について書かれた詩的な文章を読みながらアルバムを聴いていると、ジャケット写真のプラハの夕暮れの一瞬を記録したカメラレンズの横では、世界から集まる観光客や、地元の仲間たちや恋人たちがどんなに親しげで愛に溢れた会話をしていたのだろうかなどと音楽とは関係のない想像や妄想を巡らせてしまいます。
こんな風に、選曲、演奏、装丁、いずれの面から見ても非の打ち所のない、まさにプロの手による優れた小品集を前にすると、かつて私が作ったマイベストは、それがどんなに私にとってかけがえのない宝物ではあっても、所詮は自分の部屋を私が居心地がいいように飾っただけの素人の戯れに過ぎないと当然のことながら痛感します。
その部屋に私以外の人が入ることも想定していないし、私が楽しんでいる音楽を他人に気に入ってもらおうなどとも思っていないからです。私の思い入れなど知る由もない他人が聴いたら、そのユルさに負けて寝落ちしてしまうに違いありません。何しろ作った本人でさえもそうなのですから。
一方、レコード会社から商品として発売される音盤は、不特定多数の聴き手を魅了する使命を帯びて作られたものです。その点から言えば、この「プラハの夕暮れ」というアルバムは、音楽を求める多くの人が足を踏み入れたいと思い、そこで充実した愉しい時間を過ごせる公園のような場であると言えるのではないでしょうか。
この誰にも開かれた夕暮れの公園で、静かな微笑みに満ちた、ちょっぴりノスタルジックな音楽に触れてひとときの至福を味わっていると、こんなにも素敵な場所を提供してくれた演奏者や制作者に心から感謝したくなります。
同時に、一人でも多くの人たちに音楽の魅力を届けたい、そのためには無用に敷居を高くしたりはしない、でも、聴き手に媚びず、本当に良いと信じるものを作るのだという、いわば「敷居は低く 思いは高く」とでもいうような作り手の矜持を感じずにいられない。ひとりの聴き手として、構えず気楽に、でも、存分にアルバムの魅力を味わい尽くしたいとしみじみと思います。
しかし、これはコロムビアに限った話ではないのですが、昨今は「プラハの夕暮れ」のような贅沢な管弦楽小品集の新譜がめっきり少なくなりました。そもそもオーケストラの録音自体が激減、発売されるものは定期演奏会のライヴ録音がほとんどという状況では、コストがかかる割には売り上げが見込みにくい小品集をセッション録音することなど到底考えられないことなのかもしれません。 「プラハの夕暮れ」が作られた時代からすると、聴き手の意識や環境も激しく変わりました。レコード会社の作る小品集に頼らずとも、聴きたい曲はネットを経由して単独で入手できるし、PCやスマホで呆気ないほどに簡単に「マイベスト」をプレイリスト化し、自分が聴きたいものだけを聴くこともできるようになりました。
これではオリジナルの管弦楽小品集がなかなか出ないのは、時代の流れと受け容れるしかないのでしょうが、それは私にとっては正直さみしいことです。これまで頬ずりしたくなるほどに愛おしい素敵なアルバムにたくさん出会い、今に至るまでずっとそれらを楽しんで聴いているからです。コロムビアの音盤では例えばイタリア合奏団の「プロムナードコンサート」や、「グローヴズ卿の音楽箱」を挙げましょうか。とにかく、できたてホヤホヤのオーケストラ小品集をもっと聴きたい。
でも、私は悲観していません。欧米のマイナーレーベルからはまだこうしたアルバムが時折リリースされていますし、最近オーマンディとフィラデルフィア管がかつてリリースした小品集がオリジナルの形で何点か復刻され、軒並みベストセラーになったことからも伺えるように、我々ファンの間で管弦楽小品集のニーズは消えていないと思うからです。ですから、また状況さえ許せば、いつの日か、私たちの心を惹きつけてやまない素敵な管弦楽小品集がメジャーレーベルから発売されることもあるはずと期待しています。
もちろん、コロムビアからも。最近の新譜のほとんどを占める器楽奏者や声楽家のリサイタルアルバムにも、確かに「敷居は低く 思いは高く」という作り手の思いがDNAのように刻み込まれていますから、「プラハの夕暮れ」のような名盤が生まれる素地は今もちゃんと残っていると確信します。さまざまな聴き手が、めいめいの楽しみ方と居場所を見つけられるあたたかな公園みたいなディスクを、これからもずっと提供し続けてもらえますように。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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