冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の第5楽章「銀河鉄道の夜」の中盤、こんな歌詞の賛美歌が歌われます。
いつなのか わかりませんが
主はわたしに いわれるでしょう
もうよい おまえのつとめはおわった
その地をはなれて ここにおいで
どこなのか わかりませんが
とわに平和に くらしましょう
御神とともに いつかどこかに
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この5月、冨田さんは「その地をはなれて ここにおいで」という主の呼びかけに応えられたのでしょうか、突然、あちらの世界へと旅立ってしまいました。この秋に予定されている新作「ドクター・コッペリウス」の初演に向けて、死の直前まで精力的に準備をされていたそうですから、「もうよい おまえのつとめはおわった」という言葉には猛然と抗議をしているはずですが、ともかく、今はあちらで平和にくらしておられるでしょうか。
私は最近、冨田さんが2012年に発表した「イーハトーヴ交響曲」を改めて聴き直しているところでした。しばらく聴いていなかったディスクを、ある日何気なく聴いてみて深い感銘を受けたからです。この曲でテキストとして使われた宮沢賢治の作品を読んだり、冨田さんの旧作を聴いたりして、その後再びこの曲に戻る、というのを繰り返しているうちに「イーハトーヴ交響曲」への愛着が日に日に増していたのでした。
「イーハトーヴ交響曲」は、冨田さんのトレードマークであるシンセサイザーではなく、主に大編成のオーケストラや合唱のために書かれた音楽であること以上に、それまでの冨田さんの音楽とは大きな違いがあるように感じます。
彼のシンセサイザーのアルバムで聴くことのできるのは、確かにドビュッシーやホルスト、ムソルグスキーらの楽曲の楽譜に書かれた音に違いありませんが、御存知の通り、冨田さんはただ楽譜を忠実にたどって音楽を作るのに飽き足らず、個々の音に対してシンセサイザーにしか作れない多彩な音色や質感を与えて鳴らしたり、様々な音をサンプリングし一種の効果音として合成したりして、原曲の持つ面白さや味わいを徹底的に拡張しています。
五線譜には到底書ききれないような自由で多彩な振る舞いをもった音たちが、電気エコーによって作られた広大無辺の無重力空間の中で浮遊するさまを聴いていると、自分がまるで宇宙の暗闇の中を遊泳しているかのように思え、まだ行ったことのない遥かなる宇宙への憧れや畏れを強く感じずにはいられません。それはあくまで聴き手としての私の中に湧き起こる感覚に過ぎないのですが、そのとてつもない強度を思うと、作り手の冨田さんの中にも同じような思いが、もっと強い形であったのではないかという気がします。
一方、「イーハトーヴ交響曲」は、もっと人間的、地上的な音楽です。何しろ、300人にも及ぶ人たちの息遣いや、身体の動きによって作られたリアルな音から成り立っているし、宮沢賢治が書き残した具体的な言葉で歌われるのは、たとえ架空のものであったとしても、あくまで地球上の景色であり、地球から見た星や夜空です。徹頭徹尾、血の通った人間が主役の音楽なのです。
確かに、この曲では人間の声をサンプリングしてコンピュータに歌を歌わせるヴァーチャル・シンガー、初音ミクが登場して、4つの楽章で歌ってはいます。しかし、それとて賢治の早世した妹トシの分身として登場している訳で、その声には、この地球で確かに生きていた人のぬくもりがどこかに残されています。だからこそ、人間の作り出した音に自然に混じり合い、共に地上の音楽を奏でることができるのです。
冨田さんのかつての名盤から感じ取ることのできる宇宙への遠いまなざしは、この交響曲では地球に戻って来て、岩手を念頭に創作された架空の地イーハトーヴというユートピアへ注がれているかのようです。
冒頭から、岩手山に春の訪れを告げる「大鷲」の形をした雪形、種山ヶ原で夜通し踊る人々の姿が、賢治自身が遺した歌やダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」の旋律に乗せて合唱で歌われた後、賢治の代表作である「注文の多い料理店」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」の場面が描かれます。現実離れした不可思議なストーリーが扱っているのは、確かに異次元の世界の人物や出来事に違いありませんが、しかし、それらは地上に生きる私たちとまったく無関係ではありません。
「注文の多い料理店」で、初音ミクは、自分は「かりそめのボディ」をもった存在で、決して「パソコンの中から出られない」と歌います。彼女は、人間が作り上げた電脳空間にしか生きられない擬人化された架空のキャラクターですが、ダンディの書いたアラブ風の旋律に乗って歌われる歌を聴いていると、人間だって初音ミクと同じじゃないかという気がしてきます。
異次元ということなら、空気があるおかげで人間という生命体が生き、音楽などというものを作り楽しんでいるこの地球こそ、大きな宇宙から見れば異次元の空間なのかもしれない。であれば、ミクがパソコンの中から出られないのと同じように、地球に住む私たち人間は、どうやったって地球の大気圏の中から出られない。かりそめのボディなのも初音ミクと同じ。ここから出たいと呪文をつぶやくけれど、いつまでも出られない。「注文の多い料理店」に閉じ込められそうになった二人の男たちのように、何者かに食べられそうになるかもしれない。
不気味にうなる風の音が不思議なオノマトペで歌われる「風の又三郎」に続いては、「銀河鉄道の夜」で、銀河鉄道に乗ったジョバンニとカンパネルラが見たケンタウルスの祭りの光景と、彼らの永遠の別れが歌われます。
銀河鉄道は、ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章のセンチメンタルな旋律に乗って天空を旅します。停車場に留まるたびに何人かが降りて、この世と別れを告げていく。そして、カンパネルラは、「ほんとうの天上」へ行き、「みんなのほんとうのしあわせ」をさがしにいくのだと言い残して消え、ジョバンニだけが地上へと戻っていく。
手回しオルガンを模した響きを背景に初音ミクが軽やかに歌う「ケンタウルスの祭り」の音楽も、敬虔な祈りを帯びて静かに歌われる賛美歌も、生者から死者への精一杯の祝福の音楽であり、ラフマニノフの甘やかな音楽は、生者と死者が最後のひとときを過ごせたことの幸せを歌った感謝の音楽なのかもしれない。そんな風にこの楽章を聴いていると、宇宙とは、地上から憧れ、畏れる場所であると同時に、いや、それ以上に、私たちがいずれ還るべき安らぎの場所なのだという視点が、この「イーハトーヴ交響曲」にはあるように思えてきます。
トミタサウンドの根底にあった、宇宙という未知の場所への冒険心に満ちた憧れは、この「イーハトーヴ交響曲」に至って、懐かしささえ感じる「ふるさと」としての宇宙への親しみと、私たちが住む地球への愛情をも包含し、もっと大きくてあたたかいものへと転化したのではないかという気がしてなりません。
一方、続く「雨にもまけず」の前半、ひたすら下降する力のない旋律によって歌われる人間の姿は、ひどくちっぽけで、弱々しくて、哀しい。人間とは、広大な宇宙、厳しい自然を前に、何と無力で何と儚い存在なのかと肩を落としてしまう。でも、後半に、人間の「弱さ」への明確な自覚ゆえに生まれる、ささやかな「強さ」への決意が、意志的なクレッシェンドを伴って歌われるのを聴くと、心が引き締まる思いがします。
地球という異次元の惑星にたまたま生まれてしまった私たちは、主から「もうよい お前のつとめはおわった」と許しをもらえるまでは、決して尊大になることなく、欲に惑わされることなく、謙虚に、地に足をつけ、互いに助け合っていかなければ生きていけない。最期の日を迎えるまでは、この地球で自分に与えられた役割をきちんと果たすべきだと、賢治の言葉と冨田さんの音楽は私たちにそう語りかけます。
そして、フィナーレでは、初音ミクの歌声が児童合唱と一緒になって、冒頭で歌われた賢治の「種山ヶ原の牧歌」を再び歌い、弦楽器を主体にしたシンプルで美しいハーモニーが鳴り響いてこの壮大な交響曲は幕を閉じます。
冨田さんにとって、宮沢賢治の世界を音楽にするのは小さい頃からの夢で、自らの音楽の集大成として発表する交響曲では、どうしても賢治の言葉をテキストとして使いたかったのだそうです。また、冨田さんは、若い頃にラジオでダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」を聴き、同時期に見た、雪解けの岩手山に浮かび上がった大鷲のような雪形の景色と、慣れ親しんだ宮沢賢治の世界と直接通じるものを感じたのだそうです。半世紀以上にわたって忘れられなかった鮮烈な体験を、彼はそのダンディの交響曲の旋律をフルオーケストラに演奏させることで見事に音楽として再現しました。
ひどく個人的な体験や思いを、長年の活動を通して培ってきた高い技法を駆使して、普遍的な力をもった音楽表現へと昇華させる。作り手が、作りたくて作りたくて仕方ないという表現への強い衝動を起爆剤として、無我夢中で作った音楽だからこそ、「イーハトーヴ交響曲」は私の心を打つのだろうと思います。
初演当時、何かと話題になった初音ミクの起用も、ボーカロイド界隈を賑わせている若い人たちにウケようというようなことではなく、ただただ自分が求めているイメージを具現化してくれる「歌」が可能だったからという、非常にシンプルな理由から決めたことであって、だからこそ、聴いていて「こうじゃなくっちゃ!」と叫びたくなるほどにぴったりとハマッているのではないでしょうか。
冨田さんは、ライナーノートに寄せた文章の中で、この交響曲が、東北、特に岩手の人々の「心の曲になれば」と願っていると書いていますが、いや、この曲は、国境や言葉を超えて多くの人たちにとってもかけがえのない価値を持った音楽になり得るのではないかと私は思います。初演以降も、この曲は何度か再演され、中国でも演奏されたというニュースを見た覚えがありますが、「古典」として定期的に実演で聴けるようになればいいなあと心の底から思います。
「イーハトーヴ交響曲」の世界初演のライヴ録音であるこのディスクには、ボーナストラックとして、アンコールで演奏された「リボンの騎士」のテーマ曲と、「青い地球は誰のもの」が収められています。前者は初音ミクが歌い、後者は阪田寛夫の詞を児童合唱が歌っています。
「リボンの騎士」を聴いて思うのは、これが決して子供を喜ばせるためだけに書かれた音楽ではないということです。手塚治虫が描きたくて描きたくて描いた漫画と、冨田勲が書きたくて書いた音楽が幸せなかたちで結びついた曲なのではないかと思うのです。高度に洗練された音楽に、幼少期に触れることができた(実際は再放送で見たのですが)のは、私としても幸せなことだったと誇りに思います。
また、「青い地球は誰のもの」は、「イーハトーヴ交響曲」で感じた、人間という存在のちっぽけさから生まれる地上的なものへの愛情と通じる音楽で、このアルバムを閉じるのにこれ以上の曲はないというくらい幸福な選曲だし、演奏です。
大友直人指揮日本フィルの、冨田さんの音楽への全幅の信頼と愛情を感じる演奏は掛け値なしに素晴らしい。随所に出てくるホルンのソロや、こぼれ落ちんばかりの弦楽器の美音など、挙げていけばキリがないほどの美質に溢れた演奏に心から感謝したくなります。
声楽陣も、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団の、統制のとれたハーモニーと、元気いっぱいのエネルギーが両立した児童合唱はすこぶる魅力的ですし、慶応のワグネル・ソサエティー、聖心女子大学グリー・クラブの合唱も、若人たちの気力漲る若々しさが眩しい。特に、「雨にもまけず」で聴かせてくれる心のこもった真摯な歌には胸を打たれます。
この記念碑的なコンサートで歌うことのできた若者たちは、今どこで何をしているのでしょうか。冨田さんの「イーハトーブ交響曲」で合唱に参加したという大きな幸せを一生の糧として、豊かな人生を歩んでくれますようにと願わずにいられません。
残念ながら、冨田さんはもうこの世からいなくなってしまいました。でも、私たちは止まってしまったオルゴールを巻き戻しさえすれば、彼の遺したたくさんの魅力的な音楽をまたいつでも聴いて楽しむことができます。音楽の中で冨田さんと出会い、あのホルストの「木星」のように、あるいは「銀河鉄道の夜」で互いの名を呼び合うジョバンニとカンパネルラのように、冨田さんの声と一緒に歌い、響き合い、交信することもできるのかもしれない。そう願いながら、私はいつまでも冨田さんが遺してくれた音楽を聴き続け、愛し続けたいと思います。
そして、「もうよい」と主に呼ばれて私があちらに行った時、冨田さんが、あのちょっとはにかんだようなチャーミングな笑顔で、私に「おかえり」と声をかけて下さるのではと期待して、この世で課せられた私の「つとめ」を地道にこなしていきたいと思います。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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