音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.38

クラシックメールマガジン 2016年9月付

~ダンディズムに酔う ~ 福間洸太朗「モルダウ~水に寄せて歌う」~

福間洸太朗の目下の最新盤、「モルダウ~水に寄せて歌う」。 アルバム冒頭、福間自身によるピアノ編曲版、スメタナの「モルダウ」の力強いコーダに続いて、私の耳に飛び込んできたのは、打って変わって、そよ風のように爽やかな音楽でした。
のびやかで人なつっこい旋律が、アルペジオの伴奏に乗ってサラサラと流れていく。ハ長調のハーモニーは刻々と移ろって淡く彩られ、音の景色も少しずつ変わっていく。強弱やテンポが揺らぎ、高揚と鎮静を繰り返しながら、憧れに満ちた思いが胸いっぱいに広がっていく。「青春」などという言葉を当てはめてみたくなる、はにかんだような初々しいロマンに満ちた音楽。
何と美しい曲だろう!とジャケットを手にとって初めて、それがビゼーの「ラインの歌」の第1曲「夜明け」だと知りました。
「ラインの歌」は、メリーという詩人の詩に霊感を受けて書かれた、全部で6曲からなる曲集。個々の曲には「夜明け」「出発」「夢」「ジプシー女」「ないしょ話」「帰還」と、物語のようなタイトルがつけられています。
メリーの詩が読めていないので、その内容と曲想がどれほど一致しているかは分かりませんが、みずみずしい旋律に溢れ、平易な語り口で親密に語りかけてくる小品たちは、自由に想像力を羽ばたかせて聴くだけでも十分に楽しい。
調べてみると、「夜明け」は、NHK-FMの音楽番組のオープニング曲として使われているのだそうです。確かに、耳にすんなりと入ってくる優しい音楽は、昼下がりのひととき、クラシック音楽を届ける番組の幕開けに相応しい。
しかし、「ラインの歌」が一般に膾炙しているとは言い難い。音盤では、FMで使用されているジャン=マルク・ルイサダ盤以外に目ぼしいものがなく、実演で聴いた記憶もない。もっぱら「カルメン」や「アルルの女」など限られた曲で知られる大作曲家の、知られざる作品という見方が一般的なはずです。
そんな「秘曲」を、福間は、なんと深い愛情を込めて、なんと魅力的に奏でていることでしょうか。アルバムのタイトルを「ラインの歌~水に寄せて歌う」としても違和感がなさそうなくらい。
彼は、腕の立つ子なら小学生でも弾けてしまいそうなほどにシンプルな音楽を、腕によりをかけ、一級の美しさをたたえた佳品として聴かせています。作曲者が煩わしいほどに楽譜に記したテンポや表情の指示は控えめに守るにとどめ、音楽が自然に息づき、流れが途切れないことを何よりも優先する。この曲集の最大の魅力は「歌」にあると見定め、ピアノを存分に歌わせる。でも、そのカンタービレには常に節度と気品があって、甘美さ一方には決して傾かない。
結果、「ラインの歌」という曲集は、幅広い聴き手を引きつけずにはおかないような親しみと、アルバム中の他の名曲と並べても遜色のない、格調の高い詩情の両方を得て、生き生きと鳴り響く。
前述の「夜明け」の清々しい歌、「夢」での雰囲気に逃げない凛とした抒情、「ないしょ話」でのうつむきがちな自省にはこの上ない魅力を感じます。福間自身も音楽雑誌のインタビューで絶賛している前掲のルイサダ盤は、なるほど濃厚な味わいをもった演奏で忘れがたいものではありますが、福間の演奏は決してひけをとるものではありません。
そのほかの曲の演奏も素晴らしい。福間は、オーケストラ曲を編曲した音楽であれ、多彩な顔ぶれの作曲家の小品であれ、その凛とした美しい立ち姿を崩すことなく、クールに弾きこなしています。
技術的な難所であればなおのこと、技術的な困難など一切存在しないかのようにサラリと涼しい顔をして通り過ぎていく。難度の高い技をこなすだけでなく、激しい練習と、それに伴う多大な苦労の跡を、決して受け手に悟られないことに魂を込める。
そんな福間の姿からは、最近の彼の活動からの連想かもしれませんが、フィギュアスケートや体操のアスリートを思い浮かべずにはいられません。
多様性を持ち、ひねりの効いた選曲も魅力的です。ショパンやメンデルスゾーンらの名曲、「モルダウ」など有名曲の編曲版のいくつかと、「ラインの歌」のようなマイナーな曲たちが、バランス良く収められています。クラシック音楽に馴染みのないリスナーから、かなりのマニアまで、幅広い聴き手の興味をそそるであろう多彩なランナップは、あらゆるピアノ小品集の中でも際立ったユニークさを誇っています。
そして、福間は、知名度や、要求される技術の高低に関わらず、すべての音楽たちに同質の愛情と情熱を注ぎ、丹精に奏でています。誰もが振り向く大輪の花ばかりでなく、道端に咲く名もない花も分け隔てなく愛でる。マイナーな音楽の持つある種の「弱点」を作曲家の個性として受け容れ、独自の魅力をもった音楽として蘇らせる。しかし、聴き手と音楽の間に立ちはだかったりはせず、ひたすら音楽に奉仕する。
そんな福間の音楽への限りない愛情と、どこまでも謙虚な姿勢には、頭が下がる思いがします。
マニア心をくすぐる秘曲がいくつか収められているのも、このアルバムの大きな特徴ですが、中では、シャリーノの「アナモルフォシ」が忘れがたい。難解な作風で知られる現役作曲家の作品で、ラヴェルの「水の戯れ」の隙間から、傘を持ったジーン・ケリーがチラッと顔を出すという洒落たユーモアをまとった二分足らずのアンコールピース。ここでも福間は、何事もなかったかのようにすました顔でクールに演奏していますが、だからこそ、引用された音楽のミスマッチの面白さがダイレクトに伝わってきて愉しい。福間は知性派ピアニストのイメージが強いのですが、実はウィットに富んだチャーミングな方なのではないかと思えてきます。
ほかにも、その名前さえも知らなかったウィリアム・ベヴァンズという作曲家の「孤独な難破船」の、どことなく不気味で哀しげな響きにも魅せられますし、田部京子の名演があるリャードフの「舟歌」、舘野泉がかつて愛奏していたカスキの「夜の海辺にて」での、どこまでも澄み切った抒情は胸に沁みます。
凝りに凝った選曲の裏には、福間自身が打ちたてた明確なコンセプトがあります。それは、ライナーノートに彼が寄せたコメントによれば「水と関係が深く、歌に満ちた抒情的な曲を集め、様々な景色を巡りながら聴き手をロマンティックな旅に誘う」というもの。
つまり、「水」を起点に「歌」と「旅」につながる音楽を集めたコンセプトアルバムなのです(「水」は、彼の名前にある「洸」という漢字の「さんずい」に由来)。それだけでも好奇心をそそられずにいられないところですが、それとは別のところに、一味違う面白さがあります。
福間洸太朗という音楽家の内にあるパーソナルな物語が、徹底的に第一人称で語られていくうち、聴き手である私自身の物語へと変容していく。福間は彼自身の「わたしの物語」を語りつつ、同時に「あなたの物語」をも紡いでいるということになる。
結局のところ、聴き手が福間のペースに引き込まれているにすぎないのですが、彼は聴き手に決してそうとは意識させない。それどころか、聴き手を嬉々として彼の術中にはまって「わたしの物語」を感じたいとさえ思わせる。こんなことがどうして可能なのか不思議でなりませんが、そこが面白い。
演奏、選曲、コンセプト、いずれにおいても、吟味され尽くした思考と、鍛え抜いた技を惜しみなく注ぎ込みながら、聴き手の側の自由な感性の息吹を引き出す。宮本武蔵の「五輪書」を愛読している彼のこと、武術にもそのような技があるのでしょうか。いずれにせよ、そんな福間の音楽家としてのありように、「さりげなさの美学」ともいうべきダンディズムを感じます。
媚びることも、高踏的になることもなく、しなやかで、一本筋の通った音楽家としてのありようを貫く。弱いもの、小さなものへの視点を忘れず、自分が良いと思うものには愛情を注ぎ、高度な音楽づくりを実践する。しかし、自らの個性は音楽の背後に慎み深く隠し、聴き手が音楽と出会い、音楽そのものの魅力を楽しむことを妨げない。私のような凡人には及びのつかない、高い境地を垣間見る気がしますが、素晴らしかった前作からも、たゆみなく進歩を続ける福間の姿が頼もしく思えます。
個々の曲についてあまり触れられませんでしたが、前述の「ラインの歌」や「アモルフォシ」以外では、演奏会での好評と、ファンからの強い要望を受けてスタジオ録音された「モルダウ」の華麗な編曲と演奏から強い印象を受けました。
また、シューベルトの音楽に深く傾倒している私としては、リストが編曲した3曲の歌曲の演奏の素晴らしさを忘れることができません。
とりわけ「水上にて歌う」からは、水面から恐ろしい深淵をのぞき込んでしまった人間の心のおののきが感じられます。この短い歌曲の中には、具象から抽象、外部から内部、生から死、移ろいゆく一瞬から永遠へと視点を移動する「旅」が詰まっていますが、それはシューベルトの音楽の根っこにあると感じているものです。ユニークな聴体験をもたらしてくれる音盤の只中にあって、心から愛するシューベルトの音楽が生きているというのは幸福なことです。
男が男に惚れるダンディズムに貫かれた「水に寄せて歌う」は、どんな切り口から、どんなふうに切って接しても、尽きせぬ面白さ、楽しさを見出すことができるアルバムです。この次に、彼がどんな素敵なダンディズムで私たちを酔わせてくれるのか、心から楽しみです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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